誘導場の生理学的根拠


 誘導場は心理学的実験から推定される概念である.この誘導場の存在を裏づける直接的な生理学的根拠 は見つかっていない.しかし,誘導場の存在を示唆する生理学的現象が幾つか報告されている.

● 本川の網膜誘導の場

 横瀬の視覚の誘導場の生理学的根拠として最も引き合いに出されるのが,本川の発見した網膜誘導の場で ある1), 2). 本川は被験者の眼に光を照射した後,眼の付近に接着した電極により 0.1 msec で電気刺激を行うと 電極間の電位が高まることを発見した3). 本川はフィルムの感度に対応して,網膜の光に対する反応を感電性と呼び, 電位の高まりで表現した3), 4).すなわち15 分以上暗順応させた被験者の眼の付近にか かる電圧を E0 ,次に2秒間前照射した際の電圧を E とすると,感電性 η は次式で与えられるものとした。
 本川は感電性 η は照射する光の波長によって異なることを見い出した.この感電性の性質を用いれば,例 えば,被験者に図形のある部分を最初黄色で前照射し,次に同じ場所を白色で照らし電気刺激を加えて感 電性を測定すれば,黄色の補色である青色を照射した場合に相当する感電性が得られると考えられる.こ の原理を用いて,例えば円を見たときの感電性を調べることができる.具体的には,黒い背景に円をくり抜 いた刺激を黄色で照射,次に白色を照射する3).本川は,色々なパターンを提示した際 の感電性を求め,等しい感電性の強さから,パターンの周りに電磁場のような場(網膜誘導の場)があること を示した3), 4), 5)

 更に,本川は,Müller-Lyer などよく知られた刺激図形を用いて,鯉の網膜上の電位を測定し,電位がゼロ の等電位線が場の分布になっていることを示した6), 7), 8).以上の実験から,本川は誘導の場は網膜で引き起 こされる現象であると主張した.

 本川は,被験者に光を照射後の感電性から測定する方法を「電気閃光法」と呼び,視覚の心理・物理的研究と生理的研究の中間として捉えて,チラツキ視,色覚,対比などの基礎を説明し,さらにパターン視,運動視などを論じた。他方,純生理学的な研究との関係を述べ,網膜から大脳への情報伝達のメカニズムに論及している8)



● 本川の研究に対する議論

 本川の感電性の実験は,一般には視覚誘発電位として知られている.現在もいろいろなパターン9) や線 画の顔10) を見た場合などの視覚の働きを調べるため,視覚誘発電位を使った実験が行われている. しかし,どのようなパターンを見せると誘発される電位が大きいかなどがわかる程度であり,本川の測定結果に疑問 をもつ生理学者も多い11).また,本川の実験は測定に時間がかかるため,実験中に被験者の注視点をどの ように維持させたかも疑問がある。
 本川は,感電性の実験と同様,鯉網膜で場が測定されたことから,網膜で場が生じていると考えた.しか し,視覚誘発電位は網膜周辺で生じる総合的な現象であって,網膜自体の場ではないと考えられる.した がって,場は網膜で生じていると断言するのは疑問が残る11)
 本川の網膜誘導の場と視覚の誘導場は同じものと考える立場(注1)もあるが,果たしてそれが正しいか否か については議論がある.例えば,横瀬は白色の小光点,本川は多種類の色フィルタ−による散乱光という全 く異なる光源を測定に用いていることから,野澤は両者の場が別の効果によるものであるという可能性を 指摘している11)
 しかしながら,本川は波長による感電性の違いを利用した独自の方法で,慎重に網膜誘導を測定してい る(注2).色々と疑問や問題はあるが,本川によって,Köhler以来,心理学的な概念に過ぎなかった「場」 の存在が,生理学的に示唆されたことは大変意義があると考えられる11)

 注1:文献12) では,本川の網膜誘導の場は,視覚の誘導場の生理学的測定方法の1つとされている.

 注2:感電性の実験を行う日は,本川は朝早くから実験する暗室に入り,実験前に充分眼を暗順応させ,実験中は食事,トイレも全て暗室で済ませ,眼の状態を常に一定に保つよう細心の注意を払って実験していたという(聖心女子大学名誉教授 野澤先生談)。



● 内山らの実験

 内山らは本川の鯉網膜上の電位分布が,視覚の誘導場に似ていることに注目し,本川の鯉の実験の追試を 行っている13), 14), 15).内山らは,本川のように図形を単純に網膜前に提示するのではなく, 横瀬の心理実験と 同様な小光点を提示し,網膜の表面電位の変化を調べた.その結果,横瀬が心理実験で得た視覚の誘導場 と非常に類似した分布が網膜の表面電位から得られた14).このことから,本川の測定した場は視覚の誘導 場とは別の現象である可能性が高いこと,また,視覚の誘導場に似た現象が網膜周辺で生じている可能性 のあることがわかった.

 更に内山らは,同様な実験で網膜内部の電位を調べたところ,場の分布の強さは, 表面電位の場合に比べ,図形の中心からの距離の効果が,網膜の深いところほど強く現われることを確か めている14).これは,網膜周辺および網膜から更に高次の処理をする器官で,視覚の誘導場を生ずるような現 象が起きている可能性を示唆するものと考えられる.



● 杉江らの実験

 杉江らは,猫の眼にパターン(□,△,立方体)を提示した場合の外側膝状体(lateral geniculate nucleus) におけるポテンシャルを電気生理的に詳しく求めた16).その結果,提示したパターンの輪郭周辺やエッジ部分のポテンシャルが強くなっている.これは,本川の鯉網膜における網膜誘導の場のような現象が,網膜 の情報を大脳に中継すると考えられている外側膝状体においても生じていることを示唆している.

 以上から,心理学的な視覚の誘導場に関連する現象が,生理学的には網膜周辺で生じていることが示唆される. 以上の実験結果は誘導場の存在を生理学的に直接示すものではない. しかし,誘導場のような現象,機構が脳内に存在する可能性を示唆している.
 今後,更に研究が進んで誘導場の生理学的実体が解明されれば, 誘導場の分布やその利用について大きな進展が期待される.


参考文献

1) 野澤晨. 空間と時間, 第5 章. 彰国社 (1975)

2) 大山正, 今井省吾, 和気典二編 「感覚・知覚心理学ハンドブック」 誠信書房 (1969)
 *最新版(1994)に誘導場の記載はありません

3) 本川弘一. 感覚の生理学的基礎. 科学, Vol. 18, pp. 526-537, 1948.

4) 本川弘一. 生理学と心理学との境. 脳と神経, Vol. 10, No. 1, pp. 5-23, 1958

5) Koiti Motokawa. Field of retinal induction and optical illusion. J. Neurophysiol., Vol. 12, No. 475, pp. 413-426, 1949.

6) 本川弘一. 視覚の中枢機序 − pattern 認識の問題を中心として−. 生体の科学(東京・医学書院), Vol. 18, No. 3, pp. 139-150, 1967.

7) Koiti Motokawa and Tetsuro Ogawa. The electrical field in the retina and pattern vision. Tohoku J. Exper. Med., Vol. 79, pp. 209-221, 1962.

8)本川弘一,視覚の心理・生理,テレビジョン学会誌,Vol.16, No.7, pp.425-431 1962.7

9) 伊藤元雄. 幾何学的パターンに対するヒトの視覚誘発電位. 愛知学院大学文学部紀要, Vol. 23, pp.1-15, 1993.

10) 鈴木竜太, 時田学, 山田寛, 厳島行雄. 顔面表情刺激と視覚誘発電位. 電子情報通信学会技報, Vol. HCS99-10, pp. 25-30, 1999.

11) 野澤晨. 図形残効の研究における場の理論. 心理学評論, Vol. 9, pp. 68-97, 1965

12)大山正, 今井省吾, 和気典二編 「感覚・知覚心理学ハンドブック」 誠信書房 (1969)
 *最新版(1994)に誘導場の記載はありません

13) 横瀬善正著「形の心理学」 名古屋大学出版(1986)

14) 内山道明(代表). 統合の場としての脳 知覚系−行動系の統一的理解への基礎的研究. 昭和58 年 度科学研究費補助金一般研究(A)  研究報告書, 研究番号56410001, pp. 13-30, 1984.

15) 横瀬善正, 内山道明, 後藤倬男, 視覚場に関する心理生理学的研究--鯉の遊離網膜における表面電位について-1-, 名古屋大学文学部研究論集 ISSN:04694716, 通号 57, pp.25-37 1972.03

16) Shinji Kaji, Shigeru Yamane, Masaaki Yoshimura, and Noboru Sugie. Contour enhancement of two-dimensional figures observed in the lateral geniculate cells of cats. Vision Research, Vol. 14, pp. 113-117, 1974.


本ページの原典
長石道博: "視覚の誘導場によるパターン認知の研究", 豊橋技術科学大学 博士論文 乙第142号 (2000)  [学位論文]


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