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ふくろう通信VII

by 墓場のふくろう

133[2000/06/28]おかえりなさい2
134[2000/06/30]楽観的であること
135[2000/07/03]夜鳴く虫
136[2000/07/08]健康的な生活
137[2000/07/13]夏がくれば
138[2000/07/16]死者を受け入れる
139[2000/07/25]おまわりさんとのひととき
140[2000/07/28]Panda street
141[2000/07/30]お見送り
142[2000/08/06]Bonnie & Clyde
143[2000/08/09]経路に身を投ずる
144[2000/08/12]鑑賞される生き物
145[2000/08/15]大阪へやってきた
146[2000/08/17]仕事部屋を片付ける
147[2000/08/23]Tranquilizer
148[2000/08/27]無題
166[2000/09/14]上海からの帰還
167[2000/09/16]Saturday night in the city of the dead
168[2000/09/18]場を共有することについて
169[2000/09/18]場を共有することについて2
170[2000/09/21]若き日の記憶
171[2000/09/26]自分を見つめる毎日
172[2000/09/30]隣人に関する考察
173[2000/10/03]ロフトベッドの効用について
174[2000/10/12]搬送のための搬送
175[2000/10/18]敵について
176[2000/11/04]多様なる選択可能性について


本文

133 [2000/06/28 00:35]おかえりなさい2

 知人のCさんが、中国語には「かえったよ」はあっても「かえったね」はないことを指摘しながら、「ただいま」という挨拶に、「おかえりなさい」という言葉が返されるところが日本的な会話の形態ですね、と自説を表明したので、私も幾分感心した。
 中国における会話には、帰ってきたものと、それを迎えるものが、出合いを契機として新規な情報をお互いに掴み取ろうとする姿勢があるように思われる。
 すなわち、「私」に対して、「あなた」と応じるのでなく、あなたのここに至ることで私が見出す事のできる新しい世界への眼差しがそこに表明されているように思うのだ。
 「おかえりなさい」には、「あなたが私のところに帰ってきたのだね」という、ある種暖かく包み込みながらも、相手を自分の世界に囲い込むまなざしとその契機をそこに見出してしまう。

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134 [2000/06/30 00:37]楽観的であること

 むかしむかし、あるところに掲載された原稿の末尾に、「筆者にはまだそれが具体的になにであるかについてはわからないが、問題が顕在化していることは、その問題の解決の糸口もどこかにあることを意味する、という楽観的な見方に立って現状をとらえてゆきたいと思う。」という意志の表明があるのを、さきほど、たまたま「発見」し「再認」した。
 問題は様々に顕在化しても、糸口は未だ見出せぬままであるという事例は多い。
 かといって悲観的になったように感じられないこともままあるのは、単に当事者意識が薄れただけの事か、と危惧もしてみる。
 しかし、「当事者」というものは常に過去へ過去へと、歴史のかなたに追いやられて行くものであろう。「筆者」しかり。次世代のまなざしへと、視点を転換することが必要とされているということだ。楽観的とは総括の論理性と、それを検証しつづける現在の視点への現実的な射程での変換速度、およびその相対的な安定性、が決めるものだと思う。

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135 [2000/07/03 22:47]夜鳴く虫

 昨日の深夜に、窓外から「ジッ」という音が聞えたので、もしや蝉の鳴き声かと思っていたのだが、今日夕方、王子公園の際を通過した折に、同様のもっと長く連続した音を聞くにおよび、その確信を強くした。
 蝉までが生活リズムに不調をきたす世の中になってしまったらしい。夜明けを待たずして倒れる諸君もいるのであろうか。

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136 [2000/07/08 23:20]健康的な生活

 久しぶりに出合った人々と歓談した。
 物の流通の最先端で、とてつもない速度で回転し続けている人々のことや、案外のんびりと、しかしある種、不安を背負って周縁で生活している人々のこと、さまざまな人々のことが語られた。
 その帰途、摂津本山から、仕事部屋に向かって歩いていると、駅近くの明るい街頭に照らされて、こがねむしが、仰向けになって大きな羽音をたてながら、命の最後の火をじたばたと燃やしつづけている現場に出会った。
 天井川の心地よい水音に聞き耳をたて、さらに、街灯もまばらな人影のない小道に入ってしばらくすると、まっすぐこちらに向かってやってくる、猪に出合った。彼(ないし彼女)は私に一瞥もくれず、私のすぐ傍らを通り過ぎ、餌を求めてだろうか、空き地にそそくさと入っていった。
 この最後の生き物が、私が今日、出会った多くの生き物の中で、最も健康的な生活を営んでいるようにみうけられた。

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137 [2000/07/13 02:06]夏がくれば

 20年以上前の夏に、今よりは少しばかり思い入れを込めて聴いていたと記憶する、ELPによる"Fanfare for the common man"を鑑賞した。
 「しあわせなふくろう」さんが10周年を迎えたという。私にとって20年という歳月の後半のこの10年は、まさに反省のみの日々であったようにも思う、とさらに反省する。
 イメージの世界のみは心地よく、ただただ睡眠に入ることにする。

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138 [2000/07/16 03:04]死者を受け入れる

 知人のご夫人が亡くなられて、お通夜の式典もとうに終わったころに、明石の小さな駅前にある式場を訪れた。
 祭壇の設けられた式場脇の座敷には、既にある種の落ち着きがみうけられ、緊張感も薄らいで、死者を送り出す準備が整いつつあった。
 遅れて到着したことによるわずかな時間のずれから、一定の「場違い感」を覚えはしたが、次第に私もある種の安堵感をもらい受けるにいたり、その席を退いた。
 式場前の、その小さな駅のプラットホームからは、明石海峡にかかる大きな橋の輪郭が、異境へとつながる一方通行の経路のように、ぼんやりと浮かびあがって見えたが、目を凝らして詳細に眺めると、そこには対岸から続々とこちらに向かってくる自動車の光の列が、数珠つなぎとなっているのであった。
 他者の死とは、決して何かが行ってしまうことではなく、我々の生活に何かが戻される契機であるようにも思う。

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139[2000/07/25 01:43]おまわりさんとのひととき

 四条通り、先斗町の入り口脇にある交番に、道を聞こうと戸を開いて中に入り、正面にいた一人のおまわりさんに、ある料理屋さんの名称を告げた。そのおまわりさんは横にいた別のおまわりさんにその名称を告げ、その別のおまわりさんは、また別の、隣の部屋にいるであろうおまわりさんに伝えた。同時にそれを聞いていたまた別のおまわりさんは、「ああそういう店があったな」と呟き、それとほぼ同時に、奥の部屋にいるおまわりさんから「100mくらい入ったところにある」ことが告げられた。それを聞いていた、また別の若いおまわりさんは、机の上の街路図を頼りに、その場所を明確に示し、100mほど進んで左手にその店があることを告げた。折しも、周囲から「そうだそこにあった」との声がかかりはじめた。「わかりましたか」とか「先斗町の入り口はこの横ですよ」と親切な案内が、それぞれまた別のおまわりさんから寄せられた。
 「ありがとうございました。」とのお礼のことばを告げて、そこから出る頃には、10数名近いおまわりさんがいっせいに「お気をつけて」と送り出してくださった。
 交番の前は、祇園祭も終わりに近づいた夜の街路に、人通りも増し始め、御輿の帰る路に活気を与えていた。
 久しぶりの夜の京都であった。

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140[2000/07/28 22:10]Panda street

 Pandaが午前中から公開されて、王子動物園周辺では厳重なる交通整備が行われたようだ。午後から仕事場を出て、公園西側の坂を下り、動物園入り口前を通過すると、そこでは「パンダを100円で買ってください」という、基金の呼び掛けらしき声が響き、JR灘駅前に向かう商店街のあちらこちらにpandaのデコレーションが施されていた。ふと覗き込んだ仏壇店の店内には、pandaのぬいぐるみが仏壇の間に鎮座していた。普段は落ち着いた酒屋やすし屋の店先にまで、pandaのキャラクターが使用され、酒瓶を握らされたりしていた。
 ただ、あまり普段と変わらなかったのは人出であった。通りはいつもとほとんど変わりなく閑散としていた。  飲食店の店頭では、かき氷の機械だけが元気良さそうなうなり声をあげ、にわかにpandaTシャツを売り出した店頭では、店のおばさんが、落ち着かない気分を、シャツの配置を変えることで紛らわせているようであった。しかし、春ごろから商店街の屋根のシートに書きこまれていた「パンダストリート」の名称は、今日になってやっとその存在を認められる機会を得たようだ。
 駅前通りはpanda体制を確立しつつあったが、動物園の駐車場が平日にない賑わいを見せていた以外は、街は普段と変わりの無い落ち着きを示していた。Pandaにとってもリラックスしたスタートではなかったかと念う。
 いつか昼休みにでも挨拶に出向こうと思う。しろふくろうにもご無沙汰である。

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141[2000/07/30 13:45]お見送り

 大阪市内からJR関空快速で空港に出向いたら、思いの外時間がかかってしまったが、ロビーで出発寸前の知人達に出会うことができ、お見送りの言葉を伝える事ができた。
 昔、国内の山に登る知人を見送りに、大阪駅の1階コンコースによく出向いたものであったが、旅立つ人を送るということが、最近では本当に少なくなってしまったように思う。
 旅の途上の安全を願ってというのが、見送りの一つの意味であるとするならば、旅行もずいぶん安全になったものだなあ、と思う。
 でも、それだけではないのではなかろうか。自分も「旅立つ」という出来事のおこぼれを、少しでも頂戴したいからではないかと、私には思われてならない。
 飛行機が落ちなければの話。
(上海行きの便が離陸した後の、関西空港にて)

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142[2000/08/06 02:25]Bonnie & Clyde

 親友ないし悪友といわれる関係がこの世にはあり、久しく離れて生活していても、その相互関係の様式には、二者固有の展開様式があり、その展開様式がまさに実際に展開-機能する過程において、各々の個性がより際立つところに、親友なり悪友なりの意味が、またあるのだと、先日、二人の友人の交流の場に久しく立ち会うことができた機会に、さらに認識を深めることになった。
 二人のさらなる関係の末永き持続と、各々の個性のさらなる開花、そして少しの「成長」を、心より祈る。

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143[2000/08/09 01:20]経路に身を投ずる

 こがねむしが金持ちであるかどうかは別として、先日、駅の切符売り場で切符を購入しようとして券売機に小銭を入れていると、金属製の釣銭受けの中に、こがねむしが死んだように身を横たえているのに出会った。
 本来、貨幣の受け渡しの場であるはずの釣銭受けに、彼が紛れ込もうとしているその姿は、何か自分の身を貨幣という尺度上に並べ、商品化することで、流通の経路に参入しようとしているかのように見えて、ある種の哀れさと滑稽さを同時に感じたのであったが、それは所詮、人間の単なる感傷であって、本人は疲れてたまたまそこにいただけのことなのであろう、と思いなおし、その虫を手で掴み、見晴らしのよいプラットホームまで連れてゆき、夜の公園の方に向かって、投げ上げてやった。
 すると、彼は今までの様子とは見違えるほどの元気さで、公園のほうに向かって飛び去ったのであった。
 釣銭入れに身じろぎもせずに、自らを「物」として人目にさらしていた時とは打って変わった変貌ぶりに、彼は本当に貨幣の流通の経路に、投機的に自らの身を委ねていたのではなかろうか、という確信を抱くにいたるとともに、哀れさと滑稽さを、更に深く感じることになったのであった。

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144[2000/08/12 14:41]鑑賞される生き物

 久しぶりに気分的にゆっくりとした朝を迎え、摂津本山南のハンバーガーショップで朝食の後、実家の台所用品を購入するために、件のCO-OPリビングに出向いた。
 入り口付近では、金魚すくいなどの場が設けられ、夏らしい雰囲気が演出されていたが、その背後でクワガタムシが小さな容器に入れられて売られていた。このての昆虫が商品として並べられていること自体にはもはや驚かないようになってはいたが、南米産のクワガタに6万8千円あまりの値が付けられたりしているのに出会うと、やはり何事であるかと考えてしまう。
 目的の台所用品を購入し、いつものマッサージチェア−で、私より年配の方々が珍しそうに視線を向けなら通りすぎるのを尻目に十分に懲りをほぐし、鑑賞魚売り場で、アロワナなどを鑑賞の後、結構な寛ぎの時間を過ごせたことに感謝しながらそこを後にした。
 帰宅してレトルトパックのカレーとご飯を温めて軽い昼食とした。案外に満足した。あのクワガタムシも昼食をとったのだろうか、狭い容器の中でひたすら鑑賞される境遇では、肩がこらないのだろうか、ところでクワガタムシの死体に値段はつくのだろうか、などと考える。

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145[2000/08/15 01:02]大阪へやってきた

 地下鉄心斎橋駅から「アメリカ村」、難波を経て、日本橋、恵比須町へと至り、そこから新世界、天王寺公園、阿倍野斎場交差点近くを経て、松崎町、三明町、地下鉄文の里駅に至る、大阪市南部をひたすら歩いて南に下った。
 風景の全く変わってしまった周囲の景観のなかに、戦前に建てられたという、かって二年ほど居住した家が庭木とともに未だ健在であったことには、感銘と感傷を覚えたが、それ以外の街の風景が記憶の再認に、もはや役立たない代物となってしまっていることに、ある種の失望を覚えた。
 それはおそらく、それら風景が単に変わってしまったこと一般に原因があるのではなく、小学校の頃思い描いた、「二十一世紀」という希望に満ちた未来の光景に向けた予期表象が、悉く裏切られた風景であった、ということに由来するものであるのかもしれない。

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146[2000/08/17 23:10]仕事部屋を片付ける

 ここ数日、部屋の片付けに専念しているが、当初は、一つの部屋が片付くと、隣の部屋が、がらくたと書類で埋まるという悪循環であった。これでは物を平行移動しているだけだな、という気もしていたが、室内に次第に秩序らしきものが生まれ始めたように感じることができるようになり、安堵感を得ることができるまでに至った。ここでいう秩序とは、この部屋をめぐっての快適なる生活の構築に向けた環境条件と同義であるとみなしてよいであろう。
 夕方、駅の近くまで食物の買い物に出た。無為に一日を過ごしても、人間は食べなければならない。いつものように、見事に加工された魚やその他の食品を眺めながら、一日中、物を平行移動していた自分の社会的貢献度の低さに反省の念を抱くと共に、「生かされている」有難さを、日頃になく感じた。
 帰宅して、ラジオで「水だけで過ごしていた家族数人が餓死」との報道を耳にする。  彼らは先ず、家の周りをトタンで囲い始めたとのことであるが、食べるという事が単に物の摂取ではなく、社会とのコミュニケーション行為であることを、彼らは直感的に理解していたはずだ、と考える。これが餓死ではなく自死である所以である。
 はたして彼らはどのような「宗教的」純粋さを求めたのか。私がここでただ一つ気になるのは、彼らの部屋が、少なくとも生活の最小単位としての家族内の物質的・精神的コミュニケーションの円滑な遂行のために、整然と片付けられていたかどうかという事実である。

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147[2000/08/23 01:24]Tranquilizer

 Jan Akkermanのacoustic guitarによるアルバム"Passion"を最近、よく聴くことにしているが、これには、聴かずには落ち着かなくなるという、ある種、薬物中毒に類似した禁断症状が先行するようだ。
 聴き慣れた様々なフレーズが浮かんでは消えてゆくところに、幼児が示す転導思考の様式の類似物をそこに見出し、それによって自己の認識・感情の不安定性が鏡のようにそこに映し出される様を体験できるから、といえるかもしれない。

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148[2000/08/27 12:06]無題

 大阪湾にはくらげが浮いていました。そろそろ秋の気配のはずなのですが、おそらく上海も、まだまだ夏だろうと「期待」したいような気分。
 それでは、行ってまいります。

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166[2000/09/14 13:41]上海からの帰還

 今年は中国でオリンピックが開かれるのではないかというほど、上海で観ていたテレビではオリンピックオンパレードであった。百事可樂のコマーシャルなどは、それがコマーシャルなのか歌番組なのか分からぬほどの長時間を費やすものであった。
 カフェテリアの窓から見える関西空港構内の壁面には「2008年オリンピックを大阪に!」との広告。確かにこの方が肩肘張らないで良いかもしれないが、大阪は静かなものだと思う。

 今日からまた、テレビモニターとは縁遠い生活が始まる。もちろん今朝まで眼前に展開していた空間のように、不可解な現象を常に提供しつづける別のモニター空間が待っている。
 (関西空港にて)

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167[2000/09/16 22:42]Saturday night in the city of the dead

 昨年の9月の上海のように蒸し暑い会場で開かれた学会の、体育館内ポスターセッションでの多くの人達との対話の後、井の頭線の渋谷駅付近を歩いていたら、数日前まで街中の至るところで経験していた香辛料の香を感じた。いつものビルのいつものレストランに入りかけて、それが中華料理屋であったことに思い至り、さすがに今回は遠慮しようと、その隣の、大きなふくろうの絵が壁に掛けてある、いつものとんかつ屋に入っていつもの料理を注文すると、これまた先日まで上海の食堂で経験した、しいたけの香りを感じた。
 毎回立ち寄る、CDショップで流れていた、インド音楽風の名称不明のロック音楽に、かろうじて「枯れきった」東京にいることの実感を得ることができたが、東京とはもともとこのようなものであったのか、とあらためて再認した。愛聴レコードであったUltravox!のファーストアルバムCDを購入する。
 いつものホテルに帰って、テレビを点けると、上海で作成されたと思われるカンフー映画が目に飛び込んできたうえ、チャンネルを変えて暫くすると、これまた「北京原人」が登場したので、一瞬、眩暈がしたが、街中を走る自動車のクラクションと通行人の会話の音量と元気さについていえばいくぶんおとなしいこの街は、やはり鶏の街ではなく、ふくろうの街だなと思う。

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168[2000/09/18 22:57]場を共有することについて

 秋葉原のなかでもおそらく最も異国情緒を漂わせているであろう、ジャンク屋兼デジタルミュージックショップに入って、品物を物色していると、「○○さん」と私の実名で呼びかけられた。
 このような場所では「墓場のふくろうさん」あるいは単に「ふくろうさん」と呼びかけられたほうが不気味には違いないのだが、いずれにせよ「こんな場所で私の固有名詞を知っている人がうろついているというのは、珍しいことであるなあ」と思いながら顔を上げると、Yさんとその知人が、同じくその異国情緒を漂わせているであろう、ジャンク屋兼デジタルミュージックショップにおいて品物を物色していたのであった。
 学会会場で確かに見かけた顔であったから、その帰りに立ち寄ったという意味においては、単に私と同じ行動形態を示していたに過ぎないのであるが、「この人はあなたと同じような○○○な人だ(○内は私を適切に表現する任意の単語が該当すると考えてもらえばよい)」とその知人に私のことを紹介されたので、「いずれにせよ、お互いここにいること自体、○○○だなあ(○内は私およびその知人、さらにはそのYさんをも適切に表現する任意の単語が該当すると考えてもらえばよい)」と切り返した。いずれにせよ、相手を抗うことができない状態に追い込んだと同時に、かつ、お互いに納得しあわざるを得ない状態になったことには違いない。
 昨年末に、日本橋で800円でノートパソコンを購入し、さらに、不足していたその部品である内部memoryとharddiskを秋葉原と日本橋の各々のジャンク屋で、それぞれ別の時期に偶然にみいだして確保していたが、肝心のAC adaptorには、これまで出会うことなく、終わっていた。今日このAC adaptorに偶然出会うにいたり、これら「がらくた」が、一つの製品として使用可能な「道具」になる可能性を持つに至った。これで、中国語のLinuxサーバを立ち上げる練習をすることにしている。
 という旨の、話を上記Y氏に軽い情動的な興奮を伴って伝えたところ、「お互いここにいること自体、○○○だ」という、上述の同意事項に、ある種の不安を感じたのか、二人してその場を去っていった。さもありなん、と思った。
(帰宅途上、秋の荒天で、かなりの被害が出たと先日伝え聞いた、岐阜付近を通過しながら)

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169[2000/09/18 23:28]場を共有することについて2

 日本教育心理学会シンポジウムにおいて、ジェンダーにからんだ家族研究への心理学的なアプローチのありかたについて各方面からの意見が提起された。
 家族における分業体制が、家族内のつながりを緊密かつ不可欠なものにし、それによって家族外との関係とは質的な面において相対的に異なる関係を実現していた従来の状態から、家族成員各個体の相互主体的な連携による家族内外との関係の実現へと変化する(べきだ、あるいは、であろう)という構図は、現状を見る限り、さまざまな曲折はあるとはいえ、おそらく後戻りのできない方向であると考える。とりわけ後者においては、その関係は、(衣食住にかかわるような)物の交流をめぐるものごとが関係を規定するのではなく、心的交流に特化した関係自体が露呈して展開するであろうことにおいて、より「人間的」なものになる可能性を秘めている。
 しかし、この関係が実現されたとき、果たして家族という共同組織が存立する根拠をどこに求め得るのかを考えると、従来からのように、「子どもの存在を考慮に入れることをもって近代的な家族という愛情関係存立の基盤が確立する」という旨の主張だけで事足りるのかという問題が生じるだろう。あらゆる物的・心的交流の関係が、「血のつながり」の無い関係においても、ほとんど質的な差異無く実現しうるとするならば、子どもはおそらく、夫婦の愛情関係を根拠づける実体としての役割のみならず、夫婦の各々の活動の展開を時として妨げる、「かすがい」ならざる「楔」としての役割を担う実体となる可能性をはらんだものとなってしまうであろう。
 心地よい閉じた場での愛情関係の実現ということであれば、ペットやロボットでも十分ではないか、という極論も、もはや非現実的なものではない。家族という実体が、同じ場を共有するという現実がいつまでも続くわけではないのでは、という一見極端な仮定から考察することの必要性を感じた。
(京都駅付近にて)

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170[2000/09/21 22:10]若き日の記憶

 JR出雲市駅からバスに乗り継いで1時間弱のところに、日御崎灯台がある。ここを訪れるのは高校2年生の夏休みの終わり頃に、下関から京都まで無目的で各駅停車の旅をした際に立ち寄って以来のことである。若き日のその日は真っ青な海であったが、今日は曇天ということもあり、そこにあったのは水平線も霞む鉛色の海であった。
 螺旋階段を目が回るほど回転しながら上りつめた灯台の頂上はさすがに高く、当初は足元がふらついて、手すりを持たねば移動できない不安定な状態が暫く続いた。しばらく、壮大なる眺めを楽しんだ後、私は再び狭い階段を回転を繰り返しながら、ゆっくりと登ってきた老人や、母親に抱えられた幼児、およびその父親とすれ違いつつ、地上までたどり着いた。そして、正面の広場で、灯台全景をカメラに収めようと、目を上げた。
 すると、そこではちょうど最上階まで登りついた幼児連れの父親が、その高さと景色に感動の声をあげたところであった。それに続いて、先ほど母親に抱かれていた幼児が「キャッキャッ」と歓声を上げながら飛び出してきて、さきほど私が手すりにつかまりながら恐る恐る移動していた頂上の外周を、歓声を上げながら走り回り始めた。母親といえば、壁に張りついていなければ移動できない状態で、父親も子どもの後を追うことができず、おそるおそる移動している様子であった。
 かってよく行われた"Visual Cliff(視覚的断崖)"の実験では、養育者の恐れの表情が、断崖への恐れの認識を乳児にもたらすことが確認されていたようであるが、この幼児は、両親の表情を見る間もなく、新規な景色と強い風に感動して行動を開始したらしい。若いということは、見えていないことであると同時に、場に制約されず生き生きと動き回ることができることでもあるのだと、しみじみと感じながら、先ほどの高所での恐れを想起し、今そこにいる両親の気持ちに共感して身震いしながら、その場を後にした。
 おそらく、両親はこのときの幼児の光景をはっきりと記憶に留めておくであろうが、幼児の意識には明日になればほとんど何も残っていないはずだ。もちろん、それでよいのだ。

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171[2000/09/26 00:55]自分を見つめる毎日

 さきほど、自室のカレンダーを見たら、8月のままであった。
 そういえば、このひと月は、そのほとんどをホテルにて生活していたことになる。
 ホテル個室のデスク前には必ず大きな鏡が設置してあり、仕事をしながら、普段は眺めない自分の顔面を、時折まじまじと観察することを強いられたので、自分と向き合う時間がゆっくり持てたはずであるのに、いっこうにそのような気がしないのは、対面することで、顔面の表面を観察する必要に迫られ、それによってお互い(私と鏡のむこうの私と)の貴重な時間が奪われただけであるからかもしれない。
 なにせ、微笑めばタイムラグ無く微笑み返されるというような次第で、怒りや悲しみの表情についても同様のことがいえるわけである。そのような状態では深くその表情の向こうにあるものに、踏み込む気概を削がれてしまう。
 自分を鏡に映し出すという行為は、他者とのずれを感じることなく、常に私に留まりつづける、常同的かつ循環的な行為であるのかもしれない。以前、中央線で大小二つの鏡を頻繁に取り替えながら、東京駅から中野までの間、途切れなく化粧直しをしていた若い女性のことを思い出した。彼女はどこを見ていたのであろうか。

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172[2000/09/30 02:16]隣人に関する考察

 ルカ伝にある「よきサマリア人」の例えは、まさに律法学者あるいはレビ人に対する「皮肉」であろう、という意見に対して、あれは皮肉ではなく、律法学者あるいはレビ人に対する「ユーモア」だと思うと、穏やかにコメントした人がいた。
 日頃、そのルカ伝の場面を前者の解釈において理解しがちであった私は、この「ユーモア」という表現によって、その例え話を位置付けたこの人の視角に、この物語から学ぶべき本質が示されていることに感心し、かつ感動した。

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173[2000/10/03 23:19]ロフトベッドの効用について

 愛用のロフトベッドを売却し、腰痛にも耐え得る極上のベッドを探そうと、先日、いつもの家具売り場に出向いて、様々なベッドを物色した。現在ロフトベッドを使用する理由を再考するならば、それはもはや仕事部屋における書籍やPCを置く空間の確保ではなく、起床時に再び床にもぐり込むことを、極力防止することに主眼が置かれており、このベッドは一度下に降り立つと、再度梯子を駆け上る気概を抑えこむという点において、そのもぐり込み防止に絶対的な効果を有していた。
 しかし、多数陳列されたベッドのなかで、店舗の最も奥に置かれていたあるベッドを見出すとともに、ロフトベッドを上回る機能を有するベッドがそこに現実に存在することを確認し、さらにそれは将来性という点においても、非常に有望なしろものであったので、早速導入したいという誘惑に駆られることになった。
 その機能を端的に説明するならば、スイッチ一つで、背もたれのようにマットが起き上がるだけでなく、そのマットの一部が水平に90度回転し、ソファーのような形状に変化するとともに、さらにスイッチを押しつづけるならば、ひじ置きの部分を支えにして、立位になろうとする使用者の行動を、補助牽引してくれるということであった。
 この「自立」を強制してくれるであろうベッドに、私は現在大変に惹かれているのであるが、もし、それを利用するならば、さらに腰痛を悪化させるほど、ベッドに依存する生活になりそうな気がして、自立と依存は両立し得るのかという思索の深みにどんどんはまり込んでゆくのであった。

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174[2000/10/12 00:33]搬送のための搬送

 いわゆるスーパーマーケットでの買い物には、レジでの精算の後に、白いポリエチレンの袋が手渡される、あるいは小額で購入することが常になっており、手持ちの布袋を毎日持ち歩いているわけではないので、これに購入した品物をひとまず収め、家路につくことになる。
 以前映画で見た、買い物という行為を生まれてこのかた経験したことのなかった婦人が、レジ通過の後に隣の婦人の手馴れた様子を真似て、ぴっちりと口を閉じてしまったポリエチレン袋を両手で揉みほぐして開く、というシーンを事ある毎に思い浮かべながら、袋の入り口を探索し、次にその袋に、重たく変形しにくいものから軽く変形しやすいものに、という手順で、缶や瓶に始まり、豆腐や果物で終わるという収納方法を、手始めに身につけていったというのが私の第一次搬送段階であった。
 しかし、これが定着すると、次には、収納時ではなく、運搬時、すなわち物が移動するという動的な相において、外界からの力学的な作用を一次的要因とする荷物間の相互作用に関心が向き、袋というものが、荷物の設置位置の如何によって、当初の階層が悉く崩れ、帰宅時には当初の目論見が、全くの根拠を失うほどに、なんらかの力学法則に基づいて上下左右が反転するような物の移動が行われてしまう、という現実に気付かざるを得ない段階に到達する。こうなると、搬送時の動きに応じて、物が次にとるであろう位置をも考慮に入れた収納を工夫してみる、という段階に到達する。これを第二次搬送段階という。
 しかし、ここまでの段階は、思い返すならば、美的感覚には優れるが、搬送するという行動を、人間生活という文脈から切り離した、「搬送のための搬送」というきわめて疎外された行為であることに、人は気づくことになるのである。
 簡潔にいうならば、食品を破壊されないように運ぶことに気を取られ、中身は程なく胃の中に入ってしまう栄養物であるにもかかわらず、それまでの短い時間を、余計なる気を遣って収納しかつ移動するという行為は無用だという、卓越した観点から、荷物の収納を進めることができるようになるのである。
 これにより、みかけ上はぞんざいな物の収納方法がとられているように見えはするが、実のところは、商品に対する理解の深まりがその奥にはあるのであり、決して行為が質的に退行したのではないことに注目することが肝要である。これを、第三次搬送段階という。これによって、私は、消化のよいように砕かれた豆腐や、刺身とおにぎりに分離されたにぎり寿司などを賞味することができるのである。
 発達は螺線形を描くというが、このような思考の同道めぐりは、はたして螺旋といえるのだろうかと心配にはなる。

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175[2000/10/18 23:03]敵について

 ある作家の随筆中に「敵」という表現があり、それがその男性作家の夫人を指すものであることを、数ヶ月前、ラジオでその作家の文学作品が朗読された際に、たまたま耳にしていて知ったのであるが、先日、その当の夫人の講演の場で、夫人自身がご主人を指示するのに、同様の「敵」をごく自然に使用されたのに出会い、その両者の呼称が、あまりにも似通った相手の性格叙述の文脈上にあらわれていたので、私はそこに、その作家夫婦の関係というものの、成熟しながらも、緊張を持続して力動的に展開していた様子を、生々しく感じることができて興味深かった。
 夫の死後も、「敵」を念頭に置きながら、その夫との辛苦をともにした関係を手がかりに、夫への尊厳の意識を深めるとともに、自己実現への営みを持続できる夫人の姿勢には、外部の「仲介者」の手を許容しない、頼もしさと無き夫への愛情の深さが、感じられる。私は真の対話的関係は、このような関係をその延長線上に置いたものであるべきだと思う。
(と書きながら、数年前、同時に賞を受け、世界から高く評価された二人の政治的指導者のことを思い浮かべた)

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176[2000/11/04 22:46]多様なる選択可能性について

 画家の保手浜孝さんが、絵本の作成にパソコンを使うのを止めてしまったのは、「取り返しが利く」ことが描画の際の決断を鈍らせる、ということであったという。
 取り返しが利くことで、あらゆる可能性の中から、一つの色と図柄を選択してゆけるということは確かに、利点であるかもしれない。しかし、行為に及ぶ前の想像の世界で、あらゆる色彩と図柄を思い描くという創造的な操作が、行為に及んでの試行錯誤に後退してしまうと同時に、あらゆる可能性を目前に並べている間に、時間軸における多様な表現活動の迅速な展開(これは勢いと言ってもよいか)の機会を、取り逃がしてしまうという欠点を、それは同時に有していることも事実なのであろう。

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