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ふくろう通信IX

by 墓場のふくろう

201[2001/06/21]ロードムービー
202[2001/07/08]それはまた別の話
203[2001/08/01]フィールドに入る2
204[2001/08/02]生物の対話的関係に関する考察
205[2001/08/03]人と自然の媒介物について
206[2001/08/04]エネルギー効率のよい機構
207[2001/08/05]世代間の交流について
208[2001/08/09]昔と今を知り、天と地を知る
209[2001/08/11]繋がること
210[2001/08/19]鏡としての他者について
211[2001/08/27]ことばを詰まらせるもの
212[2001/09/04]神戸で成長する
213[2001/09/07]脱中心化させられる遺伝子
214[2001/09/08]道具を使用すること
215[2001/09/09]音楽を理解する
221[2001/09/24]菌類の洗浄効果について
222[2001/10/03]私達に監視された私
223[2001/10/11]呟きの祈りについて
224[2001/10/22]ある「心理学者」の独語
225[2001/11/06]世界との共鳴的関係について
226[2001/11/19]星に願いを
227[2001/11/30]平均的な発言について
228[2001/12/01]Living in the material world
229[2001/12/02]出会いの場について
230[2001/12/03]Global Identity Protocol
231[2001/12/08]平行関係
232[2001/12/14]白昼夢
233[2001/12/16]過去からの手紙
234[2001/12/30]子どもでありつづけるということ


本文

201 [2001/06/21 00:06]ロードムービー

  霍建起監督作品「那山 那人 那狗」(邦題:「山の郵便配達」1999年)の物語が、あまりにも単調で、あまりにも淡々と展開、回転するにもかかわらず、場面場面が静かな感動に満ちているのは、そこに人と狗、人と人との対話がダイナミックに展開するからではなく、人と人との繋がりを、無為に阻む山という存在が、狗という媒介者を通じて、常に登場人物たちを包み込んでいるからに他ならない。
 ここでは自然は、人々によって克服される存在ではなく、そこに人々を寄り添わせる存在として、物語の展開にいやがうえにも情感を付与させるのだ。
 しかし、この物語が、一つの完結した桃源郷のエピソードに終わらず、我々に緊張感を残して終わるのは、その山の世界に、自動車道や電波塔が、人と自然の不可分且つ有機的な連関を横切るように、異次元のコミュニケーション回路を着々と構築していく現実が、これまたリアルに描かれているからでもある。
 私は、精神的交通というものが、伝達主体でもなく、伝達媒体でもなく、その経路の有様に大きく制約を受けて展開するものであること、すなわち生態学的視点の必要を、この映像を体験する中で、深く感得した。

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202 [2001/07/08 22:20]それはまた別の話

 映画"AI"で廃棄されたアンドロイドが人間たちに虐待を受けるシーンで、彼らが非常に大人しく振舞っているのは、彼らがいかなる遍歴を経たにせよ、ロボット三原則が依然としてそこに貫かれているからであり、人間よりもおそらくは強力な運動機能や操作能力を有しているにもかかわらず、暴れ出すことなく檻の中に立ちつくしているのは、決して絶望の淵で呆然としているからではなく、人間の僕としての役割を全うするという人間の理想とした規範に忠実に従っているからである。
 それにもかかわらず、そこにユダヤ人迫害や黒人差別の新たな形態を見出してしまうのは、アンドロイドにたいして人間たちが示す眼差しに、あいも変わらず無様なふるまいの有様が描かれているからであろう。
 人間の理性的行動の疎外された形態であるアンドロイドという存在は、この映画においては、「感情」という、他者との「関係」を作り出し、豊かにすると同時に、その理性の根拠ともなるメカニズムをも(決して「故障」の結果としてでなく)実現してしまうのであるが、そのように実体化された「愛してもらいたい」という人間の要請を忠実に映し出す鏡ともいえるアンドロイドの少年は、もはや関係を形作る他者の無くなった、なんともいいがたく寂しい空間において、その生々しい対象たちを見出すことなく、終わりを迎えてしまうのである。
 私はこの映画のラストシーンを観終わって、宇宙の片隅に一人取り残されたような、なんとも物悲しい感覚にとらわれてしまったが、それは、映画の評価というよりも、鑑賞をおえた観客である私が、この物語の続編を、生き生きと思い描くことができないことに対する悲しみでもあるのだろうと思う。
 アンドロイドにとっては、この映画は一篇完結であろうが、人間にとってはまだその前史が描かれたに過ぎない。

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203b [2001/08/01 22:49]フィールドに入る2

 東シナ海に面した、鹿児島の、とある町の民宿の、畳敷きの部屋に、ひとり浴衣がけで座り、三文作家の如くキーボードに向かっていると、なにやら異郷に誘われてきた感傷的な気分にもなろうというものであるが、かならずしもそのような気になれないのは、空港からここに至る道路事情や、バスの車内で流されるアナウンステープの洗練されたスタイルから、日本全国いずこも同じ、画一化された地続きの世界、という印象を、同時に味わわされることになったからであろう。
 午前中に神戸大学にて参加した、ヴィゴツキー学協会主催のワークショップで、土居捷三氏より紹介された、ヴィゴツキーのタシケント滞在中の写真を思い出しながら、今も昔もフィールドに入ることは心理学者の変わりなき作業として続けられてはいるものの、その意気込みや構えにおいては、おそらく私のこの行動などとはくらべものにもならぬ異郷が、彼には感じられていたのであろうな、と思うと同時に、私とはくらべものにならぬほどのグローバルかつダイナミックな未来が、彼には思い描かれていたのであろうな、と妙な負い目を感じた。

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204 [2001/08/02 21:24]生物の対話的関係に関する考察

 神戸の仕事部屋にはゴキブリが出現しないのが自慢であったが、それを実現するために、私はしばしば生ごみをポリエチレンの袋に入れて縛り付け、その生物(なまもの)に関わるところの粒子にいたるまでのあらゆる要素が、外部に漏れ出さないような体制をとることにしていた。それゆえ、その生物(なまもの)は外部世界から完全に隔離され、そのことによって、それを食物として生息するゴキブリから細菌にいたるまで、あらゆる生物(せいぶつ)とのコンタクトが、悉く阻止されてきたのであった。
 今日、牛小屋でおじいさんと会話の場を持った際、出してくださった西瓜の皮を、盆の上に置こうとした私に、おじいさんは「牛にやったら食べてくれるよ」と助言してくださった。
 見渡せば、牛小屋の中は、藁や堆肥、蝿や虻、様々な臭気が息苦しいほどにたちこめていたが、各々の物体は、それそれがその生身を他の物体との関係を阻害されることなく、自然な位置を確保していた。
 自然の循環に入り込んで行くであろう個々の生物(せいぶつ)や生物(なまもの)に取り囲まれながら、おそらく私が一番、これらのものとの関係から逃れようとしている不自然なもののような、奇妙な孤立感を味わわされることになった。

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205 [2001/08/03 22:04]人と自然の媒介物について

 人間の住居を構築する行動は、先ず、人の日常的居住空間であるところの「居間」などに代表される「部屋」からはじめて、最終的にその余剰空間すなわち「隙間」が「庭」という役割を付与されてゆく、という手順をふむのが、その今日的かつ典型的なありかたであるように思われるのだが、今日、訪ねたある家庭のご主人は、まず庭を設計し、それに見合った家屋を準備したという構築手順を披露してくださった。
 そのような位置付けを与えられた庭は、植え込まれた草木から庭石、灯篭の配置に至るまで、全てその後ご主人の手になるものであったが、家屋のほうも、敷石に至るまで、手製のものもふくめて、立派な庭に相応しい、構成を維持していた。
 思うに、自然との媒介物、接点である庭は、自然と人間の関係を意識しているしるしとして捉えることができると思うのであるが、もしこの庭が、背後の雄大なる自然環境なしに鑑賞されたならば、おそらく今日のような感動は得られなかったかもしれないなと、日も暮れて涼しさが戻り始めた、木々が一面に青々と茂っているであろう宿舎の窓外を眺めながら思った。

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206 [2001/08/04 23:38]エネルギー効率のよい機構

 エネルギーを効率よくするハイブリッドカーというものがあり、ここ数日そのお世話になって、ある地域を移動しているのであるが、運転役のIさんが、運転席前面に表示される、エネルギー変換の流れを表示する液晶モニター画面を見ながら、運転手はこのモニターを見ながら、エネルギーを節約するように運転しようと努力するようになってゆくのだ、と話してくれた。
 運転者は、その装置に入り込み、それを使いこなすことに習熟すればするほど、そのシステムを効率よく機能させる要素としての役割を担わされることになるわけである。電子的メカニズムが介入できない節電機構を、人間の感性が補完しているという図式が、そこにはある。
 それによって、運転の当初の目的を見失うほどにエネルギー節約にのめり込む(呑み込まれる)ことの無いように願うばかりであるが、もともとそのような運転の目的の起源が人間にあるのではないということを表現しているような気も一方でして、なかなか「未来的」な車だと感心し、かつ心配することしきりであった。

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207 [2001/08/05 21:47]世代間の交流について

 ある老婦人の住む、丘の上の見掛けは小さな家をYさんと二人して訪れた。  庭の犬が吠えたのに気づいて迎えに出たその婦人は、来訪を待ちわびていたように我々を迎え入れて、お茶と漬物で精一杯の歓待をしてくださり、長時間にわたる質問紙調査にも、誠意をもって答えてくださった。
 特別なお礼を受け取るわけでもなく、かなりの時間を費やす調査活動に協力するということは、常識的に考えれば、「わりの合わない」行為に違いないのであるが、そのような形態の訪問でさえ、快く受け入れてくださるご老人たちが、我々との間でもった交流の機会は、おそらくその調査内容自体とは全く異なる次元で、有益な役割を果たしたに違いないと、嬉しさと深刻さを綯い交ぜにしたような感覚で、戸口まで見送りに出てくださった老婦人を背に思案しながら、その家を後にした。
 当初小さく見えたその家屋内には、使用されていない奥の間が数室あり、そこには二匹の猫が、おのれ達の居場所を追われる心配もなく、ぐっすりと昼寝を楽しんでいたし、庭では長い紐で繋がれた、上述の忠実な犬だけが、主人の安全を守ろうと、片時も視線を私のほうから外そうとせず、静かながらも眼光鋭き形相で、控えていたのであった。

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208 [2001/08/09 22:57]昔と今を知り、天と地を知る

 「ミーハー」と言うことばが一時、頻繁に使用されたことがあるが、「ミーハー」の「ミーハー」たる所以は、その当人の生活過程が総じて、その憧れの対象たる人物に差し向けられ、私というものが時として欠落してしまうように見えることにある。
 チャン・イーモウ監督作品「我的父親母親」(邦題「初恋の来た道」)の物語において、主人公の女性の生活が、その全てにわたって、教師として村に赴任した青年に向けられるのは、彼女の生活が正に「ミーハー」的であることを物語っており、そこにおいては、機織から、食物の調理に至るまで、あらゆる行為が、相手の生活世界を中心として組み立てられ始めることになるのである。一般に、これは若さというもののもつ、病的ながらも健全な一過性の現象といえるのであるが、この物語においては、老女が死を迎えた夫の仕事場であった小さな学校を前に、途方にくれている映像によって描かれるように、夫婦関係が終焉した後まで、その「ミーハー」的関係が引き続き持続することになる。
 おそらく、この物語において、唯一の救いは、この女性の憧れの対象であるひとりの男性教師が、きわめて真摯な人生を送ったがゆえに、その「ミーハー」的な支援が、結果的に睦まじき関係であることができたことであろう。老女の確信が、100人もの葬儀の列となってあらわれる場面には、深い感動を覚える。
 しかしながら、我々の周りには、おそらくこれとは全く逆の性格を持った対象を選択してしまった、女性あるいは男性が現実に多く存在し、それが「あなたと私」の関係のみならず、「国家と個人」の関係においても等しくそうであるということを、近頃、非常に身近に経験せざるを得ないことは、まことに残念というほかない。
 青年教師が教壇に立ってはじめて生徒に復唱させたことばは、教科書にない生活のことばに裏うちされたものであるとともに、歴史の流れを適切にふまえ、次の世代に広き見識をもって人生に臨ませることのできるような、重みを持つものであったのだろうと、希望をこめて思った。

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209 [2001/08/11 16:04]繋がること

 仕事場の停電でネットワークが終日停止した。
 目の前の液晶モニターには、このバッテリー駆動のパソコンの内部で処理される情報のみが表示されているのであると思うと、なにやら孤島に放り出された開放感・爽快感そして安心感が感じられる。サーバのファンやハードディスクの騒音が消えた室内には異様な静寂が訪れ、窓の外からは、強い風の音と比較的おとなしいセミの声が聞こえてくる。
 昔の夏の景色とは、このようなものであったなあと、懐古したりもする。
 しかしながら、同時に、私は如何なる理由で、わざわざにバッテリーにてパソコンを起動し、いつもながらの「通信」を書いているのかと、自問する。
 携帯電話を頻繁に覗き込むという、街中でよく観受けられる光景を思い出した。

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210 [2001/08/19 16:39]鏡としての他者について

 他者を介して自己を確認するということは、乳幼児に限らずとも、日常的な人と人とのかかわりの中で、知らず知らずのうちに我々は実行していることであるのだろう。  しかし、他者をいたぶることによって、自己の存在感を確認するという場合を、それは包含しており、「虐待」という事例はそのようなものとして認識されるべき事例として位置付ける必要もあるのだということを、我々は時として知らされることになる。
 足手纏いになることがほとんど明白であるにもかかわらず、わざわざに施設から引き取り、母親との関係においてのみそうであるかもしれぬ子の「無能さ」を改めて確認するとともに、それを理由として虐待を繰り返すという行為を通じて、結局は、子どもを介して「自分が存在価値のないものである」という自己確認が行われるという、誠に出口のない無限地獄が繰り返されることになる。
 強者ではなくとりわけ弱者に対して行われるこのような行為は、自らが受けた強者からの養育経験の枠に縛られながら、なおかつそこから抜け出ることのできぬという葛藤を、自らの身の置き方ではなく、弱者の身の置き方への攻撃として問題をすり換えることにより、強引に「解決」(復讐)を図ろうとする「不幸な感覚」が支配しているのであるが、これは構成体の規模をとり替えても同様に当てはまる、現代の不幸な精神を指し示しているようで不気味である。
 因みに、幽体離脱した側と離脱された側で対話までできるという感受性のきわめて優れた女性と話していたら、彼女と私の間には「しきりがあるように感じる」という旨の評価を受けた。このような情勢の中では、この関係はなかなか健全な関係でもあるなあと、呑気に考えた。

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211 [2001/08/27 22:50]ことばを詰まらせるもの

 Jose Luis Cuerda監督作品"La Lengua de Las Mariposas"(1999年、邦題「蝶の舌」)のラストシーンで、「引き裂かれるような」感覚と、思考停止の衝撃を味わうのは、それが優れて言語の本質にかかわる現象を我々に突き付けてくるからであり、涙による安易な心の浄化を決して受け入れてはくれぬ、解決しがたい矛盾が、そこに生々しく現れることになるからである。
 心温まる共有体験をもつスペイン共和派の老教師にたいして、1936年に始まる情勢の変化に押し流されて、周囲の大人が後ろめたそうに投げつけた「アテオ」や「アカ」等、様々な罵倒の言辞を、主人公の少年がさらに増幅させて石とともに投げつけるラスト近くのシーンには、なんともいえぬいたたまれなさと無力感を感じるが、その言辞に続いて、その老教師に教わった「ティロノリンコ(鳥の名前)」や「蝶の舌」などの貴重な体験に裏付けられたことばの数々を、同様な罵倒の調子で、同じくその老人に投げつけて立ち止まるこのシーンは、観るものの呼吸をも詰まらせ、思考を立ち止まらせてしまうのだ。
 一般に、能記と所記の「恣意的」関係が決して「恣意的」でないことは、意味というものが生成される場において、人間の社会的な生活過程がそこに反映されかつまたその過程が言語行為を介して既定されるからである。もし、その生活過程に敵対的な矛盾が存在しなければ、決して「意味されるもの」の確定できぬことによって、少年を絶句して立ち止まらせるような場面を招来することはなかったであろう。
 はたして、現代を生きる我々は、咳き込むことなく淀み無く発することのできる、他者への言語行為を持ち得ているのであろうか。

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212 [2001/09/04 00:24]神戸で成長する

 神戸三宮の生田筋が阪急およびJRの高架と交わる箇所の北西側の角あたりに、「いくた」食堂がある。ここは学生時代、学部外で毎週開講されていたある講義の帰りに頻繁に立ち寄ったところであり、当時の独立した木造の店舗は、地震以前に小奇麗な雑居ビルディングに改築されてもうみることはできないものの、店のメニューは、以前とまったく変わることなく、それのみならず、「ランチ」をたのむと、間を置かずして、暖かいスープの入った皿と、最近ではあまり見られなくなった、紙ナフキンで丁寧に包まれたスプーンとナイフ・フォークのセットが、運ばれてくることも、これまたまったく以前と変わることが無いのは、神戸でも街並みの変化が激しいこの界隈では、大変に嬉しいことである。
 昨夕、用事で出向いた帰りに、久しぶりにふらりと立ち寄り、いつになく人影のまばらな店内に足を踏み入れて、上述の様子が、変わることなく繰り返されていることを確認するに至り、おのれが神戸に住んでいることの持続性と一貫性を改めて確認するとともに、学生の時代には「並」と発した「ランチ」の注文品目名が、自然と「特」に変わっているのに、妙に時間の流れと、戸惑いを感じてしまった。

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213 [2001/09/07 21:34]脱中心化させられる遺伝子

 ジェンダーにもとづくところの役割分化を生物学的な根拠に無媒介に結び付けて説明するという手法が往々にして、保守的な思想と結びつく所以は、新たに出来せんとする人間関係のあり方に対抗して、そのような人間の作為的な関係構築の努力が、実は空しくかつ自然界において無理のある行動様式を、そこに導入しようとする無謀な試みであるとして、排斥することができるからであろう。
 その背後では、人間の「歴史」の歩みなどものの数に入らぬような時間軸の中で「自然」が選択圧を構成することを通じて引き起こす進化のみが、生物のありかたを強力に既定しているという発想が、非常に安定した支えを、継続して提供しつづけてきたのかもしれない。
 しかし、男と女の関係を含むところのあらゆる関係が、「都市の直線」で代表される道具性の露出した構造体や、道路や電線、ひいては光ファイバーと、そこを流れる情報の交通様式に媒介されて展開する現代においては、それを単なる「頭脳の産物」として排斥することは、もはや不可能ではないだろうか。
 人為を排した自然による遺伝子の淘汰は、既に決して「自然」ではなく、遺伝子の組換えさえが、ヒトという種の本質的な生活行為の一要素として「自然」となってしまう時代が、目前に控えているのだ。よしあしは別として。
(教育心理学会にて、柏木恵子、高橋恵子、長谷川眞理子の三氏の話を聞いて思ったこと。)

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214 [2001/09/08 21:30]道具を使用すること

 名古屋市中区栄にて食事の後、ホテル近くのコンビニエンスストアにてヨーグルトを買い求め、部屋の狭い卓上にて袋の中に手を入れると、その本体に加えていつもは手に触れることのできる貧相な透明の小さな樹脂製スプーンが、そこに見出せないことに気づいた。
 そこで、「もしや」という疑惑を伴いながらも、ある種の確信を持って常用する鞄の前ポケットに手を入れると、その底には、ここ数年来、このような時のために常時携帯していたステンレス製のスプーンがじっと眠っていたのであった。
 早速、そのスプーン本来の機能を目覚めさせ、ヨーグルト摂食を開始した。普段仕事部屋では、少し小さめの銀のスプーンあるいは、上記の貧相な樹脂製透明スプーンを使用するのが常であったが、今日この心持ち大きめで表面の滑らかなスプーンを使用することで、いつもと同一のヨーグルトながら、その新しい味覚を発見したような、新鮮な感覚を味わったのであった。  食物と人間の関係を介在する必須の道具であるとともに、味覚をも保証する重要な機能を担った道具であることを再確認した貴重な体験であった。
 久しぶりの暑い一日に、水分と冷たさを欲していただけのことかもしれないが。

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215 [2001/09/09 00:02]音楽を理解する

 小澤征爾氏がニューヨーク州郊外の森の中で、私のこよなく愛する、バルトーク「管弦楽のための協奏曲」の演奏を、学生達と完成させてゆく番組を観た。ひとつひとつの氏の言葉や身振りと、それによって完成されてゆく学生による演奏の中に、なぜこの曲を自分が好むようになったのかを見出してゆくという、精神分析を受けるような、非常に奇妙かつ有益な体験をすることになった。
 演奏するでもなく、鑑賞するでもなく。

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この間上海に滞在中のレポートは、
墓場のふくろうの仕事場公式ホームページにて公開しております。


221 [2001/09/24 00:06]菌類の洗浄効果について

 先日、上海市内のホテルにて、夜中テレビをつけたままにしていたら、あるコマーシャルにおいて、幼児が自分の靴や靴下などに触れることが、菌類への感染を増徴させるが故に、不潔である旨の印象を抱かせる映像が頻繁に流され、殺菌効果を示す薬品やらの広告映像が、その後に流されていた。
 生後数週で、乳児に儀式的ながら靴のようなものを履かせる習慣もあるという上海で、このように日常何気なく接している靴に、このコマーシャルの繰り返しの映像を通じて、不潔感を植え付けるこのような広告は、日ごろの生活での関心の眼差しを、特殊かつ過大な程度において方向付けてしまい、おまけにその他の、同様に不潔な菌類を受容するであろう留意すべき日常の行為を、却って覆い隠してしまうようで、気になったが、帰国してテレビを眺めていると、相変わらず某国のある地域のみの映像が、繰り返し流され、人々の生活上の関心の眼差しを、特殊かつ過大な程度において方向付けてしまい、おまけにその他の、同様に矛盾を抱えて対処・改善せねばならぬ他の様々な土地での人々の日常生活の有様を、却って覆い隠してしまうようで、それ以上に大変に不安になるのであった。
 総じて言えば、問題はそのような画面中に展開している、局所的な危機的状況が、薬品やら洗浄・掃討作用によって安易に消し去ることのできる外的かつ特定化可能な対象物ではなく、より内在的かつ普遍的(グローバル)な事象のひとつの現象面に過ぎないことであるのだろうと思う。「切れて」、「復讐」している場合ではないのだ。

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222 [2001/10/03 23:40]私達に監視された私

 仕事帰りに、所用で出向いた夙川から芦屋まで、夜の散歩を楽しんだ。
 夙川の駅前から少し南に入ったところで、10代後半の女性が五・六人、奇妙な手振りを示しながら、花屋のショーウィンドウを覗き込んでいたので、店内の花を観賞しているのであろうかと、私も同様にそのショーウィンドウを覗き込んでみると、そこに認められたのは、暗がりに咲く花々の、静かに夜を過ごす姿などではなく、それら女性達の各々の腕と胴体が、妙に正確に同期しながら奇妙に動く姿なのであった。
 即ち、彼女達はなんらかの「晴れの舞台」に向けて、店舗のガラス窓を鏡として、いそいそと研鑚を積んでいるように見受けられたのであったが、このような単調かつ偏移の無い壁塗りのような踊りは、正面で見る者も疲れるくらい、踊り手の眼差しに監視されることとなり、なかなかに窮屈な劇場空間を形作ることになるのであろうな、と思いながら、そそくさとその前を通り過ぎた。
 国道2号線沿いにある、このところ共同歩調が好きな大衆に、悉く倦厭されて閑散とした大衆ステーキ店の客席にて、落ち着いた夕食を済ませた後、引き続いてそろりそろりと歩いて、JR芦屋駅までたどり着いたが、駅舎一階のある店舗の大きなガラスの扉の前では、動きに活発さを少々加えながらも、これまた先程とほぼ同様の、単一方向で、単調かつ偏移の少ない壁塗り踊りが、今度は10代後半の男性3名によって、黙々と儀式の如く営まれていたので、もしやこれは「晴れの舞台」に向けた準備練習ではなく、これが正に彼らの「晴れ」の活動なのではないかと思いなおし、同じくその駅前で、街路でバスを待つ人々に向かってギターを弾き語りしている青年に、妙な共感を感じながら、すごすごと駅舎に入った。
 これらたまたま目にした一連の壁塗り行為、あるいはガラス戸との対話は、街中の喫茶店で、個々独立して壁に向かって座席をとり、アイスコーヒーを啜る中年の男性客達より、幾分は健康な姿だということにしておくしかあるまいな、と思った。

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223 [2001/10/11 23:46]呟きの祈りについて

 映画「陰陽師」で、野村萬斎氏扮する安倍清明が、敵をばったばったと切り倒すことなしに、一見、意味不明のことばを呟きながら、難局を飄々と切り抜けてゆくのは、彼が常に目に見えるほどに明確に形を持った敵を相手にせず、かえってその背後に隠された構造を浮き彫りにすることをもっぱらの本分と心得ているからである。それゆえ、この呟きは、見方を替えれば、複数人物間で密やかに交わされるパーソナルなコミュニケーションのネットワークとも受けとることができるのであり、情報は刻々と解釈され、伝えられ、彼を支えるネットワークは、みるみるうちに、整然たることばの網の目の中に敵を包囲し、その気ままな振る舞いを許さぬまでに、場の意味をじわじわと生成し、規定してゆくのである。
 それゆえ彼にとって、過大な重量を有する剣などの武器は、足手纏いのものでしかなく、軽やかな情報交流を前にして、悪の化身は、忽ちにして法の下に封じ込められ、自滅の道を歩むことになるのである。
 「人の世も捨てたものではござらぬ」という彼のことばには、この呟きが決して、独語にとどまらぬ、集団的独語、即ち呟きの集成体、即ち構造をもった祈りであったことが、語られているはずである。

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224 [2001/10/22 23:09]ある「心理学者」の独語

 片手間のつもりで手をつけた仕事が、意に反して他人に好評で、周りからも、それがあたかも本業であるかのごとくとらえられてしまうというのは、今日、南山大学の学術情報センターに、出張を命ぜられて見学に出向き、同時にその大学の優秀なる心理学研究者のUさんに出会った帰りに、市街のPARCOで、神戸より一足先に観賞した、Woody Allen監督の"Small Time Crooks"(邦題「おいしい生活」)に登場する主人公夫婦の場合に限らず、多くの人々が現実に経験する事であろう。
 しかしながら、そこにおいて描かれていた物語が、私の知る現実と異なるところは、彼らにおいては、片手間で行われている仕事と、本業とが同一人物によって、これまた同時に行われているのではなく、夫婦による分業として行われている、ということであろう。
 おそらく、これを一個人の物語としたならば、この映画は軽妙かつ展開のある喜劇ではなく、深刻かつ閉塞的な喜劇(当事者としては悲劇)とならざるを得まい。

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225 [2001/11/06 22:29]世界との共鳴的関係について

 突然の腰痛で、この一週間、仕事に身が入らぬ日が続いている。身体が垂直軸から前後左右にわずかに移動するだけで、激痛が走る状態が当初続いたが、そのような折に、身体を大きく前傾させる他人の運動を目撃しただけで、「嗚呼」という声を上げてしまったり、梅田の阪急百貨店に並ぶ大きなショーウィンドウ内の数秒毎にスクロールする広告スクリーンの前を通過した際に、そのスクリーンが突如スクロールし始め、それに身体が反応し、これまた「嗚呼」と悲痛なる声をあげてしまったりするということを経験した。これら経験を通じて、人や物に対する感覚・知覚・運動の共鳴的性格について、少しばかり知見を深める結果となっていた。
 今日は、仕事場の代休であったので「しあわせなふくろう」さんで保手浜氏の個展を観賞した。ひとしきり「腰痛談義」を済ませ、和やかな気分となった後、摂津本山駅で明日の列車の予約をとろうとしたら、のぞみしか空席が存在しなかった。少しはゆったりした座席であろうから、調度腰には都合がよいとは思ったが、同時に、この時期にしては珍しいなと感じるとともに、時節柄、航空機が敬遠されているのであろうか、という推察も思い浮かんで、複雑な心境となった。
 生活が地続きでなければ、なかなか響き合えない身体というものが存在することになるのであろうか。

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226 [2001/11/19 03:12]星に願いを

 午前2時半から3時過ぎまでのつかの間の時間、薄い雲が徐々に晴れ上がる中、孤独な暗闇の旅を終えて、身を焦がしながら輝いては消えてゆく64個の星屑を、指折り数えてみとった。せめて最期には、あのように青白くも輝いてみたいと思った。これから安らかに眠る。

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227 [2001/11/30 23:30]平均的な発言について

 講義と雑務の合間に校正をしながら、ひとつの文章を完成した。
 校正により、たんに文体が整然とするのみならず、文章作成段階においては思考の苦闘の跡が生々しかった意味内容の節くれだった展開が、いともさらりと軽く流されたような内容になってしまい、幾分物足りなさを感じていたが、なんとかハーバーランド近くの中央郵便局に封筒を抱えて出向き、ひとけのない元町通りを、これまたひとけのない中華街に寄り道しながら通過して、食事を済ませ、帰宅した。
 すると、ラジオでは、発言内容が洗練されて、たんにことば遣いが整然とするのみならず、思考の生々しさがさほど感じられない、いともさらりと人生をやり過ごしているような無味乾燥な内容の発言の記録テープが、ながながと流されていたので、「典型的な人間は存在するとしても、平均的な人間は実在しないのである」とどこかに載せた文章を思いだし、「平均的な人間」は実在しなくとも、「平均的な発言」は捏造しうるのだなあと、感心するのであった。

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228 [2001/12/01 22:45]Living in the material world

 年末になる毎にBeatlesを強く感じるのは、とりわけJohn Lennonの"Happy Christmas"を意識するからではないように思う。
 まだ十代前半の頃から、年末の休暇の時期になると、清水の舞台から飛び降りるような決意で、けれども、決して後悔したという気持ちを招来することなく、貧困なる中身の財布をはたいて、梅田地下センターにあった、今は無き大槻楽器店でBeatlesのLPレコードを購入していたからである。
 私に限らず、私の世代にとって、彼らは現役であるとはいえ、既に解散して、生身のグループとしてはこの世に存在しない人達であり、回転する円盤の上に慎重に針を置く儀式を通してのみ、出会うことのできる現象なのであった。
 今日、大阪の実家に戻り、新聞の一面の見出しの「George Harrison死去」の文字に目が留まったときも、なにかひとつのイベントが行われたかのごとき印象をまず持ってしまったのは、私が彼を一つの生活必需品として、身の回りに常備していたから、そして今後とも常備しなければ生活できない私の人格統合の「シンボル」のひとつとして感じているからに他ならない。

(We are talking about the love we all could share. "Within You, Without You")

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229 [2001/12/02 22:04]出会いの場について

 渋谷のあるメディアストアで、George HarrisonのCDのジャケットを観賞しようと、日ごろは目を向けない"G"の区画に出向いてみたら、彼のアルバムはすべてそこから消えていた。
 少し寂しい思いがしたのは、もちろんジャケットに出会えなかったからではなく、この区画に過去の曲が入ったCDが並ぶことがあっても、新作のCDが並ぶことは、もはやないであろうということが、ここに来て初めて実感されたからであろうと思う。
 唯一の救いは、彼を「悼む」コーナーが設けられていなかったことだろうか。

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230 [2001/12/03 23:38]Global Identity Protocol

 横浜中華街の静かな裏通りにある光龍飯店で落ち着いた夕食を済ませ、風邪気味ながら、薬物の効果もあって、久しぶりに非常にゆったりとした気持ちで、通りの散策や店内の物色をしたり、上海の街中での散策を思い出していたら、ふと立ち止まった街角で、「この角をまがって、あちら側に続く路地の暗闇の方向に歩みをすすめていったなら、そのままどこか静かな無名の世界に入っていってしまうのではなかろうか」という気持ちになってしまった。
 かっての一時期、一部のサラリーマン男性に「蒸発」という現象が、ある日突然、訪れるということがあったように記憶するが、それはおそらく、自分の依って立つ生活基盤が脆弱となって他者と交換可能になるとともに、このような、迷い込んでしまいたい、と思わせるような、異郷に吸い込まれる機会に出会う現象をさしたのであろうな、などと考えながら、さらにふらふらと歩いているうちに、いつのまにかヨーグルトやインスタントコーヒーの入った白い袋を抱え、ホテル入り口エレベータ内で、自分が滞在する部屋の階数が表示された白いボタンを無意識に押して立っていた。
 Peer to peerでの接続が徹底することにより、生活世界がglobalな規模で地続きになり、身体が消去されてしまうInternet体験にはこういうものもあるのかな、と"IPv6 summit"での今日一日の報告を思い出しながら考えた。

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231 [2001/12/08 23:20]平行関係

 「平行」という概念は、つかずはなれずの関係を維持しつつ、どこまでいっても決して交わることの無い二つの直線の有り様をさすことはわかるのであるが、私は残念ながら、どこかで交わるのではないかという期待を同時に抱きながら、いつもこの定義を味わってきたように思う。
 映画"Swordfish"の中で、主人公であるcrackerの男性がpassword crackingやwarm製造に臨む過程において、それらの行為がいかにも自慰的なものであるかのごとく描かれているのをみながら、爆弾テロやネットワーク犯罪というのは、形態は異なれ、他者と向かい合うことなくやたら道具(器官)のメカニズムをあさっての方向に機能させることに熱中する点で、ともに多分に自慰的な行為であるなあと、感心してしまった。
 その映画の前半に、John Travolta扮する悪党の手先として派遣された女性が、主人公の打ったゴルフボールと同じ方向に、ボールをさらに豪快に打ち出すというシーンがあるが、この二人の関係は最後まで深まることなく、裏切りの関係をつらぬくことになってしまう。
 おそらく、その二者のそれぞれ打ち出したボールは、上述の定義どおり、みごとに平行に飛んでいたのだなあ、と映画を観終わって確信したのであった。

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232 [2001/12/14 00:39]白昼夢

 映画"Harrry Potter and The Philosopher's Stone"のなかで、主人公の少年が、人間の世界において、これまた人間の気まぐれから、階段下の倉庫のようなところや、手紙も届かぬ孤島の一軒家のような、いかにも魔法使いの居そうな場所で生活することを強いられる一方で、魔法学校では、教室や野外で生き生きとした学業や運動の生活を営んでいるのは、この映画で描かれる現実が、すなわち我々の日々生活している現実が、実はネガ・ポジ反転しているからである。
 本来は昼の世界である人間の世界には、常軌を逸するほどに不条理が支配し、恐怖と憎悪が蔓延しているのに比して、本来は闇の世界である魔法の世界には整然とした論理と規律、そして勇気と愛情が行き渡っている。
 昼日中に民家の屋根の上で、無数のふくろうが羽根を休めていたり、主人公の所有するふくろうが雪のように白く、かつ白昼に青空を舞うのには違和感を感じたが、上記の理由を考慮に入れるならば、ごく普通の特性を有し、習性を行使しているに過ぎないことになるのだ。ご主人が白昼夢から醒めるまでは。

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233 [2001/12/16 02:30]過去からの手紙

 ディスクの片隅に、既に忘れられたデータとして眠っていたあるアドレスに、ある日突然「お土産」が付けられ、その本人に返送されてゆくという事件が、ワームによって引き起こされている。
 私のところにも、かってメールを交わしたが、今日では全くやりとりの途絶えてしまったような人々から、時折、上記「お土産付き返信メール」が届くようになった。
 過去を掘り返されているようで、あまり気持ちのよいものではないが、送信者がいまだ健在であることが確認できたということや、人間というものは、様々なことを忘れることで今を健全に生きることを可能にしている生き物であるのだ、と実感できる機会を与えられたことなど、なかなか学ぶこと多いこの頃である。

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234 [2001/12/30 02:28]子どもでありつづけるということ

 我々の周りに転がっている、なんの変哲もない物たちが、かってはその魅力的な相貌を我々に向けていたにもかかわらず、いまとなっては単なる「物」と成り下がってしまっているのは、決してそれが長年のうちに当初の輝きを消失してしまったからではなく、それに触れる我々が、輝きを失っているからに過ぎない。
 映画"Amelie"で、子どもの心性を持ちつづけている主人公Amelieが、道に転がっている平べったい石を、目聡く見つけてポケットに入れる時、既にそこに貯蔵されていた、以前の類似した収穫物と「カチリ」と触れ合う音が、妙に重量感を持って聞こえてくるのは、そのような少女時代の心性を端的に表現しようとしたからであろう。
 もちろん、子ども時代に対する憧憬は、所詮はノスタルジーでしかなく、大人になってもその世界を現実において維持しつづけるならば、神聖なる悪戯の世界は、忽ちに醜悪で閉鎖的な犯罪の世界へと転化してしまうことも、また明白なことである。物語が当初からあまりにも神話的かつ劇画的な効果を付加されて展開し、運命の男性との対面場面へとスピード感よく収斂してゆくのは、そこで描かれているのが、Parisおよびそこで生活する人間たちと一人の女性によって形作られる現実世界ではなく、Parisの街角とそこで生活する人々という絶妙なる舞台装置のなかで起こる主人公の心的世界の成長であるからなのだ。
 幼稚なるテロ行為と、大人気ない報復行為の応報という大人の仮面を被った子ども芝居の見物を余儀なくされた今年の締めくくりに、子どもであることと大人であることが二つの焦点をなしながら楕円運動をするかのごとき心性を励まし刺激してくれるこの映画を観ることができたことは、少しばかりの救いになったと思いたい。

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