週報バックナンバー 2007年


週報(2007年12月30日)

   2007年を感謝して             朝位真士

 今年は、ヨシュア記1章1〜9節を通して「強く雄々しくあれと命じたではないか。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる」という題を頂き、1年間主が桜ヶ丘教会を導いてくださり、今日まで来ることができました。
 教会行事として、2月25日(日)に教会総会があり、2007年度宣教方針、2007年度一般会計・会堂会計予算案、役員選出等が議題となりました。4月8日(日)イースター礼拝。4月22日(日)教会総会、教務報告、2006年度一般会計・会堂会計決算報告。5月27日(日)ペンテコステ礼拝。6月3日(日)チャペル・コンサート、岸義紘先生、57名。11月4日(日)召天者記念礼拝。今年は横田たみ子姉が8月6日に召天されました。11月11日(日)教会親睦会。大変好評でした。教会全体の交わりを大事にしていきたいです。12月16日(日)洗礼式。蕨南秦之兄が1年間の求道生活の後に受洗を決意されました。12月23日(日)チャペル・コンサート、ベアンテ・ボーマン、ルリ子先生。雨天でしたが、52名の出席でした。
 以上2007年は、あっという間に過ぎていきました。私個人の感想としては、教会全体の高齢化が目立ち、病気の方々が増加してきましたが、7〜8名の求道者の方が常時ではありませんが礼拝、夕拝、祈祷会に出席されていることは、将来に明るい希望をもたらすものとして、前向きにとらえたいと思います。教会員の方々、なおこの迎えます年のために、お祈りとご支援を心よりお願い致します。

週報(2007年12月16日)

   クリスマス集会を前にして             朝位真士

 恵みの業をもたらす種を蒔け
 愛の実りを刈り入れよ。
 新しい土地を耕せ。
 主を求める時が来た。
 ついに主が訪れて
 恵みの雨を注いでくださるように。(ホセア10・12)
 クリスマス集会が、12月16日、午後3時からの教会学校クリスマス会から始まる。
 12月23日、午前10時半からクリスマス・チャペルコンサート。チェロ演奏・メッセージ、ベアンテ・ボーマン先生、ルリ子先生。午後にクリスマス祝会。会費は700円(食事・茶菓代を含む)。司会は栗澤洋一郎兄。
 12月24日、午後7時からクリスマス・イブ集会。説教、今井神学生。聖歌隊の賛美。ヴァイオリン演奏、
森山結・文姉妹。本朗読、安東えりかさん。
 私達はこのクリスマス集会の為に、まず神様に祈ることは勿論であるが、一人でも多くの方々が教会に導かれるようチラシを配布し、お電話をし、お手紙、ご案内をさせて頂きたいと思って、今すでに実行されている。神はこの地域を祝福しておられる。最近この杉並区下高井戸周辺には新しい住宅が増加し、マンションが建てられている。絶好の宣教のチャンスである。
 私は一人の友人によって教会に導かれ、クリスチャンとなった。1961年12月24日である。もしその一人の友が私を教会に導いてくださらなかったならば、クリスチャンとしての自分はいなかったと思う。勿論、教会員の方々の救霊に対する熱い思いと祈りも否めない。今年も主イエス・キリストのご降誕を祝うクリスマス集会に一人でも多くの方々が集えるよう、私達は主の手足になって働こう。主は共に働かれる。

週報(2007年7月29日)

ホ群夏期聖会に出席して             朝位真士
 7月23日〜25日迄、軽井沢の南ヶ丘倶楽部で開催。今回はヨハネ黙示録3章18節「見えるようになるために」という主題のもと、アジアの7つの教会について、2章〜3章を通して学んだ。講師湯本春実師(東調布教会)「エフェソの教会」、横山義孝師(東京新生教会)「スルミナの教会」、鵜沼義民師(吉川教会)「ベルガモンの教会」、大友英樹師(塩谷一粒教会)「ティアティラの教会」、深谷春男師(赤羽教会)「サルディスの教会」、貴村かたる師(天門教会)、中込己一師(勝浦教会)、澤田武師(宇都宮上町教会)「フィラデルフィアの教会」、東海林昭雄師(小松川教会)「ラオディキアの教会」について、それぞれ特徴あるメッセージを語られた。私は今回、先生方の特徴的な内容を記す事を止めて、その教会に語られている御言葉のみを記す事にしたいと思う。 
(一)エフェソの教会 2章1〜7節「わたしは、あなたの行いと労苦と忍耐を知っており。」(2)「あなたは初めのころの愛から離れてしまった。」(4) 
(ニ)スミルナの教会 2章8〜11節「死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう。」(10後半) 
(三)ベルガモンの教会 2章12〜17節「勝利を得る者には隠されていたマンナを与えよう。また白い小石を与えよう。」(17) 
(四)ティアティラの教会 2章18節〜29節「あなたの行い、愛、信仰、奉仕、忍耐を知っている。」(19) 
(五)サルディスの教会 3章1〜6節「目を覚まして」(2)「白い衣」(4) 
(六)フィラデルフィアの教会 3章7〜13節「あなたは力が弱かったが・・・・・・言葉を守り」(8) 
(七)ラオディキアの教会 3章14〜21節「見えるようになるために」(18)
 以上の御言葉が深く心にとどまった聖会であった。

週報(2007年7月22日)

   最近の出来事を通して             朝位真士

 台風4号の被害を先週新聞、テレビ等で知り、また7月16日午前10時頃、新潟中越沖地震の被害状況をテレビや新聞等で知らされ、私は聖書のマタイ24・3〜14、終末の徴の記事を思い出しました。少し長いですが引用いたします。
 イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちがやって来て、ひそかに言った。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたがたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか。」イエスはお答えになった。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしはメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される。また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる。そのとき、多くの人がつまづき、互いに裏切り、憎しみ合うようになる。偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。」
 被災地の一日も早い復興、回復を祈ると同時に、私はこの出来事を通して、神様が私共に罪の悔い改めを求めておられるのではないかと思います。「イスラエルよ。お前は自分の神と出会う備えをせよ。」(アモス4・12)神の警告に心を向けよう。


週報(2007年7月15日)

   礼拝に何故説教があるのか          朝位真士

 よく聞く話ですが、「うちの教会の牧師は、若いくせに偉そうにしています。説教は何を言っているのかわかりません。なんとかならないのでしょうか」とか、「私の教会の先生は、お年のせいか、毎週同じ話をなさいます。『先生、今日のお話は、先週のと同じでした』と申しあげると、『あなたたちがわかるまで私は何度でも同じ話をする』と言われました。説教なんかないほうがいいと思うのですが」と言われたりすることがあります。
 私は伝道者として32年目になりますが、一番苦労しているのは、実は説教です。春名泰範先生は、現在、神戸女学院中学部・高等学校部部長であり、教団の教師として良き働きをされている先生ですが、「信徒の友」の中でこんな事を書いていました。「楽しい雰囲気で聞いていただけるようにと少しジョークなどを入れたりすると『不真面目だ』と批判の声があがりますし、誰にでもわかるようにと平易な言葉で話すと『知的でない』と言われます。また原典の言葉を紹介すると『偉そうにしている』、熱を入れて話すと『一人よがりの押しつけだ。』牧師も悩みは多いみたいですよ。説教をよくするコツを内緒でお教えします。ぜびその説教のヘタな牧師のために祈ってあげてください。」
 私も常々考えていることは、説教は講演ではないのですから、面白いとか楽しいとかいうことではなく、聖書の言葉が現代の私たちに現実性をともなって解き明かされているかどうかということが大切にされなければならないということです。私も最近説教準備に苦労しています。教会の皆様、是非私の説教のために祈ってください。また不明な点は遠慮なく個人的に質問して、信仰生活の成長に役立ててください。


週報(2007年7月8日)

   「わたしの目にあなたは価高く」(イザヤ43・4)          朝位真士

 わたしは、右のイザヤ43・4の聖句に出会った時、大変ショックを受けました。私たちは、神様の前でどのような存在でしょうか。
 第一に、私たちは小さい存在です。坂田明さんは大学の水産学部を卒業して、ミジンコの研究家でもあります。ミジンコは単細胞生物で原生動物です。探すのに苦労するほど小さな生き物です。私たちも、そんなミジンコの一匹のような存在であるかもしれません。しかし宇宙大の神様の愛が伝わってきます。
 第二に、私たちは弱い存在です。頚椎を損傷した星野富弘さんは、口に鉛筆をくわえて、多くの詩画を描いています。やぶかんぞうの絵に添えて、次のような詩が書かれています。「いつか草が、風に揺れるのを見て、弱さを思った。今日、草が風に揺れるのを見て、強さを知った。」自分が元気で、がんばれば何でもやっていけると思っていた頃は、風に揺れる草を弱い存在だと思っていた。しかし何一つできなくなった今、キリストに抱きかかえられ、キリストとともに生きる強さを知ったという詩であると思います。
 第三に、醜く汚れた存在です。偽善性、欺瞞性をいつも持ち合わせています。
 第四に、役に立たないような存在です。しかし、この現代の世界でも、ヘドロから耐火レンガが作られ、汚泥からバイオマス発電がなされています。神様にとって役に立たない者はひとりも存在しないのです。主イエス・キリストの十字架の死は、私たちの罪を赦し、きよめ、私たちのことを価値ある存在としてくださいます。私たちのことを大事に思ってくださっているのです。

週報(2007年7月1日)

   伝道と使徒の働きU                                  朝位真士

 前号に引き続き日本基督教団の数字であるが、1953年度は、現住陪餐会員88130人、受洗者8800人、10人で1人の受洗者を産んでいた。ところが昨年の統計によると、95636人の現住陪餐会員、受洗者2174名、かろうじて44人で1人の受洗者を産み出している。
 以前国際基督教大学のエミール・ブルンナーという客員教授が、プロテスタントキリスト教宣教90周年を期に来日し、色々検討して帰る時に、「日本の教会の問題は、羊飼いが羊を産んでいることだ。羊は羊が産んでいくものだ」と言われた。つまり、「牧師が一生懸命信徒を作っている。羊飼いが羊を産んでいる。しかし、羊が羊を産むのだ。もっと信徒伝道のできるような牧会を、牧師がしなければいけない。牧師が羊を産むと、牧師がいなくなると羊もいなくなってしまう。そのことの繰り返しではダメなんじゃないか」と。私は信徒が教会を作っていくということは、その通りではないかと思った。これは牧師の責任である。羊を牧草地に連れて行き、羊が羊を産み、羊飼いもその羊を産み出すという循環を取り戻していくべきだと思う。
 伝道とは、人を教会に連れてくる、この点に確信、熱意、祈りを集中していなくてはならない。信徒がお互いに愛し合い、助け合い、祈り合う教会は、イエス・キリスト様の臨在している所で、私たちの人生の全ての問題を解決し、力を与え、喜びを与え、慰めを与え、愛を与え、人生をイキイキとさせ、有意義な生き方が見出される素敵なところである。私たちが、感じ、体験しないと、人々を教会に連れてくることは困難である。
 皆様方は如何でしょうか。主によって恵まれましょう!!

週報(2007年6月24日)

   伝道と使徒の働き
                                   朝位真士
 先日、教団議長山北宣久先生がある教会の創立50周年礼拝にて語られた小冊子を目にして、大変参考になったことがあったので、ここに私が気づいたこと、教えられたことを記してみたいと思います。
 神の御旨に従って歩む信徒は3つの任務をもつ。
 (1)マルチュリア、証し(言証、行証、身証)(マルコ14・55〜56、黙示録11・7)
 (2)コイノニア、交わり(Tヨハネ1・3、6、7、ヨハネ10・16)
 (3)ディアコニア、奉仕(ルカ10・11、22・24〜27、マルコ10・44〜45)
 また先生は、信徒のタイプセブンということを語っておられる。(1)ご利益型(2)思想適応型(3)宗教教育型(4)独断型(5)社交型(6)利用型(7)奉られ型。
 現在、日本の教会がどういう状況になっているかというと、プロテスタント教会6700、礼拝出席1教会36名、日本基督教団は35名。ところ中間値は24名で、11名から15名というのが圧倒的に多い。受洗者数は、日本のプロテスタント教会全体で1年間に8844名であり、受洗者ゼロという教会が約65%。年齢構成、教職者は60歳以上が60%、70歳以上が40%、信徒は60歳以上が50%、30歳未満が7%。しかし一方、キリスト教を好ましいと思っている人は23%いるといわれています。
 この話は、次号に続けて記してみたいと思います。

週報(2007年6月17日)

   ある黙想の時に感じた事
                                   朝位真士
 「わたしは絶えず主に相対しています(わたしは常に主をわたしの前に置く)。わたしは揺らぐことがありません。」(詩16・1)
 私は現在3種類の霊想書、黙想書を活用しています。そのうちの1冊、デニス・F・キンロー博士の「エマオの道で」の6月13日付が大変印象強く残っています。テーマは「最優先すべきこと」(詩16編)。「クリスチャンは神はご自分に属する者を導いてくださるということを前提にして生きています。・・・最優先すべきことは何でしょうか。私たちのなすべき最も重要なことはキリストを知ることです。キリストを個人的に親密に知る知識でない限り、どんなに良い物であっても欲求不満がつのり、不毛で満たされることがありません。」とありました。私はハッとしました。私自身毎日のデボーションの時間(1時間余)に、主との交わりをさせて頂き、聖書日課を読み、黙想し、祈祷をさせて頂いていますが、その場をさって、日常生活の場に戻った時、果たしていつも最優先すべきキリストを知って物事に当たっているかという反省です。まず、自分の考えや社会常識を優先して、「キリストを知ること」を最優先していないという事です。
 これは、一般的な事柄としても言えることではないでしょうか。礼拝やキリスト教の集会に出た時は恵まれていますが、家に社会に戻った時はキリストが疎んじられており、世の中の常識や経験が最優先されている現状ではないでしょうか。デボーションの時間を通して、もう一度私自身に示された事です。

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