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INDEX of ふくろう通信III

041 [97/11/09 00:15] 墓場のふくろう/月はどっちに
042 [97/12/19 23:45] 墓場のふくろう/生活の姿勢について
043 [98/01/25 00:06] 墓場のふくろう/無重力
044 [98/01/31 16:30] 墓場のふくろう/経路についての3つの話
045 [98/02/10 21:40] 墓場のふくろう/伊勢えびの鋏について
046 [98/02/19 22:10] 墓場のふくろう/Think different
047 [98/04/04 20:40] 墓場のふくろう/案内人
048 [98/06/28 00:14] 墓場のふくろう/鍋で煮られた子
049 [98/07/05 16:01] 墓場のふくろう/ごじらの視線について
050 [98/10/30 01:16] 墓場のふくろう/それはとても晴れた日で
051 [98/11/24 23:35] 墓場のふくろう/頭上をみよ
052 [98/12/03 23:13] 墓場のふくろう/脱構築ふくろう
053 [99/01/17 23:07] 墓場のふくろう/六甲山のふもとで
054 [99/01/30 01:25] 墓場のふくろう/ぼくと君が座っていたのは
055 [99/02/02 00:20] 墓場のふくろう/ふくろう
056 [99/03/23 00:25] 墓場のふくろう/With a little help from my friends
057 [99/03/30 00:17] 墓場のふくろう/考え込むマニュアル


本文

041 [97/11/09 00:15] 墓場のふくろう/月はどっちに

 映画"Contact"の最初に描かれる、太陽系に存在する一つの青い惑星から次第に遠ざかってゆくシーンが、従来のSF映画における単なる空間移動と異なるところは、バックに流れているのが未来的な音ではなく、かってメディアに流れた過去の音であるということであろう。そこは宇宙の無味乾燥な真空地帯ではなく、われわれの過去が現在形で進行している場所であるのだ。そこにはあなたの父親がまだまだ元気に微笑んでいるかもしれないし、あなたの醜悪な過去が、生々しく演じられているかもしれないのだ。
 映画の主題は既にこの最初の場面で語られてしまったといってよい。スタニスラフ・レムの原作をタルコフスキーが映画化した「惑星ソラリス」において、スナウト博士は「われわれに必要なのは鏡だ」と言い放つ。宇宙の果てに行きついてそこに見いだすのは結局は自分という、本来もっとも未知なるものの姿なのかもしれない。われわれは自己の位置を見いだすのにサテライトを基準とするユニバーサルな時代に生きている。「私はどこにいるのでありますか」と問わねばならぬことがあるとしても。


042 [97/12/19 23:45] 墓場のふくろう/生活の姿勢について

 横浜の街を日中歩いていて、なにかしら気持ちが落ち着かないのは、この街では東が海、西が山に面しているからだろう。日頃何気なく神戸の街を歩いているのだが、北に山、南に海という感覚を繰り返すうちに、太陽の位置や地面の傾斜が身体の動きのなかに組み込まれてしまっていたらしい。
 その証拠に、夜の中華街では、そのような姿勢が気になることもなく、中華三昧を楽しむことができた。しかし、1名ではコースがとれないというのもまた座り心地の悪い話ではある。
 バーチャルな空間ではこのような経験はどのようにして再現され得るのだろうか。われわれの目にする光線についていえば、それはもはやこのような身体がなじむことのできる自然光ではなくなってしまっていることには違いないのだが...。
(「テレビのアニメでてんかん発作」というニュースが伝わってきた。折しもパシフィコ横浜でIP meeting開催中であった。)


043 [98/01/25 00:06] 墓場のふくろう/無重力

 自宅でぼんやりしていると、テレビが宇宙飛行士のことについて伝えていた。
 無重力で目をつぶると自分がどこにいるかわからなくなるらしい。
 重力の存在が自己を意識させる。
それでは、重力のない宇宙に漂っている地球もまた、自己を意識することなく、その上でいかなる醜悪な、あるいは感動的なシーンが展開されているかに無頓着に、黙々と星の周りを回転しているのか。
 冬が明けるということばが似つかわしくない今日この頃。


044 [98/01/31 16:30] 経路についての3つの話

 ルータでパケットのフィルタリングをしている。利用者としてメールを使っている限りでは、狭き門が設けられていることなど気がつかない。しかし、侵入したい人間にとっては大きな壁が見えているのであろう。

 夕方の通勤客で混み合う地下鉄東梅田駅のプラットホームに久しぶりに立ちながら、ある種の居心地の悪さを感じた。大阪では数十年間過ごしているし、梅田の地下は目をつぶってでも歩ける。しかし、この時間帯は私の通過する世界ではないのだ。私は抽象的な大阪という空間に生きているのではなく、私だけの持つ細い経路上に生きていたわけだ。

 家族の病気で、かわりにホーロー鍋を洗う機会があった。普段は中にある食べ物にしか出会っていなかったので、その古さと汚れに驚く。家のなかでの生活の経路はあまりにも一方向的であった。


045 [98/02/10 21:40] 墓場のふくろう/伊勢えびの鋏について

 梅田の阪急百貨店の地下には食料品売り場があって、その奥に大きな水槽がある。ここには伊勢海老が生きたまま保管されている。同士討ちを防止するためにはさみが紐で縛られているのだ。最近、そこに出向く機会が多くなったこともあって、その水槽の前を通過する度に彼等の存在が気にかかるようになっている。
 先日、知人の結婚式披露宴に招かれて出向いていった。並べられる料理の中でも海老はメインとなるものであろうが、主役の新郎新婦からすれば脇役だ。テーブルの上で、料理された自分の肉を腹部に詰め込まれ、時たま気がついたように箸をつけられる存在として、彼等は窮屈に縛られた人生を終えようとしていた。鋏を思う存分使う機会もなく、ただひたすらに他者の視線から外れた場所で時を過ごしてきた彼等の最期の姿がこのようなものになろうとは、自らは予想すらできなかったに違いない。
 長きにわたって外の世界を把握する手段でもある鋏を縛られた伊勢海老は、その鋏にかけられた紐を解かれた時、はたして目前に闘う相手としての他者を見い出すのであろうか、あるいは自他未分化のまま自己破壊的に他者を切りつけ、また自己を切りつけることになるのであろうか。この実験が伊勢海老について行われたことがあるのかについては、私は知らない。


046 [98/02/19 22:10] 墓場のふくろう/Think different

 幕張からの帰りにラジオデパート地下の「エレクトリックパーツ」でMac SEの中古のEthernet boardを購入した。30pの4MのSIMM4枚を同時に購入したものだから、店のおじさんが「SEのですよ。」と聞く。「そう、SEなんです。」お互い、にやりと笑う。今年のMacworld Expo98のブースでの会話にも、久しぶりにこのような、傍からみれば異様な親近感があった。
 通りがかりの他店の店頭でBNCコネクタ付き10mのLAN用ケーブルを捨て値で二袋購入し、この中を流れるであろう新鮮な情報に思いを巡らせながら、深夜の神戸に帰り着いた。


047 [98/04/04 20:40] 墓場のふくろう/案内人

 ロシアのSF作家、ストルガツキー兄弟の作品に「願望機」(群像社刊)というのがある。
 願望を満たしてくれる装置というのがその意である。 この作品はアンドレイ・タルコフスキー監督が映画化したСталкерという作品の脚本に当たるもので、そこには幸福を手にいれることのできる部屋(宇宙人がもたらした?)へと導く案内人が登場する。
 「密猟者」とよばれるその案内人は、「ゾーン」と呼ばれる立ち入り禁止区域をその部屋まで案内するのであるが、彼自身はその部屋に決して入ろうとしないのだ。 仕事柄、日本橋にパソコンを購入する人達の案内をしながら、いつもこの映画の主人公の言葉を思い出す。 「恐ろしいことは、誰にもあの部屋が必要でないことだ。」 われわれのテクノロジーはどこに向かっているのか。 「決して後戻りすることは出来ない」のは確かであるにしても。


048 [98/06/28 00:14] 墓場のふくろう/鍋で煮られた子

 先日、仕事で、ある中学校に行って授業を参観した。その教室の黒板の上の空間に沢山の生徒とおぼしき人達の首が鍋のなかに並べられていて、その鍋の下からは、激しい炎が燃えさかっている、という切り絵が掲示してあった。
 そのディスプレイの上には「ちゃんこ鍋のような教室」と書かれていたので、これはおそらく教室の連帯感を表わそうとしたディスプレイだとわかった。それにしても、あんな強火で煮たら、お互い誰が誰だかわからなくなるくらい、融合し、融和し合えるだろうな、と思った。
 そういえば、先週行った中学校のそれは「寄せ鍋のような教室」だった。中学校は鍋ブームなのだろうか。「フライパンで焼かれた子」より良いには違いない。


049 [98/07/05 16:01] 墓場のふくろう/ごじらの視線について

 まったく前触れもなくごじらが遠くからこちらにやってくる、というのがごじらの怖さであるとするならば、ごじらを見つめる視線は常にごじらに見つめられるのではないかという恐怖につながっている。昨日、テレビで見たごじら映画では、彼は常に人工衛星から位置が捉えられている存在であり、彼を迎え撃つメンバーの大半は、位置は定かでないがおそらくは非常に安全な位置から、まるでワンサイドミラーから観察するように、彼を見つめているのであった。彼の身体はあらゆる観点から分析され尽くした。けれども、幸か不幸か、彼は我々から視線を逸らしてしまったようだ。


050 [98/10/30 01:16] 墓場のふくろう/それはとても晴れた日で

 上海の宿舎で見るテレビには連日、歯磨きとVCDと携帯電話を広告する元気な声が流れていた。おそらく道路拡張のために取り壊された古びた建物の後には、インターネットに接続可能な情報コンセントの設置されたマンションが次々と建てられ、さらにその部屋に置かれたテレビからはやはり歯磨きとVCDと携帯電話を広告する元気な声が流れていることになるのだろう。しきりにテレビで流されていたCoCoという歌手の"Sunny day"という歌には、そのような活力を感じるものがあった。そこでは多くの人々が、未来というものについてはっきりとした輪郭をもったイメージを思い描いるような気がした。
 そこから飛行機で2時間ほどの、ある街のあるバス停から少し離れた路上で、朝から力つきて大きく目をあけて仰向けに寝転んでいる中学生の少年にとっては、太陽はあまりに眩しくて、ほ乳びんを隠されてしまった乳児のように、呆然と佇むしかないのだとすれば、そしてその光景が、上海で見た活力の先に辿り着かざるを得ないものだとすれば、それはあまりにも悲しいような気がする。
 父が50年以上も前に乗車したであろう、雨の中を内陸に向けて走る同じ列車の中で、これからやるべきことは何なのかについて、考えようと努力をしていた。


051 [98/11/24 23:35] 墓場のふくろう/頭上をみよ

 流星群が来るという話を聴いていた人が私に、「流星って流れ星のことでしょ。そしたら、たくさん願いごとがかうことになるんですか?」と問うてきた。こういう場合の答えは「そうだったらいいね。」なのだろうけれども、あまりの事実確認のような問いに「ふん、そうね。」と答えてしまった。
 むかし、クリスマスが来る頃になると、いかにもサンタさんがこちらを見守っていそうな夜空の星を眺めて、願いごとをしたことのあったことを思い出しながら、本当に久しぶりに夜空を朝方まで眺めてみた。
 共有するビジョンが果てしない程、願いは暖かくなるのだろうか。道の向こうの遠くのほうで、夜空が輝く度に、かすかな歓声が聞こえた。
 果たして何が地上に落ちてきたのだろうか。


052 [98/12/03 23:13] 墓場のふくろう/脱構築ふくろう

 画家の保手浜孝さんが彫った版画に「バランス」というタイトルの作品があり、そこには羽毛を震わせ、背中を丸めて鉄棒の上でようやくのことでバランスを維持しているようなふくろうが描かれている。ふくろうは「哲学的」なまなざしで、ときには首をかしげたりするものであるというイメージがおそらく一般にあり、そこからするとこのふくろうは、どこかとぼけた感がある。
 しかしはたしてそうか。彼等は案外、時折、人知れずバランスを崩すというモメントを通じてさらに「哲学的」になってゆくのではあるまいか。


053 [99/01/17 23:07] 墓場のふくろう/六甲山のふもとで

 夕方、山手幹線を摂津本山方面に向かって歩きながら、いつものようにそこにお弁当やさんがあり、コンビニエンスストアがあり、交番があり、一度も入ったことのないお好み焼きやさんがあり、最近空き地にできた真新しい食堂があり、交差点で信号が赤や青に変り、人のいない公衆電話ボックスに明かりが点り、車が東に西に走り、犬が走り、自転車が走っており、歩道の上を夕食の買い物に向かっているお腹の空いた自分がいることをしみじみと感じた。


054 [99/01/30 01:25] 墓場のふくろう/ぼくと君が座っていたのは

 映画「トゥルーマン・ショー」の末尾の場面で、「ショー」の最終回を見終わった視聴者の一人が、次の番組を探し始めるシーンには、テレビのスイッチを切った後、あるいはビデオのテープを引き出した後にふと感じる現実感と、同時に今までのめり込んでいたはずの仮想空間での感動が、所詮「他人ごと」でしかないという実感が的確に表現されていた。
 もし、私との出合いの後に、他人がこれと同じような感覚を味わっているのだとしたら、私も現実に生きながら、この主人公の悲哀を感じなければなるまい。しかし、幸いなことに彼は仮構の世界から外へと逃げ出すことができたが、私は生きたままここから抜け出すことはできないのだ。
 


055 [99/02/02 00:20] 墓場のふくろう/ふくろう

 寝間着に首を突っ込んで目を見開いてみた。
今日、朝から夜のこの瞬間までの間で、一番大きな目をあけているような気がした。
 


056 [99/03/23 00:25] 墓場のふくろう/With a little help from my friends

 普段、目を向けることもなかった頭上の本棚の「ビートルズ全歌詩集」が目にとまった。購入して3年もの間、手付かずで放置されていたようだ。旧き友に出会ったようで嬉しくて思わず手にとってみた。215ページをたまたま開いていたら、"Half of what I say is meaningless."という懐かしいフレーズが目にとまった。まさに「ふくろう通信」の実態そのものなので、これについて何か書いてやろうとさきほどから毛布にくるまっているのだが、何も思い浮かばないのは、おそらく、書く意図が曖昧なまま書くことを始めてしまったからでは必ずしもなくて、単に語彙とイメージと、そして感情の貧困さによるものであるのだろう。
 いずれにせよ、これは致し方のないことであり、時々コメントを寄せて下さる「読者」諸氏のおかげでここまで持続できたのを感謝せねばなるまい。
 昨日は雪がちらつく厳しい天気だったが、今日からは春らしくなってゆくのだろうか。


057 [99/03/30 00:17] 墓場のふくろう/考え込むマニュアル

 発達心理学会で「研究者倫理」をテーマにした作業グループのラウンドテーブルがあって、3日目の最終セッションで手が空いていたので顔を出してみた。
 学生読者を主要な対象として、作業グループによって提案された、研究遂行のための倫理規定は、一読して必ずしも「明解」な(「1ページ毎に激しくうなづく」)ものではなく、ときとして考え込んでしまうようなものであったが、「マニュアル」というイメージからはちょっと外れた趣向を読み取ることができ、少し安心した。
 「外部からの批判に耐え得る内部規定」としての倫理規定が各種学会で画定されている現状は、それが必要なものであるには違いないにせよ、倫理(=法)の本質的な意味を疎外しているようで、しっくりとくるものではない。この条項さえ守っていれば、あとは安心して観察、実験、報告ができる、という発想には、なにか逃げの姿勢があるような気がするのだ。
 わかりやすいマニュアルは、そこに書かれた項目さえ順守していればたやすく当所の目標が達成できる、ということにその良さがあることは確かである。しかし、研究協力者(被験者)との関係の中に入り込んでしまった研究者が、その関係を維持しながら、自分だけが安全な位置に退避する、そのための手がかりとして倫理規定がある、というのでは本末転倒である。研究とは研究協力者との関係の直中にいることなくして不可能であるという、当然の前提で臨むと同時に、その研究協力者とかかわりあうすべての行為の瞬間について、その「倫理」が、研究という行為を支える論理構造の本質をなすものとして、一貫して貫かれていなければ、研究自体が疎外されたものになってしまうに違いないのだから。


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