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    第1章 難航した管財人選び

    2.北炭社長の自殺未遂事件
     

    事故直後、本社社会部の同僚記者が夕張の現場に宿をとっての長期戦の取材態勢が取られた。坑内の火勢は依然強く、その日、救助に向かったヤマの仲間も二次災害に巻き込まれ、救助活動の続行は止むなく中止となった。坑口の詰め所では坑内に閉じこめられた人たちの家族が集まり、会社側の説明が遅いことや救助作業が思うように進まないことへの苛立ちから、罵声が飛び交った。
     
    会社はある重大な決定を下さなければならなかった。ヤマを残すためには火災現場に大量の水を入れて鎮火させ、その後の採炭開始に備えなければ、ヤマも死ぬということだった。数日後、当時の北炭社長で北炭夕張炭鉱の社長も兼任していた林千明氏はマイクを握り締め、涙を浮かべながら踏み台の上に立った。依然、行方不明になっている四十四人の家族を前に注水の了承を求めたのだ。
     
    注水を認めれば、遺体は二度と戻ってこない。注水後坑内火災を止めるため坑口は閉じられ、酸素の供給も止められる。もし、中で生き延びていたとしてもそれは死を意味する。しかし、生存の確認は困難だった。
     
    ヤマの男達はこの日が来ることを一番恐れていた。十月二十三日、遺族やヤマの仲間の怒号のなか、注水が始まった。その後、同年十二月七日、万策つきた林社長は手首を切って自殺を図った。一命をとりとめたものの人知れず社を去って行った。
     
    災害直後の十一月一日、札幌市内では夕張出身者を中心に資金カンパと署名集めのキャンペーンが早くも始まっていた。この運動に立ち上がったのは、「北炭夕張新鉱再建、夕張市を守る夕張出身者札幌地区の会」(二千人)と「炭鉱離職者福祉協議会」(二百人)の二団体だった。当時、札幌には、過去の炭鉱閉山で夕張を去り、札幌や全道各地に移り住んだ夕張出身者が計四万世帯おり、そのうち一万世帯が札幌に住んでいて、同鉱問題についての関心は高かった。
     
    私もこの日、取材にあたったが、札幌の目抜き通りにあるデパート前で道行く市民に声をかけて懸命の活動をしていた、あるボランティアに話しを聞いてみると「署名もカンパも極めていいですよ」という返事がすぐに返ってきた。一般市民の関心も予想以上に高かった。

    3.甘い期待
     

    暮れも押し詰まった同年十二月十五日午前、北炭の札幌事務所は、札幌地裁に会社更生法適用申請を提出、同地裁から直ちに財産保全命令を受け、事実上倒産した。
     
    「倒産したが、これで最悪の事態である閉山だけは当面避けることができた」と、北炭札幌事務所の大楽総務課長の頬がいくぶんか和らいだ。あとは、翌年三月までに、会社の再建計画を同地裁に提出、更生開始決定を受ける。その間に、保安を強化して、国から無傷で残った西部地区での操業再開のゴーサインが出れば何とかなる、と会社側は甘い期待をしていたものだ。
     
    その日の午後二時、北海道庁から歩いて一、二分足らずのところにあった札幌通産局の五階会議室では、午前中の同鉱倒産を受けて、直ちに地元夕張市の零細商工業者の連鎖倒産防止策を話し合うため、国、北海道などが中心となって同鉱倒産に関わる「倒産防止対策北海道地区推進協議会」を開催した。金融相談会を、夕張市でも開催する一方、中小企業信用保険法を適用して商工業者が銀行からの借り入れをしやすくする方針を決め、一応の対応策を取った。
     
    しかし、当面の閉山の危機はなくなったとはいえ、炭鉱労働者への未払い労務債百十六億円の弁済のメドは全くたっておらず、失業者の再就職やヤマの再建という大きな問題にヤマの男たちは体をはっていかなければならない。北海道に本格的な雪の季節が訪れようとしていた。

    4.再建は可能、管財人に大沢氏
     

    北炭夕張炭鉱株式会社として倒産したが、破産宣告が債権者または裁判所から出されない限り、採炭が再開される可能性を残していた。その可能性をさぐる炭鉱の経済性調査が札幌地裁の委託を受けた望月武義調査員の手で行われた。同氏は会社更生法適用申請からわずか二ヵ月余りという異例の早さで、八二年二月二十二日に条件付きながら再建可能という結論を出し、同地裁も同鉱の再興に向けてゴーサインを出すことになった。
     
    労使双方はもとより、一歩間違えれば大量の失業者を生み、炭鉱に依存している関連産業の下請け、孫請け業者、そして、地元自治体、さらには同じような立場に陥りかねない他の大手炭鉱会社の関係者までがそっと胸を撫で下ろしたのは言うまでもなかった。
     
    望月調査員の報告書によれば、会社の債務総額七百十九億四千五百万円については、今後十二年間の更生期間のうちに、国からの財政援助(第三次債務肩代わり交付金制度利用)七十二億円、手持ちの不動産売却収入五十億円が見込めると仮定して、債務全体の三五%の返済が可能とした。ただ、残り六五%については、国や銀行などが中心だが、債権者が弁済繰り延べまたは、債権放棄をして協力することという、債権者にとってはかなり呑みにくい条件を示していた。
     
    当時としては、同鉱の再建に対する期待が余りにも大きすぎたため、もし、再建不可能とでもなれば、北海道のみならず、中央の炭鉱労働者組織である炭労や九州の炭鉱を地盤にしている自民党の石炭議員からも猛烈な突き上げに会い、全国的な問題に発展しかねなかっただけに、ほぼ予想された結果として受けとめられた。
     
    しかし、後になって債権者の巻き返しとなるのである。最大の債権者である国、通産省は国の財政資金のおかげでなんとか採炭を続けられていた石炭業界に圧力をかけ、石炭業界による同鉱再建のシナリオ作りを同鉱の再開発には経済性がないという理由で断念させ、残った炭鉱労働者や地元自治体は雇用の確保や一時金の支給などの後始末的な行政でお茶を濁すといったいかにもお役人らしい発想で片付けられることになるのである。

    5.難事業を引き受ける管財人選出
     

    まだ雪が残る二月、次の難関と見られた再建計画を立案、実行に移すという難事業を引き受ける管財人選出の取材のため、私は関係者の間を駆けずり回っていた。なにしろ、お金がなくて倒産した会社が、まずしなければならなかったのは、災害で亡くなった遺族への弔慰金の原資十億円の確保だった。
     
    自己資金がないうえに、国や銀行といった手強い相手を説得し、いかに再建資金を出させるか、さらには、百十五億円という途方も無い多額の労務債を北炭本社はもとより、そこから莫大な資産を受け継いだ三井観光開発グループ、要は、萩原吉太郎総帥を攻めて、資金を引き出させるかという荒らワザをこなせる人物を管財人として引っ張りだせるかが同鉱再建の鍵を握るのだ。
     
    この難問に石炭業界はもとより、北海道庁、北海道経済界は苦悶させられることになった。管財人の人選は、実に二ヵ月あまりにわたって揺れに揺れた。結局、当時、三井鉱山の常任監査役で、有吉新吾日本石炭協会会長の懐ろ刀といわれた大沢誠一氏がかつぎだされたのだが、後で分かったことだが、三井グループに近い筋の話では大沢氏の抵抗はかなりのものだった。本人はもし再建に失敗すれば自分の将来も危うくなるわけで、退却した場合の処遇についてかなり強く有吉氏に迫ったという。実際、再建失敗後の大沢氏は東京に戻り、三井鉱山の顧問に就いている。
     
    八二年四月三十日、大沢氏は就任後初の記者会見を札幌の北海道経済記者クラブで行った。就任会見に出たあと、社に戻って記事を書いていた私のそばに豊住編集局次長がにやにやしながら寄ってきた。
     
    「増谷君、どうだ、大沢というのはどんな感じの男だね」と豊住さんが聞いたので、
     
    私は「そうですね。鼠のような顔つきで何となく狡猾そうな目をしていましたよ」と答えた。大沢氏は頬骨がはって、話すときに口をすぼめる癖があり、鼠のような感じがするので、そういったのだが、したたかな人物には違いがなかった。
     
    北海道にとって大沢氏は馴染みが薄く、よく知らない人が多かった。ただ、五九ー六一年の三井三池炭鉱の大争議のときに労務担当幹部として現地に乗り込み、労働者千二百人あまりの解雇者も出して終結した大争議を経験してきた男という伝説めいたうわさが飛び交い、夕張炭鉱の屈強なヤマの男たちもかなり犠牲者がでるのではないかと恐れおののいていた。
     
    大沢氏の就任は正式発表前から水面下で動きが活発化しておりほぼ内定していたが、管財人を補佐する管財人代理の人選をめぐって、大沢氏が正式発表に難色を示していた。そんな折、四月頃だったか、一度、ライバル紙の北海道新聞東京支社の担当記者が鎌倉にある大沢氏の自宅に取材に行って、翌日の朝刊一面に大沢氏のインタビュー記事をでかでかと載せ、出し抜かれたことがある。ライバル紙にまんまとしてやられたというか、いわゆる書き得の記事だった。
     
    結局、大沢氏の意向が通り、管財人代理には、同鉱の再建には協力がなくてはならぬ石炭業界と、再建資金の借り入れに必要となる担保資産を提供してもらわねばならぬ北炭=三井観光開発グループを代表する人物として、前者から、日本石炭協会常務理事の橋口滋郎氏、後者からは、北炭本社専務の対馬健太郎氏の二人が選ばれた。
     
    だが、こうした考え抜かれた再建の助っ人の登場とは裏腹に、倒産で追い詰められた北炭関係者の間に自分たちが開発したヤマが他の石炭会社に乗っ取られるのではないかという強い不信感も一方にあり、再建に向けて複雑な一面を見せていた。
     
    地元夕張に残り頑張る組合員の間には自分たちのヤマが今回の大事故で閉山の危機にまで追い詰められたが、資金さえあれば、今後十ー二十年も掘れるだけの十分な可採埋蔵量からみて、一日も早く、保安面でのゴーサインを出してもらえれば、出炭も再開されヤマは生き残ることができると信じていた。会社側もそう見ていたので、このまま、手をこまねいているうちに、他社においしいところをただ同然に持っていってしまわれることへの強い警戒感があったのは事実だった。
     
    現実に、大沢管財人が就任する以前から、つまり、札幌の弁護士で札幌地裁から更生開始決定が出されるまでのつなぎの経営者として選ばれた山根喬保全管理人や、国、石炭業界、三井銀行など大口債権者との間では、再建方法について、(一)北炭夕張炭鉱を清算会社にして、その生産部門だけを、新会社に移して再出発する新会社案(二)石炭他社に吸収合併する吸収合併案(三)石炭他社と合併と同時に新会社をつくる新設合併案の三案が検討されていた。
     
    我々担当記者にとってどの案に落ち着くのか、また、誰がどんな思惑で再建の舵取りをする管財人が出てくるのかが最大の焦点になっていた。
     
    今になって思えば、どの石炭会社もその後、同鉱の再開発に乗り出していないところを見れば、乗っ取りというのは穿った見方だったかも知れないが、何十年先になって、エネルギー事情が変われば、再開発されないという保証は何もない。
     
    坑道は密閉措置が取られているものの、わが国唯一の国産エネルギーである石炭は現に地下深く眠っているのである。現在は、莫大な費用をかけて高価な国内炭を掘るよりも、地表に露出した露頭炭が大半のオーストラリアや採炭コストが低く安価な中国や南アフリカ、ロシアなどの石炭を輸入した方が電力会社や鉄鋼会社などのユーザーにとって経済的なのは言うまでもない。しかし、こうした状態がいつまでも続くと誰も断定は出来ないだろう。

    6. 新規融資で三井銀行と地元が対立
     

    会社更生法適用申請後、三井銀行(現・さくら銀行)は、三井観光開発からの担保差し入れを受けて、災害で死亡した遺族への弔慰金十億円のほか、種々の融資も含めると合計十七億円も拠出した。また国も同鉱の自家発電設備の買い取りという名目で金融支援に乗り出して、十六億七千万円、北海道庁も五億五千万円の補助金を出して、当時、採炭が地上の露頭炭収入だけしかなかった同鉱の苦しい資金繰りを何とかつないでいた。資金繰りが失敗すれば即、破産に移行してしまうからだった。
     
    債権額は三井が二百億円、国の関係機関が四百億円もあったときに、これだけの追加融資しているのは、通常の会社倒産とは意味が違うことを物語っている。
     
    その一方で、
     
    「私は、本当にヤマを残すことが地元のためならば、地元の金融機関と一緒に資金面で協力してもらいたかった」と当時の秋岡三井銀行札幌支店長が本音をもらしていた。
     
    もっとも、地元の四大銀行、北海道拓殖銀行(たくぎん)、北海道銀行、札幌銀行(元北海道相互銀行)、北洋銀行(元北洋相互銀行)にして見れば、ある地元銀行関係者が言っていたように、  
    「はじめから、同鉱とは取引が薄いうえに、メーンバンクである、三井銀行がまず、取り組むべき問題と見ていた」のも事実だった。
     
    結局、新規融資をめぐっては、三井と地元との間でキャッチボールされた。どこも、焦げ付きが予想される同鉱にお金を貸したくないというのが本当のところだったからだ。地元行の間でも、北海道庁の金庫番である拓銀が矢面にたち、他の地場銀行はその出方を注意深くうかがって対応するという状況だった。

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