弓道って?

2 弓道の歴史(大概)
3 弓道の段位 
参考資料

           弓道って?          
 弓と言えばだれでも一度は何らかの形で、手にしたことがあるのではないでしょうか。五月
人形、おひな様の段飾りの中にも弓矢を手にした人形があります。破魔矢、破魔弓。こんな
のをおもちゃとして遊んだ経験のある方も多いのではないですか。以外と身近にありながら、
なんとなく縁遠いもの、それが弓道のような気がします。


 弓道は、基本的な練習さえ終われば、一人でも出来るということが大きな特徴です。相手が
いらないと言うことです。自分と的、これが唯一の相手です。そして弓道を学ぶのに条件はあ
りません。年齢、性別、体力を問わずに練習が始められます。これも大きな特色です。リンク
ページにある「
インターネット高橋庵」をご覧になってみてください。実際に50才から、弓を始
めた方です。



 自分の体力にあった道具を選び、的に向かう。男も女も、大人も子供も関係ありません。的
までは28m。的の大きさは一尺二寸(36cm)。(近的の場合、遠的60mと言うのもありま
す。)


 みんな同じ距離に的があり、同じ大きさの的をねらう。初めて的に向かう人も、10年やろう
が50年やってようが、条件はみんな同じです。


 弓道の練習にあたっては、射法射技(弓の引き方、技術)と体配(弓道をする上での、体の
構えや、礼儀等動作のお約束)の二つがあります。この両者を車の両輪として行われるのが
弓道です。お茶にしてもお花にしても、最初は堅苦しい約束事がありますが、習うより慣れろ
で、やってしまえば自然と身に付いてくるはずのものです。


 弓道は、礼に始まり、礼に終わる。射は日々の練習、自己研鑽の結果であり、その失敗は
誰のものでもない。弓を射ると云うことは、的に的中させることを目標とするのではなくて、一
箭(古いかな)に誠を尽くして発せられた矢が、「正しきを己に求む」自己の修練の結果として
的中する。これが弓道の道たるゆえんかも知れません。


 弓道の歴史(大概)
 弓道(弓術)は奈良時代には「六芸」と呼ばれる、賢者、王者が身につけるべき教養のうち
(儒教などの教えを元にする)に含まれており、律令制度の確立と共に、弓射は重要な位置
を占めることになります。武芸というだけではなく、自己を研鑽し、礼を体現するものとして認
識されていました。

 平安時代には、大射が行われ「射礼(じゃらい)」として宮廷で行われ、宮廷社会において
は、儀式としての射礼が開かれます。既に「射における礼」が定まっていたのです。

 学問の神様、受験の神様として知られる「菅原道真公」は幼少より弓の名手としても知られ
ています。この芸・思想を身につけたからこそ、その時代の最大の教養人として人々から尊
敬を得ていたのだと思います。すでにこのころから弓は礼の道としての位置付けがなされて
いたと言っても良いでしょう。


 ここで弓射の理論的な位置づけを行っているものが、孔子による「礼記」です。論語とともに
孔子の代表的な著作です。論語は支配者としてのあり方、国家のあり方を論じたものであり、
礼記は、礼の種類を49編に取りまとめたもので、国家として執り行う諸儀礼から、神仏に対
する礼、個人で身につける礼儀作法など多種多様に渡った内容です。この中に弓が礼の、
重要な要素を含むとして、取りまとめられているのです。この様に日本においては、戦闘の弓
矢としての弓術の流れと、宮廷で行われていた中国の儀礼を伴った射礼とが存在していくの
です。

 儒教発祥の地の中国、また伝播の地であり、現在もその影響が色濃く社会の中に生きてい
るはずの、韓国ともに、既に射礼、あるいは弓射自体が、ほとんど消えかかっているとも言わ
れます。日本において、この様に現代弓道の精神に伝承されている事は、驚くべき事である
と思います。


 弓術の術としての技術は、室町時代の中頃から江戸時代にかけて、戦場での生死の境を
懸けた一つの技として、その最盛期を迎えます。また宮廷文化の衰退と共に射礼が行われ
なくなり、また武家のものとして、今度は受け継がれてゆきます。

 その生死の狭間で日本人の「ものの考え方」や「行動の仕方」と言ったものが少しづつ確立
されてゆきます。いわゆる、武士階級を指し示す言葉として「弓馬の道」あるいは「弓馬の家」
などと言う形で表されることが見られるようになり、それぞれの一家一族における、経験から
得た技術の伝承、そして自己の技術の優位性、正当性を自己主張するようになります。すな
わち流派の発生・確立がなされます。

 特に江戸時代にはいると、300年の独自な平和社会の中で、実用の術から、武士階級の
必須の教養、すなわち、精神修行の面が強く打ち出されるようになるとともに、現在の弓道の
基本となる型も確立してゆきます。精神的な面では徳川幕府による儒教精神の振興策と併
せるかのように、再び「礼記」が注目され、特に「射義編」をその精神的な支柱とする研究・解
釈が行われて行きます。幕府の文化系大学とも言うべき、昌平坂学問所において、幕府の基
本精神として叩き込まれる以上、当然と言えば当然なわけですが・・。

(これは現代の日本弓道連盟に置いても弓道精神の基本として受け継がれています。)

 すなわち、礼儀を重んじ、一本の矢を的に通わせる精神修養的要素を持った武(道)となっ
てゆきます。


 幕末、弓術は江戸幕府における、総合大学とも言うべき講武所において、武術の必須科目
から外され、幕府崩壊後、全ての武術は共に衰退の道をたどります。

 明治維新後、剣術ですら、撃剣という見せ物興行に身をやつし、弓術は賭弓師という形で、
不評を買うようになります。剣術・柔術は陸・海軍・警察などの整備がなされると一足早く復興
します。弓術も明治の中頃には、人々の生活が落ち着く中で、古来からの流派を受け継ぐ
人々を中心に復興します。前アメリカ大統領のグラント将軍が来日した折りには、小笠原流
による犬追物、流鏑馬など明治天皇の前で行われ、弓道(術)の復興に弾みをつけます。

(伝え聞く話によると、零落した流鏑馬の名手として知られた旗本が、この演武のために呼び
出しを受け、よい死に目にあえた、と感涙にむせび泣いたという話もあります。)


 このあと武道精神の復興、高揚と言うことで、全武道の振興団体として武徳会が設立され、
各学校においても正課として採用されるなど、復興がなされました。そして全ての武術は武道
として一般化してゆきます。この武徳会も戦前の軍国主義体制の強化とともに変質をし、国
民を戦争に駆り立てる組織となって行きます。また統制の名の下に伝統的な弓の技を、むり
な統一を行い、不評を買います。


昭和20年8月15日以降、全ての武道は占領軍により禁止されます。公然と行うことが出来
なくなったことにより、再び衰退することになります。愛好家たちにより、占領軍の目を盗み、
わずかな理解を得てほそぼそと行われ、また解禁への働きかけがなされます。

そして昭和20年代半ばに、幾多の経緯を経て、全日本弓道連盟が設立され、再出発がはじ
まります。まず、各地の団体、職域、学校のクラブから再建され、昭和40年代には高校の正
課としても取り入れられるようになり、武道としての弓道のみならず、社会体育、健康増進の
ためのスポーツとしての弓道という新しい面からの認識も得て、現在に至っています。

参考資料
礼記射義
 礼記は、全部で49編。そのうちの46編目に射義編として記載されています。多くの道場に
掲げられている「礼記射義」は、この膨大な礼について書かれた「礼記」の中の「射義編」の
冒頭の部分と最後の部分を簡潔に要約したものです。射義編全編を載せようと思ったのです
が、漢字が対応していません。そのうちチャレンジします。
酒義も載せようかな・・・。

射は 進退周還必ず礼に中り 内志正しく外体直(なお)くして 然(しか)る後に弓矢を
持ること審固(しんこ)なり 弓矢を持ること審固にして 然る後に以って中るというべし
 これ以って徳行(とくぎょう)を観(み)るべし。


射は仁の道なり 射は正しきを己に求む 己正しくして而して後発す 発して中らざる時
は 則ち己に勝つ者を怨(うら)みず 反ってこれを己に求むるのみ


礼記全編
「曲礼上・曲礼下・壇弓上・壇弓下・王制・月令・曾子問・文王世子・礼運・礼器・郊特性・内
則・玉藻・明堂位・喪服小記・大伝・少儀・学記・楽記・雑記上・雑記下・喪大記・祭法・祭義・
祭統・経解・哀公問・仲尼燕居・孔子間居・坊記・中庸・表記・緇衣・奔喪・問喪・服間・間伝・
三年問・深衣・投壷・儒行・大学・冠義・昏義・郷飲酒義・射義・燕義・聘義・喪服四制」以上。

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