背景はhttp://www.jaguarcars.com/jp/のものを転用しています

English

ミラーサイト


 

Jaguarな人生

 

前史 -- クルマとの出会い

クルマからMark 2へ

横浜到着から岡田医院入院まで

永遠形成外科長期入院

きんさんぎんさん

 

ぎんさん、さようなら

今までやったこと

リンク集


前史 -- クルマとの出会い

1956年だったかの冬、当時小学二年生だった私は、学校からの帰り道、ウチに行き着く前の長〜い坂下に着いたところ、丁度そこに赤と白のちょっと空飛ぶ円盤のような格好をしたタクシーが止まっていました。後にそれはDKWと言うドイツのクルマであると知りました(当時の日本では外車のタクシーがむしろ主流だったと思います)。ちょうどその車に乗り込んできた運転手さんと目が合ったところが私との自動車との関係の始まりです。

その運転手さんに「乗せてあげようか」と声をかけられ、何の気なしに「ウン」と言って長〜い坂の上まで乗せてもらい、ウチに帰り着きました。当時は丁度コメディアンのトニー谷の息子が誘拐された直後であったため、家に帰ってその話をしたらサア大変。同居していた祖父が早速坂の下に行き、近所の人に件のタクシーの運転手さんについて聞いてまわりました。結果、その運転手さん、森西栄一さんは長〜い坂の下の下宿に住んでいる根っからの子供好きの人だと言うこと、又近所の子供を良く自分のタクシーに乗せている、という話を聞いて祖父は一安心して帰ってきました。それにしてもタクシーの運転手さんが営業車に自分の下宿のまわりに住む子供を時々乗せて走っていたというのはオオラカな時代の話です。

その後森西さんは私にとっては兄貴のような存在となりました。森西さんの下宿に出入りするようになってからわかったことですが、森西さんは又大のクルマ好きで、その後ラリードライバーとなり、'60年代後半の国内ラリー界をあらし回っていたのですが、1970年にSCCN(ニッサンスポーツカークラブ)代表として東アフリカ・サファリラリーに参加した際、練習中の事故で亡くなられました。葬儀では当時は頭をスポーツ刈りにしていた若きレーサー津々見友彦さんが「モリチャン・・・」と言ったまま後が続かなくなるくらい声を詰まらせながら弔辞を読んでいたのが印象的です。森西さんと遭遇したことが私とクルマとのご縁の原点です。

クルマとのご縁の原点について語るときもう一つ、「ミック」を抜きにすることはできません。ミックは父の仕事の関係で1960〜62年の間イランに住んでいた当時乗っていた車で、1960年の購入時に既に7万キロ近くの走行距離を記録していた'56年型のVWの愛称です(この年代ですから VWにはカブト虫しかありません)。ミックは1962年の夏に我々一家が帰国するまで、今のクルマでもかなりコタエルようなハードな使用条件下で我々の足をつとめてくれました。何しろ冬は雪が降り夏は日中40°以上のところで、時には毎日何百キロと未舗装のガタガタ道を走ったりしたんですから。

ミックと別れた時には、メーターが一回りした10万キロを更に数千キロ超えていましたが、その間ハラハラさせられたことはあっても、人里離れた砂漠の真ん中でエンコされて困らせられるようなことは決してありませんでした。ミックが路上でエンコしたのはギリシャ第二の都市のセサロニキから5〜60キロのところで突如発電機のプーリーが割れたときだけです。その時は当時13歳の私がヒッチハイクでセサロニキのVWのサービスステーションまで救援を求めに行きました。見ず知らずの人が手を挙げると車に乗せてくれる人がいた、13歳の少年を5〜60キロ離れた町までヒッチハイクで送り出しても安全だと親が思った・・・今にして思えばオオラカな時代の話だとつくづく思います。このように苦楽を共にしてくれたミックの有り様の故に、私は「クルマ(少なくとも当時のクルマ)には魂がある」と確信しています。旧車オーナーの中には自分の愛車に愛称をつけている人を結構みかけますが、その背景にはこれらのオーナーがペットと主人との間の心の通いあいに似たものを、自分と愛車との間に感じているからだと思います。Mark 2にも時折「魂」を感じさせられるのですが、まだ愛称をつけるまでには至ってはいないようです。

そうは言っても結構ハードな条件下で使用されている10万キロ走ったクルマのことです。私がクルマの出す音、臭い、揺れに対して本能的に注意を払うのはミック以来の伝統です。

元へ

クルマからMark 2へ



1971年、私はロータリー財団という誠にありがたい団体の奨学金をもらって英国のケント大学に一年留学する機会を得ました。私のジャガー(英国ではこのクルマは「ジャギュワー」と発音します)との出会いは基本的にはそのときが初めてです。

もちろんそれまでも「ジャガーというのは英国の高級車で、'60年代の終わりになると従来の丸っこい形のものに代わってエレガントにスーッとのびた形のものがでてきて、ボンネットの上に銀色の動物が鎮座しているカッコイイクルマだ」程度のことは知ってました(森西さんのお陰です)。また英国に行く途中に立ち寄ったシンガポールで、たまたま裕福な華僑の所有するMark 2(だと思う)にちょっと夜の市内観光で乗せてもらい(あの暑さに弱いMark 2がどうやってシンガポールを生きぬいていたのか全くの謎ですが…夜乗せてもらったのには意味があったのかもしれません)、木や皮を多用したベンツやアメ車とは全く異なるクラスの高級感のある車だという認識はしていました。

しかし何と言っても'68年に発表されたXJ Series I がイングランドの曲がりくねった田舎道を優美に駆けるその姿は極めて印象的であり、それ故にこそ「ジャガーとの出会いの場所は英国」と言う次第です。そしてその英国で「一度はジャガーオーナーになりたい」と心に誓ったことでした。

しかしそれほど車キチガイでなかった私はその後ジャガーとの格別のご縁はありませんでした。いや、正直に言えば1980年代中頃だったと思います。ちょっと株でお金がもうかったとき、たまたまTokyo Weekenderという在京の外人向けコミュニティー紙に「ジャガー売りたし」との三行広告が出ており、心引かれるものがありました。その時はベンツ500 SELに乗るオカネモチの知人から「悪いことは言わない。ジャガーはよくコワレルからよした方がよい」と言われたこともあって決心がクジケました。そのちょっと後、今度は取引先の英国系銀行の支店長公用車の「3年で2万キロくらいしか走ってないXJ6 Series III」と言う出物があり、大いに食指がわきました。そのときはその銀行の取引先係の人から「都心でハイオクでリッター3〜4kmでも良いんですか?」と聞かれてしりごみをした次第です。

結局その時は支店長公用車と同じ値段で7万キロ近く走っていた5シリンダーのベンツ300Dを買いました。ただ、そのベンツに行き着くまでに話をした数人のクルマ屋さんに異口同音に「ベンツなんかジャガーに比べたらトラックだ」とか「調子よく動いてるジャガーに乗ってると『クルマってこうでなくっちゃ』と思う」と言うようなことを言われて「やはりそのうちジャガーを」と考えたことです。

余談になりますが、くだんのオカネモチの知人とは長い間音信不通だったんですが(従いその間私がMark 2オーナーとなったことを彼は知らなかった)、久方ぶりに彼が拙宅にきた際、「このMark 2誰の?エーッ!」ととカスレタ声で言う彼を「ちょっと一緒に乗って見ませんか?」と誘ったときの快感といったら...

1996年の夏、ご記憶にあるかもしれませんが、ジャガー・ジャパンがXJ6-3.2(X300 3.2リッター)を一週間貸し出すキャンペーンをやっていました。応募したところ「一週間はだめだが4日くらいなら」と言うことで借りだすことに成功。そこで寝た子の目がさめてしまいました。

とは言っても、600万円以上払って新車を買うほどの実力はなし(レストアすれば結局同じくらいかかるとは認識してませんでした)、当時のX300はまだジャガーデザインの底辺角目のXJ40(XJ40の持ち主の方スミマセン)のデザインを半分くらい引きずっている、赤い革張りのインテリアのあるモデルがない、ということで、も一つ食指がわかなかったのです。私は最新のXJ6/8 (X350)でようやくジャガー本来の姿を取り戻した感じがしています。1986年に英国で発売されたXJ40から2002年のX350までの16年間本当に長かったですね。閑話休題、そんな時Whizzmanをみていたら、シンガポールで乗ったとおぼしき車の写真がでています。あちこち電話をしているうちに勤め先の近所に事務所を構えるブローカー氏に行き当たりました。

その人が「XJ6より前のMark 2の方がデキがいい」とか「絶対最後までメンドウみます」とかなんとか言うのにのせられて、Series Iよりはるかに高いMark 2を買うための手付けを打ったのが1996年の9月。

それから待つことほぼ半年、インターネット上の世界的なジャガークラブであるのJag Loversに入ったり、英国のJaguar Enthusiasts' Club (JEC)に入ったり、Old Timerを立ち読みしたりしているうちに、ブローカー氏より圧倒的にMark 2については詳しくなった1997年1月末に(後でわかったが、これがブローカー氏にとり初のMark 2だった)我が車は横浜の大黒埠頭に到着しました。

ジャガーの到着する前から、日本のJECメンバーの方に紹介されたMark 2オーナーの安藤さんと知り合いになりました。それからやはりクルマの到着する前にOld Timer 30号に登場した岡田名人のところにおじゃまして、購入後の面倒見をお願いしておきました。

元へ

横浜到着から岡田医院入院まで

 

車が到着してから約9ヶ月。安藤さんにいろいろ教えてもらいながら、オイルを交換したり、グリスアップをしたりしているうちに、多少冒険心がでてきて、燃料系をいじったりし始め、ついには軟鉄の排気管に亀裂が入った際に排気管をステンレス製の新品に付け替えたりするまでに行きました。もっともSUキャブのオーバーフローからガソリンがジャージャー漏れしたときは原因が判らず岡田さんに往診をお願いし、あっさりとフロートに漏れがあることを見抜かれ「(この程度のことじゃ)食い足りなかった」と言われたりしましたが(赤面)…

自分の手に負えない漏電とか、パワステの鳴きとか、コアプラグからの漏れ、さらには用をなさないエアコンの取り外し(これは私が英国での出荷前に特注したモンだったのですが…車の到着が遅れたのは基本的にはこれの装着のため)については1997年11月に岡田さんのところに修理をお願いし、クリスマス前には修理が完了。こうして最初の一年を終えました。

岡田さんにうまくクルマを調整してもらったため、当面クルマの運転についての心配事がなくなったのですが、そうなると他のところに目が行きます。ボンネットの上の塗装に細かいヒビが入っている、Aポスト下の左のシルに縦の亀裂が入っている、と言ったボディー関係の瑕疵が気になり始めました。

元へ
 

永遠形成外科長期入院

  
 


安藤さんに「ボディーリペアは早めにやっておいた方がよい」とけしかけられたりしたこともあって、アチコチ板金塗装をやってくれるところを探しましたが、結局Old Timer 32号にでていた「有限会社永遠ボディー」を訪ね、松村社長のフィーリングに「この人に頼もう」と決めました(Old Timerさん再びありがとう)。

用賀から横浜・町田インターまで続く東名高速の渋滞にオーバーヒートしないかひやひやしながら松村さんのところに見積のためクルマを持っていったのが1998年の春分。クルマは5月に松村さんが直々に引き取って行きました。そのときの話で「マア5ヶ月」と言われていたのですが、塗装やボディーパネルをはがしてみたら思いの外重傷であることがわかります。松村さんは「切って新しく作るか、このまま閉めるかどっちでも行けますが…」と言いますが、「やはりこの際だから」とボーナスを賭けて大規模な切除手術を決断しました。後日岡田さんのところで会ったテスタロッサのオーナーさんは、パネルの下の「一触即ボロボロのオバケ」がでてきたとき、それを触ろうとしたら板金屋さんに「アーッそこはそのままなんだから触らないで」と言われたそうです。松村さんのところはボロボロの所を切除しても、新しい鉄板から切除した部分を再生できる技術を持ってるからこそ「どうしますか?」という質問になったのだと思います。

クルマが永遠ボディーに長居することが判ったので、車内のウッドパネル類をすべて塗料メーカーから紹介された有限会社山一塗装に持って行きました。同社の山田専務さんは「こんな仕事は初めてだけど、塗装で来た仕事は断らないのがウチの信条」と気持ちよく仕事を引き受け、私の願いをいれて漆で塗装をしてくれました。「これなら一生どころか二生持つはず」だそうです。

その後、永遠ボディーで私の車を担当していた職人さんが夏休み中に水上スキーで足を折ったとか、私自身1998年8月くらいから連続して英国出張することになり、陣中見舞い方々アオリに行けなくなったとかいったことが重なり、「クリスマスまでには」と言っていたクルマがでてきたのは最初に永遠ボディーに行ってから丁度一年後の1999年の春分、工期も予算も当初見込みの約二倍強まで行きました(女房は「女遊びをされるよりは…」と言って納得?してくれました。菩薩様に合掌)。

実は1998年夏にコロラド州Denverを訪問することがあり、Rocky Mountain Jaguar Clubの会合に招待される機会を得たのですが、そこで会った人たちに「5ヶ月なら早い」とか「バラしてみたら予想外のものが現れ予算オーバーになるなんてアタリマエ」とか言われていたので、それなりに覚悟はできていたんですが…

話はもどりますが、26年ぶりの英国では、道路でジャガーよりはベンツやBMWの方をよく見かけるのでちょっとガッカリしたり(BLMC時代の品質低下のツケが本国でも影響しているようです)、秋のJaguar Spare Parts Day(JEC, Jaguar Drivers Club共催)やNational Classic Car Showに行けたとか、丁度新S typeとRover 75が発表された、とか結構プライベートの方でもジャガーや英車を満喫できました。滞英中ロンドン周辺では数回Mark 2をみましたがいずれもブレーキ周りが強化されていたり、エアコンを装着されていたりと、結構改造を施されていたことが印象的です。

3/20ボディーが終わったクルマは永遠ボディーから岡田さんのところに直行。何しろ一年余りほとんどエンジンを回していないわけですからエンジンの調整が必要です。それ以外に英国で買ってきたステンレスのブレーキホースの装着、ハブの取り替え、足周りのベアリング類の取り替え、などをお願いしました(結局その課程でさび付いていた後輪のブレーキのピストンが発見されこれも取り替えることになったのですが -- クワバラクワバラ、でもこれでも結構車は止まったんですよ)。

そして岡田さんのJaguar Specialistとしての目で見た永遠ボディーの仕事の要補正部分の補正のためにまた永遠ボディーに戻り、ついでにボンネットをJaguar Spare Parts Dayで買ってきたルーバー付きのボンネットにのせかえてもらい(オーバーヒート対策)、結局すべてが終わったのが5/11。松村さんがクルマを引き取って行ってからホントに一年かかってボディーの方はおしまいとなりました。
 

元へ
 

きんさん ぎんさん




ウチにはMark 2の他に1992年に購入した三菱リベロという誠に実用的な車がありました。この車は普通女房が乗り回していましたが、彼女があちこちで始終こするので傷だらけでした。又通常は東京の都心をウロチョロしてたので燃費が悪い(Mark 2に比べればどうってことはないですが)以外はこれと言ったクレームもなく走ってくれてました。購入して8年もたった頃、三菱のリコール隠しが発生し「そろそろ車を買い換えようかな」と思っていた2000年秋、トヨタからシーケンシャルギア付きのMR-Sが発売されました。MR-Sは1999年秋の発売当時「この車なら30年後も我がMark 2のごとく輝きを失わずに残ってるだろう」と大いに注目していたクルマです。

トヨタのMR-2は海外ではInternational MR-2 Owners' Club (IMOC)というファンクラブが結成されるほど熱烈なファンを持つシリーズで、MR-Sも海外ではMR-2 Spyderとか、一部の海外のファンの間ではMR-2 Mark 3と呼ばれているクルマです。トヨタ車で全世界でこれほど広範にファンを持つクルマは後は2000GTとプリウスしかないと思います。

シーケンシャルギア付きならオートマ免許の女房でも運転できるはずだ。ウチは子供が半ば独立してるから、老夫婦二人だけで乗れる車でも良いじゃないか。大体女房の父親は女房が親元を離れ大学に進学したらフルムーンロマンスを求めてサンダーバードを買ってたんじゃなかったのか。

といった認識を背景に女房にMR-Sの購入を持ちかけると結構乗り気。早速近くのネッツトヨタに足を運びました。そこで応対してくれたセールスマン氏によると「シーケンシャルギア付きは生産の立ち上がりが遅れており試乗車がない」とのこと。「お台場のビッグサイトに試乗車が一台来るらしいのでそれが来たら連絡します」との言葉を頼りにその日は彼と分かれました。

しかしそうなるといてもたってもいられなくなり、早速近所のアレーゼに行きTwinspark Selespeed付きのアルファロメオ 156に試乗してきました(私はアルファ156もクラシックになりうるクルマだと思っています…ただし2003年にフェースリフトをした形よりは初期型の156の方がクラシックになるんじゃないかと思いますが)。クラッチも踏まずにハンドルについている+−のボタン操作だけでシフトアップやシフトダウンができるこの快感!操作を誤りセコンド発進したときムッとかハラハラしたはずのアレーゼの店長さんごめんなさい!

待つこと一週間。ネッツのセールスマン氏から電話で「明日ビッグサイトで試乗できるのですがどうですか」との誘いがあり。早速敬老の日にセールスマン氏出迎えのクルマでお台場に向かいました。ただその一週間の間で状況が変わってきてたんです。

実はその間女房はうれしそうに「スポーツカーを買うかもしれない」と彼女の母親に報告に行ってたんです。ところが母親は「サンダーバードは実用的ではなかったので結局売った」とか「大体私とxxxちゃん(女房のいとこ)をどっかにつれて行こうにもそんなクルマじゃミンナを乗せられないじゃない」と極めて現実的な話をしたモンだから、いっぺんに風向きが変わってきてたんですなー。

「最後の賭」とばかりにビッグサイトで試乗したシーケンシャルギア付きのMR-S。カーブに入るときにシフトダウンして、出るときシフトアップしなくちゃいけないのが面倒。シフトダウンすると急に力がつくのでコントロールがこわい、とオートマ慣れした女房にはさんざんで、ビッグサイトから帰る道すがらセールスマン氏と私は完全にションボリ状態でした。

それでも気を取り直してお店に行ってみると、ちょうど店頭にはヴィッツが飾ってあります。「これ良さそうだから乗ってみたい」(ガクッ)。しかしセールスマン氏はさすがにプロです。すぐ気を取り直して試乗をアレンジしてくれます。小さいのでとり回しがよいし、結構加速性能も良い、といよいよヴィッツが気にいる女房。セールスマン氏は敗者復活戦とばかりに早速商談コーナーに我々を案内しアイスコーヒーなんかを振る舞います。そして「やはり高速を走る場合は1300ccの余力が必要です」「高速を走ることを考えれば足周りを強化したユーロスポーツが」と言葉巧みにヴィッツの最上位車種に誘います。だけどビッツの最上位機種はカローラの一部機種より高いんですよ。「ヴィッツなら1000ccで十分だ」と思っている私の気持ちを読んでかセールスマン氏は、殺し文句「この際だからサンルーフをサービスします」。「スポーツタイプとスポーツカーでは違うんだよ」という気持ちは「屋根が完全に開くわけじゃないけど天井があくなら良いじゃない」という言葉にかき消され、結局これで手を打つことになりました。トホホ

私、決してヴィッツが悪いクルマだと行ってる訳じゃありません。ヴィッツは当時の奥田社長が「従来のトヨタ車のイメージとは異なるデザインにも挑戦せよ」と社内に発破をかけた際の意気込みと、トヨタ伝統の作り込みの調和を感じさせる傑作車です。しかしほとんどがロマンのMR-Sが、実用性のヴィッツですよ…

さて、車を買うことを決めたら後は色です。女房は緑(あのアイスクリームが溶けてからのクリームソーダみたいな色です)とか言ってましたが、ここばっかりは私もセールスマン氏も金色を推して、金色で決まりました。

「これでウチのクルマはきんさん(ヴィッツ)ぎんさん(Mark 2)」と女房はハシャイデいます。でも実のきんさんぎんさんのように、ウチのきんさんぎんさんも、ぎんさんの方が長生きになるんじゃないかと、何となく思っています。クルマがクラシックに昇華するには、ファンクラブを結成させたり、何十年たっても人を引きつけるだけの感情をかき立てる要素があるもんです。ヴィッツは確かに飽きの来ない特色のあるデザインのバランス良く設計製造されたクルマであり、トヨタ博物館以外のいくつかの自動車博物館にも展示されることにはなるでしょう。しかしやはり実用の方が勝るクルマなんですよね。

元へ
 

ぎんさん、さようなら

ぎんさんとは結局2006年9月にお別れしました。ぎんさんは2001年夏に岡田さんにエンジンのオーバーホールをしてもらってから、これと言った問題もなく動いていたのですが、そうなるとやはり夏の間はオ−バーヒートがこわくて乗れない、後で錆が出るのがこわくて雨の日は乗れない、大体多雨国イギリスの車のくせにワイパーの拭窓範囲が極端に狭い(イギリスではワイパーのコンバージョンキットを売っています)、燃費が悪い、等々と言うことが気になってきます。こういうことが気になるようではもはやクラシックカー乗りの資格は欠格です。

丁度そんなとき、永遠ボディーの松村社長から「Mark 2を売ってくれそうな人いないか探してるんだけど…」という電話をもらいました。車検を切るなどこちらも興味を失っていそうな安藤さんに聞いてみましたが「ちょっと売る気までは…」とのこと。「それならいっそ私が」と覚悟を決めました。8月27日に松村社長の紹介してくれた倉持さんと値段を決め、翌週に引き渡しを約して別れました。

9月2日、残暑厳しい朝です。油類の不足を補い、車にはたきをかけ、いざエンジン始動です。ところがどうもエンジンの回転数が安定しません。「こういうときやはりグズッたか…やはりこういう車は生き物だなぁ」という思いを胸に、先ず燃料系を見てみます。ぎんさんを買った当初、燃料タンクから燃料ポンプに至るパイプの間にPurolater社の燃料ストレーナーを装着しました。久しぶりにそこを見ると結構ガンメタ色の澱がたまっています。「そう言えばこれを装着してから中のエレメントに全然さわっていなかったなぁ」と反省しながらストレーナーを外し(ホーズバンドをゆるめると意外に簡単にとれました)、中のエレメントを外し、灯油で洗浄してから元に戻しました。今度はエンジンの回転数も順調に上がります。

家を出てから、渋滞に巻き込まれぬよう首都高速から、東名高速に入り、町田インターに向かいます。名うての渋滞交差点の藤沢バイパスと国道246の交差点も順調に通過しましたが、やはり永遠ボディーについた頃にはベーパーロックの症状が現れていました。でもともかく無事倉持さんに車を引き渡すことができました。その時の写真です。7x歳の倉持さんうれしそうでしょ(安く売りすぎたかな…)。

ぎんさん、10年近くの間いろいろ楽しい経験させてもらい、新しい出会いを作ってくれて本当に有り難う。倉持さんのもとでも頑張ってね。

元へ

今までやったこと

日本に私のMark 2が来てから大体こんな事をやっています。

Links

日本で旧車を持つならOld Timerを読まないと...

世界最大のジャガークラブJaguar Enthusiasts' Club

世界最大のバーチャルなJaguarエンスーの集いJag Lovers レストア前の私のMark 2の写真はここ

世界最大のバーチャルな旧英車(LBC)の集い「SOL(Lucasの申し子)」。車種別分科会あり。

(別にお金をもらっているわけではありませんが)古いJaguarのパーツを買うなら英国のSNG Barrattをお勧めします
(別にお金をもらっているわけではありませんが)古いBorg Warnerのオートマのパーツを買うならG Whitehouseをお勧めします

旧車の場合ブレーキには何かと不安があるモンです。ブレーキの防錆にはWhite Post Restorationsで真鍮スリービングをしてもらうことをお勧めします。より高度の完成度を目指す方。Mark 2の場合はキャリパーとブリッジパイプをHye-Dra-Cyl製のオールステンレス品に置き換えることができます(私と安藤さんはこれを採用した)。いずれの会社からも別にお金をもらっているわけではありません。

旧車のエンジンはNC旋盤なんてない頃に人が工作機械をまわして機械加工して造っていたためどうしても今の車よりスキマが多くできています。従い、今時の車に比べ粘度の高いエンジンオイルを使う必要があります。特に暑い夏に油圧低下の心配をしたくないなら(別にお金をもらっているわけではありませんが)オーストラリアのPenriteの油がお勧めです(400リッターくらいまとめ買いをしないと割が合わないのが問題--共同購入の相談には乗ります)
 
 
 

ご意見・ご感想はこちらまで

元へ