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ふくろう通信XI

by 墓場のふくろう

ふくろう通信260 [2002/08/14 00:53]月の不動性について
ふくろう通信261 [2002/08/17 09:13]I'm not a number?
ふくろう通信262 [2002/08/19 00:09]ふくろうの森
ふくろう通信263 [2002/08/25 01:37]観察の視角について
ふくろう通信264 [2002/08/27 23:36]青い空間に共存する二匹の魚
ふくろう通信265 [2002/08/31 11:34]Life as a house
ふくろう通信266 [2002/09/07 14:03]魚が出てきた日
ふくろう通信267 [2002/09/29 01:18]かかわりの中で気付くこと
ふくろう通信268 [2002/10/13 11:54]どこか遠くに
ふくろう通信269 [2002/10/31 21:44]感性的対象と感性的活動
ふくろう通信270 [2002/11/09 22:18]鏡としてのソラリスの海
ふくろう通信271 [2002/11/27 00:36]旧友の訪問
ふくろう通信272 [2002/12/07 01:22]補助記憶装置としての他者
ふくろう通信273 [2002/12/21 01:12]プライベートとパブリックについて
ふくろう通信274 [2002/12/31 12:34]ミネルヴァのふくろうは
ふくろう通信275 [2003/01/09 22:03]文脈効果あるいは構えの理論
ふくろう通信276 [2003/01/26 17:27]世代が物語る場
ふくろう通信277 [2003/02/01 19:25]メディアとマリア
ふくろう通信278 [2003/02/16 03:52]不要な要素の除去について
ふくろう通信279 [2003/03/08 14:50]ペルシャの市場にて
ふくろう通信280 [2003/04/03 01:06]季節の変化をになうもの


本文

260 [2002/08/14 00:53]月の不動性について

 1969年7月21日、私は大阪にあった自宅居間のスタンド上に置かれたテレビ側面の、換気口に向けて強風を供給し続けていた扇風機の機能に対し、もはや望みはないと判断し、その換気口の奥にほのかにオレンジ色に輝く真空管をいつもながらの癖で確認するとともに、慣例に従って、その木製ボディ右側面を、微妙な手つきで叩きながら、同期から逸脱した画面の回復を試み始めていた。
 その数分前、ほぼ同一緯度上南半球草原の直中にある、パラボラアンテナの制御室において、私とその心理的な程度においてはほぼ同一の不安と緊張感で、機器に向っていた人々がいたであろうことを、映画"The Dish"(邦題「月のひつじ」;Rob Sitch監督 2000年作品)を鑑賞するなかで知ることとなった。
 映画に登場する、月着陸計画の詳細を父親に語り聞かせる町長の息子には、新聞記事から雑誌にいたるまで、アポロ計画に関する記事を網羅的に読みあさっていた当時の私が投影されると同時に、途方もない距離のつながりをとりもって、ひたすら経路を維持するアンテナ技術者には、なにかいくぶん月並みになったとはいえ、今の自分の仕事が投影されることになり、一つの映像世界に生活時期の異なる同一の人間が二重化されて描かれているような、おそろしく親近感と現実感を感じる経験をすることとなった。
 月というものは、とてつもない彼方の世界にありながら、その表情をいささかも変えることなく、この数十年の半生の間、空から私を眺めているという点において、すぐれて安定した参照点であった。その間、世界はその不可視な構造を、私に対して露にしてきたことには違いなく、その意味において、齢を経ることの有意性は、この半生において確認できたはずである。
 しかし、大人より遠くを見ることのできたあの時代に、立ち返ることのできる思考回路を、再び回復・維持しなければならないこともまた、同時に確認されねばならないのであろう。
 いずれにせよ、これまた先日観た映画"The Time Machine"において、地球に異様に接近した裂け目のある月を観て以来の、悪夢に似た不快かつ不安な気分から、少しは抜け出すことができたように思う。

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261 [2002/08/17 09:13]I'm not a number?

 南京街にて食事の後、Starbucksに知人と入り、お決まりのカフェラッテを注文したところ、カウンターから不意に私の固有名でにこやかに呼び掛けられた。翌日、ハーバーランドの旅行代理店にクーポン券を受け取りに出向いたら、先日の担当者が以前に見覚えのある顔に入れ換わっており、これまた私の固有名でにこやかに呼び掛けられた。
 神戸市内で生活するのは監視カメラの中にいるようなものであろうが、固有の人格として認められたことについてはまんざら悪いことではあるまい、と観念し、仕事部屋に戻って、ポストに投函されていた封筒を開けると、そこには私の固有名の下に固有番号の印刷された紙切れが入っており、今後国内の行政機関が私の情報に関しては、この番号にて互いに参照しあう旨の説明が記されていた。番号は"No.6"ではなかったが、前二者の参照とは質的に異なった、"1984"に登場しそうな無気味なまなざしを感じた。

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262 [2002/08/19 00:09]ふくろうの森

 深夜、阿寒湖畔のホテル屋上にある人気のない露天風呂にて、背後の山から来たりて頭上を流れゆく霧を眺めながら、吸い込まれるように身をのりだして、湖畔に明かり一つない対岸方向の、曇り空の下に広がる湖面をながめてみた。
 無数の息を潜めた生命体によって、厳しい視線を向けられているような、原始的な怖れの気持ちが湧き起こるのを感じたが、これは昨晩、層雲峡の同じく露天風呂にて、川のせせらぎを耳にしながら、自然を眼前にしている感覚を享受し、のんびりとくつろいでいた時とは異なる、自然に個体性を否定されて呑み込まれるような不思議な感覚であった。

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263 [2002/08/25 01:37]観察の視角について

 ある心理学実験室の構築に関与して、施設見学や、その構造に関する様々な助言を受ける機会がこのところ重なっていたが、その空間構想の段階で、知らず知らずのうちに、伝統的な「観察」の構図に依拠してしまっていることを、映画"Das Experiment"(邦題"es[エス]";2001年作品)での「実験」展開場面を鑑賞するに及んで、改めて痛切に感じさせられることとなった。
 そこでは、「囚人」および「看守」を実験的に演じる各々の役割遂行者の振る舞いの中に決定的な対比関係が浮き彫りにされる囚人服と制服という衣服の機能様式、監獄という構造物がその内部での生活行動を枠付ける様式、そこでやりとりされる言語的コミュニケーション関係の定型的様式など、いわゆる制約を受けた行為の姿勢が対人関係に及ぼす影響力の恐ろしさについて、なかなかに示唆的な場面展開がなされていたが、同時に、それらを第三者的に観察し記録する研究者が知らず知らずのうちに入り込んでしまう、データ収集至上主義についても、厳しい目が向けられているように思われた。
 また、作品鑑賞中、私が実験室内の主人公達の行動を眺めることについては、眺められることを同意された「実験者」と同じ境遇にいるという感覚で、自然な気持ちでの鑑賞が可能であったが、映像世界内に生活する「実験者」という特定の役割遂行者の行為・関心の位置に固定した思考にあまりに関心が向き過ぎたが故に、普段ならさほど違和感を感じないはずの、主人公やその友人が、実験室外の広く外部に開かれた窓をもつ個人的生活空間の中でプライベートな行為におよぶ場面を鑑賞することには、少なからず違和感と後ろめたさを感じることとなった。
 おそらく普段ならば、映像世界に対して絶対者として超越的な特別席が用意されており、いかなる行為も「起こりうる」し、「鑑賞しうる」ものとして存在するべきであるところを、職業意識が過剰に介入したことにより、映画の世界の中にある特定位置を措定して居座ると同時に「遠慮」してしまったからかも知れない。
 いずれにせよ、私が映画内の実験者ならば、部屋の各所に設けられた監視カメラ以外に、主人公が取材目的で使用していたビデオカメラ付き眼鏡と同等のものを各研究協力者に装着することを依頼し、個々人の視点をもデータとして取り込むことを必須のこととしただろう。勿論、それとて研究協力者の固有の心理を掴んだことにはならぬであろうが、映画において、このビデオカメラ付き眼鏡が非常にあいまいな位置付けにあるように思われた故に、とりわけそのように感じることとなった。これは同様に映画の手法としても、もっと効果的に使用できたのではないかと考える。

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264 [2002/08/27 23:36]青い空間に共存する二匹の魚

 県庁に仕事で出向いた帰りに、日光の眩しく差す鯉川筋を東方に横切り、三宮までの細い裏通りを久しぶりに散策した。地震の前からあったと記憶するポストカードやTシャツなどを商う店頭に、曾てボリビアにて倒れたChe Guevaraのポスターが立て掛けられていたので、それに惹かれるように店内に入り、ポストカードを物色した。
 そこには上記革命家のポストカードの横に、昨年の9月初頭にこれまた倒れた高層の建造物の在りし日の勇姿が鮮やかに写ったNew Yorkの絵葉書が置かれていたので、この各々倒れた構造体のポストカードを並べて置くならば、仕事部屋の卓上が深い思索の場と化すであろうと期待し、購入を思い立ったが、ふと横を見ると、瑞々しい青色の背景に二匹の魚の、向きがほぼ直交しながら、かつ対峙しているというPaul Kleeのポストカードが置かれていたので、この二匹の魚の互いに向き合う角度は、暫くは鑑賞する私に幾分の緊張感を与えるであろうが、水中に共存することにおいて繋がっていることが安心感を与えてくれるように思われたので、上記二点の購入を取り止めにして、この一枚を購入して、再び明るい光の差す店外に出た。
 問題は、このポストカードを受け入れてくれる宛先が、いまのところ存在しないということであろう。

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265 [2002/08/31 11:34]Life as a house

 "Life as a house"(邦題:「海辺の家」)という表現にどうしても違和感を感じてしまうのは、もともと家というものは、人間主体に喩えられるよりも、人間集団あるいは関係を象徴する手がかりとして用いることが、我々の文化においては一般的な方途であるからであろう。しかしながら、海に向けられた開放的なガラス窓に夕日が照りつける、断崖上のログハウスが、上空からぐるりと巡るようにして写し出されるラストシーンを観ながら、彼等にとって家とは顔あるいは身体であり、それを受け継ぐという行為には、そこに寄生して場を維持するというよりも、それに向き合うもう一つの個性的な顔を対置するという行為が要求されることになるのだ、と感じることができた。
 おそらくはそれゆえに、息子役のSam(Hayden Christensen)は、父と共同で完成した構造物を、惜し気もなく手放すことができるのである。そこは父の人生の物質化された手がかりを見い出すことができる場ではあっても、決して自分の閉じこもる居場所とはなれないことを、彼は感得したのだろう。

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266 [2002/09/07 14:03]魚が出てきた日

 先日、神戸宅の厨房において、複数回にわたり爆発事故が生起していたことが、種々の証拠により明らかになった。地震の際に全国から寄せられた救援物資の一つに、アルコール入り清涼飲料水があり、被災地も落ち着きを取り戻したころに、補給先を失った12缶入りのそれを、ケースごともらい受けたまま、日頃アルコール類の摂取を習慣としないが故に、転居にて持ち込まれながらも、厨房の奥に顧みられることなく放置されていたその缶が爆発したわけである。
 普段なら手動で内部に押し込まれる開口部が、内圧に耐えられず押し出され、外部に向かって開かれている様は、なかなか壮絶な印象をあたえるものであったが、同時に、それだけ時が流れたという感慨にもひたらずにはいられなかった。
 ところで、このところ、流れてくる様々なニュースにおいて、破損した器機・設備を顧みることなく、さらにその検査時期を操作して、我々の生活に壮絶なる事故を招来する可能性を高めるような行為が、電力企業により意図的かつ組織的に行われていたという事実が指摘されるにいたっているが、これなどは、悲惨なる過去の事故から時が流れたがゆえに、忘却とともに心構えが緩むに至ったという、しばしば説明される経緯以上に、より積極的に新たなる事故を待望するかのごとき組織およびその成員の姿勢が明示されているようで、終末の気配を感じざるを得ない。
 そういえば、食料品量販店の魚売り場において常時流されている、魚の購買を煽るなかなかに軽快な歌の最終フレーズを、以下のごとく繰り返し口ずさんでいたことを、上記考察をしながら気付いた。
 「ぼくらはさかなを、まっている」

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267 [2002/09/29 01:18]かかわりの中で気付くこと

 上海より神戸に戻り、帰宅する間もなく歯の治療に出向いた。
 この数カ月の歯間清掃の度毎に、歯科衛生士による糸楊子の上下歯間への差し入れ行為に対して、最初はじっと頭部を固定するのみであったが、しだいに微妙な力の方向を察知して、糸が歯間に円滑に挿入されるように頭部の筋緊張の方向を調節することが可能となり、かつ作業が円滑に遂行されるに至っていることに気付いた。
 そういえば、滞在中の会食時に、自分は朝と昼、ひいては昨日の食事の内容に基づいて、夕食のメニューを選択するので、過量の品目は不要である旨の話を持ち出したところ、それは単身生活ゆえに可能な選択行為であり、会食が一般的である上海の生活に限らず、他者と生活を共有するならば、そのような自主性は往々にして制約を受けるものである旨の忠告を好意的ながらも受けたことに思い至った。
 二日後、広島の料理店にて仲睦まじき知人夫婦と三人にて夕食を共にしながら、夫婦関係や文化比較を問わず、積極的なものであれ消極的なものであれ、観照することに留まることなく、このような関係の中に入り込んで阿吽の呼吸を体得する過程を考察することの必要性を改めて感じ、かつ反省した。

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268 [2002/10/13 11:54]どこか遠くに

 最近は仕事とはいえ、旅に出ると必ず体調不良に陥るので、すんなりと熊本まで出かける気分になれず、昼過ぎまで床についていたが、昼食を済ませ、webで路線などを探るうち、博多駅近辺の温泉を備えているというホテルに偶々目が留まったので、方針を転換してほとんど衝動的に予約し、旅支度を始めた。
 夕方、神戸宅を抜け出し、時速300キロにて姫路を突き抜け、夜の山陽路を西に向った。トンネルの多いこの夜間の列車は、安らかに眠るには都合よいにせよ、旅の雰囲気を味わうには物足りないものがあったが、隣に同席した、もの静かに談笑する二名の男性の方言が、アルコールの回りも手伝ってか、終点に近付くにつれて明瞭度を増してゆくのを耳にしながら、そこにはじめて移動しつつある距離というものを感じることができた。
 塩分濃度の高い温泉に浸かりながら、わざわざ出向いてきたのは、温泉ある故なのか、あるいは温泉を理由に遠くに出向くことを志向したのか、について考える。
(温泉のある読みにくい名称の某ホテルにて)

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269 [2002/10/31 21:44]感性的対象と感性的活動

 先日、三宮センター街の淳久堂にて新刊書のコーナーを珍しく漁っていたところ、Die Deutsche Ideologieの岩波文庫版翻訳新刊書(河出版)が、何気なく積まれているのに目が留まった。
 思えば二十年以上も前、コミュニケーション(精神的交通)などに注目するに至る契機の一つとなったといえる本書との久しぶりの対面は、その間の私の研究における体たらくをより一層、自らに印象づけるだけでしかなかった、といえばそれまでであるが、物質的な層に着目することを余儀無くされながらも、すぐれて精神的なる交通に関与する仕事(いわゆる「ネットワーク管理」)が一段落した時点で、再び本書(それも河出版)に出会えたことには、何か因縁のようなものを感じた。
 ところで、今日、仕事を終え、いつもの店にて食事にありついていた隣席において、何がしの資金投資を対面の客に推賞する説得調の語りかけが行われるという機会に遭遇したが、その「演説」には、これまた二十年以上も前に、当時頻繁に学生に対して行われていた説得調の語りかけにおいて頻繁に使用されていた、上述書物に類する書物に記載されていた社会用語が、ほんのあしらい程度ながらも、非常に「適切」に文脈にはまり込んで使用されていたのであった。
 思うにこの説得者が、当時はそのような「商売」にからむ説得には正直なところ使用することもためらわれたそれらの用語を、一部適切に現状分析の用語に用いながら(かつ一部骨抜きにしながら)活用しているところは、私のように未だそれらの用語を抽象的に弄んでいるのに比して、激烈に変化する現状を適切に反映し、かつ自己のものとしているという点において、格段に「優れた」行為であり、実践的なる批判行為である(正確には「あり得る」)のだなあ、と素直に感動した。

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270 [2002/11/09 22:18]鏡としてのソラリスの海

 "Solaris"が米国にて再映画化され近日公開されるというので、久しぶりにStanislaw Lem著の同名小説翻訳「ソラリスの陽のもとに」(早川書房)をめくっていたら、ソラリスの「考える海」が「ただ飽きもせずに自分の姿をさまざまな形に変える仕事を繰りかえしているだけであった。」という一節に目が留まった。
 かつて、この一節を初めて読んだ際には、この孤高の「生命体」の営為に「神々しさ」を感じたものであったが、いまこの節を読みながら、同じくそのような感をいだきながらも、それに対比して描かれている「地球人」の「都市を建設」し、「橋をつく」り、「飛行用の機械をつく」り、「宇宙空間を征服」する営為にも、同様の感慨をもって受け止めんと努力している自分に気付いた。
 人間は、他者との関係性をのがれてひとつところで熟考しているだけでは世界を認識することもできなければ、自己を意識することもできず、人間関係ひいては世界をかえることもできない存在であることを、この「海」の存在は頗る謙虚に映し出しているのかもしれない。
 映画СОЛЯРИС(邦題:「惑星ソラリス」)において、主人公の心理学者ケルビンは「海」の上に浮遊するステーションのなかで「われわれが初めて人類愛というものを知ることになるのかも知れない」と呟く。われわれがこの域に達するには、あとどれだけ砲弾が人と人の間を行き来しなければならないのか。
 (新しい関係を求めて海外に飛び立たんとする知人の知らせに励まされながら考えたこと。)

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271 [2002/11/27 00:36]旧友の訪問

 荷物が取り除けられて空になった寝室を、壁を眺める空間として数カ月間放置していたが、思い立ってベッドを運び込み、就寝した。久しぶりの寝室故に、寝付かれぬまま数分が過ぎたが、いつしか眠りに落ちた。
 このまま心地よい朝を迎えることができれば幸福だったのであろうが、私の居住する集合住宅外でなんらかの車両が停車し、そこから降り立ったと思われるあるエージェントが、私の仕事部屋のある戸口前の小さな門を無断で進み入り、いかなる理由かは知らぬが、施錠されているはずの戸口を突き切って、リビングルームから細長い廊下を猛烈な速度で私の寝室に接近した。
 室内にその速度を保ったまま飛び込んだらしいエージェントは、その場で運動を制止したのか、もののけはいはそこでぴたりと途絶えたのであった。
 屋外の車両、雨脚の急激な変化、なんらかの動物の幽かな動きが手がかりとなって、局所的に覚醒した脳内に造り出した、私の「旧友」との久しぶりの再会であった。
 曾ては聞くことのできた、豪快な夜の鳥の羽ばたきは聞こえなくなってしまったし、落ち着きのないその速度には、まさに自己が投影されているようで、なにかあわれで不吉な気配がした。

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272 [2002/12/07 01:22]補助記憶装置としての他者

 私の身体および脳が保持する記憶情報を「補助する」、というよりも、私の保有する記憶の大半をここ数年「担ってきた」と誇張しても決して過言でないPalmIIIが、その記憶内容全てを消失すると共に、装置自体も不調を訴え、螢のごときバックライトを点灯したまま、「脳死」状態に陥った。その帰結として、データバックアップのないここ1ヶ月程度の記憶が、私の脳内にもまったく存在しないことが判明した。
 仕事場を回って、会う人毎に、ここ数日以内に予定されている会議、行事、様々なる書類の提出期限などを訪ねて回った。そのなかで気付いたことは、PalmIIIの有無に関わらず、こと私の場合についていえば、スケジュールについては、事前にその機器を確認するというよりも、他者から指摘されてあらためてその機器にて確認することが、従来も往々にしてあった、という事実であった。

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273 [2002/12/21 01:12]プライベートとパブリックについて

 横浜みなとみらいで開かれたGlobal IPv6 Summitのある報告で、end to endのネットワーク環境を考える際には、セキュリティーの問題はファイアーウォール的な境界ではなくて、個々の端末レベルで考えるべき云々の話を聞いた後、知人達との会食時に、家屋の鍵の安全性について語り合う場で、「最近は鍵を二重にしなければ危なくて」云々の話が出たので、ふと思い付いて、「現代のように個体化が究極にまで行き着いた社会では、家という境界でプライベートとパブリックを分けるのではなく、個体レベルでセキュリティーを確保するというのが妥当な線ではないか」と毎度のごとく漠然と呟いてみたが、さしたる反応もなく終わった。
 しかるにその後、秋葉原にむかう夕方の電車のなかで、確かに先ほどの発言は、「ルーム」シェアリングが話題にされるようになった今日では一面で真実ではあろうが、若年世代の交際実態を鑑みるならば、身体を境界としたパブリックとプライベートという境界線の策定でさえ、既に過去のものとなっているのであり、守られるべき「私」というものは、個体という実体ではなく時間・空間的に「様相」として捉えられるもの、あるいは実体として感覚されたとしても、特定の部品として限定されるような「身体器官」のレベルで特定されるところまで行き着いてしまっているような、存在感のきわめて希薄な感覚にとらわれてしまった。風邪薬の服用のし過ぎであろうかと反省した。

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274 [2002/12/31 12:34]ミネルヴァのふくろうは

 映画「たそがれ清兵衛」において、黄昏時までにやるべきことを終えて家事の待つ自宅にさっさと戻ってしまうという主人公清兵衛の仕事への関与の仕方が、帳簿管理であろうが、人事処分としての殺人であろうが、変わることなく徹底しているところにこの主人公の特徴があり、それゆえ彼は、果たし合いにおいて、自らの居場所に不相応な長刀で臨んだ相手の剣豪にたいして、仕事上最も効率的な短刀で仕事をやりとげてしまうのである。
 武士の時代が終わり、新たな人間関係が求められんとしている時代にあって、おそらく旧時代の身分や立場、その他諸々の基本的な人間生活にとって不必要な遺制は、消える運命にあることが、そこには同時に描かれてもいるのであろう。
 ただ、不条理なのは、その新たに要請される人間像は、かならずしも人間本位には進展しないということである。おそらくそれは、美しい鳥海山を望む自然の中で、巡る季節を感じながら日々を過ごしている人間にとっては、予想もしがたい規模のシステムが動き始めた時代であったからであるに違いない。上記閉鎖的空間で交わされる二者の対話が、独語のように聞こえるのは、彼自身が失われゆく良きものを、自ら担っていたからなのであろう。しかし、はたして彼は、藩の帳簿を管理しながら、この地において時代の「夜明け」をどれだけ感知し得ていたのであろうか。

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275 [2003/01/09 22:03]文脈効果あるいは構えの理論

 三宮のCDショップにて、いつもは形式的にのみタイトルを確認している"FOCUS"のコーナーに"FOCUS 8"なるタイトルの「24年ぶり」に製作された新譜CDを発見した。メンバーにThijs van Leerの名はみられるが、Jan Akkermanの名はない。
 不思議なことに、このアルバムをFOCUSの追憶アルバムとして聴取するならば、どこかで聞いたフレーズのぎこちない寄せ集め、と感じられるのであるが、Thjis van Leerの新譜として鑑賞するならば、なかなか素敵な作品群だということである。
 後ろ向きの姿勢では、良いものまでも見失ってしまうのだなと、年の初めにあたって思う。

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276 [2003/01/26 17:27]世代が物語る場

 小学生のころ、時々「遊び」のために侵入した大阪教育大学天王寺分校を、小さな研究会のため久しぶりに訪れた。当時、大学は正門付近から多様なる学生組織によって設置された大きな立て看板が立ち並び、子どもながらもその騒然とした雰囲気や、ある種の「祭り」のような活気、「大学生」というものの存在、を十分に感じ取ることができたが、昨日のその正門付近には、ある学術研究集会開催の小さな掲示物や、放送大学受講施設を示す印刷物様文字のプリントされた横断幕掲示以外には、これといった掲示を見い出すことはできなかった。
 当時はある種の歪みをもちながらも、そのなんらかの方向性が集約され明示されていた学生集団のベクトルは、現在ではその個々人の志向の多様な方向性ゆえに、相互に水面下で牽引しあって、沈潜しているのであろうか、とも思ったが、それ以前に、牽引しあう関係の場もしくは同世代という存在自体が消失しているようにも感じられるのであった。それを「回復」する場は、大学という施設では、もはやなくなっているのであろうか。
 ちなみに、多様な経路を通じて参集したuniqueな研究者により開催された、比較的若年世代にて構成される研究会参加者の最年長者は私であった。歳だけは確実かつ無為に浪費してゆく自分を感じた。

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277 [2003/02/01 19:25]メディアとマリア

 マリアにどのように「触れる」べきかについては、その行為を字義通りの意味において実践ないし意識することを当然ながら無しに来たのであるが、「ゴダールのマリア」(後半 Jean-Luc Godard監督「こんにちは、マリア」"Je vous salue, Marie", 1984)で、他人をもっぱら搬送するタクシードライバーのジョゼフが、ガソリンをもっぱら供給するスタンドを居場所とするマリアへの「触れ方」について「強化学習」を受ける場面において、彼がマリアの身体から掌を手前に引き取るように触れるシーンを観て、これはどこかで観た仕種であるように感じた。
 もちろん、天使ガブリエルに「負の強化」を受けながら対人的相互作用に臨むなどという機会には、幸か不幸か遭遇したことのない私としては、その感覚の記憶が人間とのかかわりにおいて経験したものではないことは確認することができたのであったが、今日、実家にてテレビ画面を長時間眺めていて、ふとそれがブラウン管、即ちテレビ映像に対する「触れ方」であることに気付いた。ブラウン管表面に写し出されるオブジェクトに対しては、我々はいかなる情動的な反応をも伝えることはできないし、その世界に介入し貢献ないし妨害することもできない。写真のごとく手に取ってそのアルバム構成に介入することさえもできない。ただ流れ出る映像を我々は受け入れるのみである。映し出され、降り注いでくるものが必ずしも無償の愛ではなく、その世界はたとえ構成された「現実」であるとしても、それらは普遍性のアウラを背負ってしまっている。
 マリアの「愛」の一解釈をそこに観たように感じながら、テレビのスイッチを遮断し、手許の携帯情報端末の液晶画面を爪先でタッピングしてcyber spaceにむけメッセージを発信したが、幸いなことに、天使ガブリエルが部屋に乱入してくることはなかった。

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278 [2003/02/16 03:52]不要な要素の除去について

 親知らずを抜いて痛みが強まり、寒気を感じる程に体調が変容した。不要なものとはいえ、器官の全体構造の一要素であったことを実感した。

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279 [2003/03/08 14:50]ペルシャの市場にて

 ウディ・アレン(Woody Allen)が言い訳のような口調で、幾分自己了解的なことばを弾丸のごとくに相手に叩きつけるだけでなく、カメラに向って、即ち第3者である我々に向って見境なくことばの雨を降らせるその手法は、彼の意図するか否かにかかわりなく、鑑賞するものの目ひいては意識を銀幕のこちら側の世界に引き戻し、映像の中に展開される一つの完結した物語が、映画の描き出そうとしている世界なのではなく、その物語を多声さによって破壊することで、それが現実の不可解さを映し出すたんなる道具立てとして位置づけられていることに気付かせるのである。
 このようなことを思いめぐらしてしまったのは、深夜のテレビで"Love and Death"(邦題:「愛と死」)が放映されるのを鑑賞したという事実のみならず、近頃テレビから流れる国際情勢にかかわる報道の編集様式がいかにも安物に思えてしまったからかもしれない。それはその報道に映し出された登場人物の責任なのか、編集し映し出す側の責任なのか、あるいは鑑賞する側の怠慢か、と思考がふらついてしまい、ネットワークに向ってついウディのごとく、ひたすら言い訳のような口調で語りかけたい気持ちになってしまう。
 因に、先日観た"The Curse of The Jade Scorpion"(邦題:「スコルピオンの恋まじない」)では、対立しあっていた主人公の男女2名が、最後に仲睦まじく旅立ってゆく場面が、観客の「目前」ではなく、オフィスのガラス戸を隔てた向こう側の世界に描かれていたが、この観客とキャストの空間を断ち切るような演出は、上述の演出を逆説的に表現しているようで唸らずにはいられなかった。私は、ブッシュないしフセインの演説には、このようなガラス戸は無理にせよ、せめてウディがしばしば用いる「ペルシャの市場にて」を、バックグラウンドミュージックとして流しながら「鑑賞」すべきだと思うと同時に、まさに現物のペルシャの市場を、バックグラウンドミュージック無しに編集抜きの映像として流し続けるべきだとつくづく思う。それはマスメディアの力を借りずとも、既に可能な時代に入っているはずではないだろうか。

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280 [2003/04/03 01:06]季節の変化をになうもの

 野口武彦氏の著になる「幕末気分」(講談社刊)所収の「幕末の遊兵隊」には、戦場を遠く離れて、大坂の街中で日々観劇や飲食、花見にうつつをぬかす旗本・御家人の姿が、当時の手紙資料を元に描かれているが、私も夕方のひとときを仕事場の中庭に咲く桜の木の下で過ごしながら、戦いの続く地がある一方で、この世界は、花開きつばめ飛ぶ春を楽しむことのできる世界でもあることを実感し、確認することの必要性を強く思うのであった。
 その枝は無数の蕾と花弁で占められていたが、幹の各所には緑の新芽が硬い樹皮を突き抜けて、次の出番を待っているのであった。私は、上記著作所収「徳川慶喜のブリュメール十八日」に取り上げられている、慶喜による鳥羽伏見の戦いでの戦闘放棄と逃走は、指導者としては花と散るよりも賢明であったのではないかとも思うと同時に、新たな構想を実現することなく中途半端な時代を招来してしまった責任においては、卑怯な行為でもあると思うのであったが、いずれにせよ、この幹の新芽が結局は主役なのであることを、その位置に立つものとして決して忘れてはならぬのだと思った。

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