京街道を往く八幡・橋本・楠葉
開戦以来敗退を重ね、淀から退いた旧幕府軍は、京と大坂の関門で軍事的要衝である橋本に布陣し、新政府軍の追撃に備えました。新選組は橋本宿と周辺の丘陵部に布陣しました。橋本至近に旧幕府楠葉砲台、橋本陣屋など幕府施設もあり、迎えうつには大変良い条件を備えていました。
山と堤防(川)に挟まれた回廊
堤防際をはしる街道
楠葉砲台
戦場景観
楠葉砲台から見る橋本、山崎方面
楠葉砲台
所在(現在) 枚方市楠葉中之芝町 設置年 元治元年(1864年)に設置 カノン砲4門常備
設置目的 外国船の淀川からの京都侵入を防ぐため 慶応4年現在守備担当 若狭小浜藩
※対岸高浜にも設置
淀川下流域からみる戦場遠景
1 戦局の推移
●「敬ちゃん。幕府軍は“鳥羽伏見”から“淀”と相次ぐ負け戦だけど、どこかおかしいね」
◎ 「みっちゃんの指摘は本質をついているのかもしれない。旧幕府軍にとって、思いがけない展開が続いているわけで、おかしいおかしいと思っているうちに・・・歴史が大きく動いてしまったというところかもしれない。
この数日間の戦いは、変革のあり方を決定する極めて重要で限りなく政治的な性格を帯びた戦いなんだけど、 旧幕府軍の人たちがどこまでこれを理解していたか。本質的なところでの状況認識が戦いの帰趨を左右したのではないだろうか。
政治的な敗北を軍事的な敗北が確定し、政治的な敗北が軍事的なあらたな敗北を引き出している。そもそも旧幕府軍の京都進撃は薩長による政治的挑発(徳川家に辞官納地を迫り、江戸で組織的な乱暴狼藉)にのせられたものだった。つまり、京都進撃は薩長側にとって思うツボという感じだったんだろうね」
● 「やりきれないわね・・・。新選組は最前線で戦っているけど・・・橋本・楠葉でも支えきれないのよね。楠葉にはカノン砲4門常備の砲台があって、しかも守りやすい地形よね」
◎「そうなんだ。幕府の砲台が楠葉と淀川対岸の山崎にあり火砲の援護を期待でき、しかも守りやすい地形だった。ところが、正午頃、津藩が寝返り対岸高浜砲台から砲撃を受けることになる。これが戦場の帰趨を決することになる。おまけにこの日、新政府軍の先鋒として攻撃してきたのが数日前まで味方だった淀藩というわけで・・・」
街道の伏見への道標が今はむなしい完膚なき敗退でした。
道標
橋本
2 戦線崩壊と潰走
橋本・楠葉の敗戦、旧幕府軍の戦線は崩壊し、大坂に向けた潰走が始まります。1月6日午後のことです。橋本、楠葉の炎上する煙を背景に街道は退却する幕兵で混乱したことでしょう。鳥羽伏見、淀、橋本・楠葉と連戦したあげくの敗走ですから、力つきて倒れる兵士も少なくなかったことでしょう。
船橋川にかかる橋の南詰(現在はない)上嶋に戊辰戦争戦没者の慰霊碑がたっています。
この日京街道は敗走の道でした。
多くの幕兵はひたすら将軍在城の大坂城を目指したことでしょう。
3 新政府軍の進撃停止と旧幕軍の後方展開作戦
旧幕軍の潰走という局面で新政府軍は楠葉で進撃を一時停止しました。河内平野に突入、大坂城に向けた進攻作戦のためには戦力の整備再編が必要でした。また、洞ヶ峠に布陣する高槻藩兵のように旧幕軍が配置した諸藩の動向を見極める必要がありました。側背を突かれる可能性があるからです。
鳥羽伏見戦に際して旧幕軍は、進攻部隊のみならず、洞ヶ峠に配置された高槻藩兵、守口などに分遣された歩兵など、旧幕軍は要所に部隊を展開させていました。
戦場につかのまの小康状態が突然訪れました。
淀川に沈む夕陽。写真は枚方宿鍵屋浦(2004年4月8日)
この小康状態を利用して、撤退援護などが急いで進められた可能性があります。中でも傷兵の治療は焦眉の課題であったと考えても良いでしょう。
4 戊辰戦争と野戦病院
近代軍医制度は、明治になってから兵制の確立にあわせて整備されますが、戊辰の戦場でも散見(土佐藩などは軍医が従軍)します。
また、周知のように西洋医学を日本に伝えた医師のほとんどは軍医です。軍医になることで、日本にやってくることができたということでしょう。軍の活動と医療活動の歴史的関係はこのあたりにもあります。
また、新選組の生活を観察した幕府医師松本良順が、新選組の活動について健康面から指導したというエピソードは、軍医的活動の一例を語ります。
(1) 枚方宿野戦病院
枚方宿に野戦病院が設けられ、高槻藩軍医を含む派遣された複数の医師たちが傷兵の治療にあたったとされる下記情報が存在します。
枚方宿野戦病院についての高槻藩軍医関係者からの聞き書き
枚方宿野戦病院についての高槻藩軍医関係者からの聞き書き
『鳥羽伏見戦の時、枚方宿に仮設された野戦病院で、両軍の負傷者の手当をしたが、その医師たち(注1)の中に義則(注2)も居た』
※所載文献「阿芙蓉(あふよう)」 富永滋人氏 「浪花のロマン」全国書房刊 昭和42年 大阪新聞社編
注1 医師たち・・・複数の医師(高槻藩軍医関係者からの聞き書きだが、藩をこえた野戦病院の性格を物語る。また洞ヶ峠で形勢を観望した高槻藩が単藩で活動を行うとは考えられない)
注2 義則・・・高槻藩軍医の名前 注記は現代マンガ資料館です。
新政府軍の楠葉(枚方宿手前)での進撃停止により、敗走軍にもたらされた小康局面は予期し得ないものでしたでしょう。しかし、戦線至近の枚方宿には、敗走兵の休息、傷兵の手当・後送などの後方支援を行うための諸条件がありました。たとえば、@淀川水運に関連する幕府既設機関が存在 A大規模施設(宿、寺院など)が集中的に存在するなどです。
(2) 傷兵のその後
鳥羽伏見戦の戦闘内容、規模から考慮すると、軽傷の者を除いても傷兵の数は相当な数になった可能性があります。
鳥羽伏見戦の傷兵は、後日、江戸開城時、称福寺(台東区)で転院治療を受けることになりますが、この時点で30名を数えました。
また、八幡橋本戦線で負傷した新選組山崎蒸は、新選組が海路江戸に帰還する船上で死去し、紀州沖で水葬されたということです。
また、八幡堤で腰に銃撃を受けた見廻り組の佐々木只三郎は陸路紀州まで運ばれ、この地で死去しています。
余談ですが、枚方宿野戦病院で彼らが応急手当をうけ、大坂城に舟で後送されたという可能性を推測することもできるでしょう。
物語 「新選組、土方歳三と撤退作戦」
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現代マンガ資料館では、京街道・幕末維新ミュージアム関連ウェブ紙芝居で、枚方浜から旧幕府負傷兵が大坂城に撤退するために乗舟する場面を描写しました。
傷兵が舟で大坂に到着した光景の目撃談の記録は存在していますが、これに野戦病院の活動をクロスさせてイメージしたものです。つまり、 いつ新政府軍の攻撃が再開されるかもしれない最前線枚方宿で、敗走する旧幕兵を統率して、野戦病院の活動をサポートし、傷兵の後送を指揮して叱咤する土方歳三を描いた推測場面です。
新選組と土方歳三が、傷兵の治療、後送業務を支援するという活動をイメージしたものですが、 全軍潰走の中で組織を維持している歴戦の部隊の役割にふさわしいと考えてみました。
なお、傷兵の収容、治療を行った場、つまり野戦病院の置かれたところ、施設は定かでありません。複数の医師たちというデータ、戦闘規模から、野戦病院の規模を想定し、また、後送の条件を考慮し浜に近接した施設を推測し、寺院、船宿などをイメージしてみました。しかし、これは状況データであり、野戦病院の存在地点を具体的に示すものではありません。
交通と観察
●橋本 京阪線 橋本駅すぐ
※「橋本」の地名が橋の存在(山崎橋)を物語りますが、対岸山崎への渡しの場でもありました。
●楠葉台場(砲台)跡 (枚方市楠葉中之芝町) 京阪線橋本駅歩10分 樟葉駅歩15分
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淀川堤に沿って、楠葉砲台と堤防の間の狭い所を疾走する京阪線電車。背後の山は天王山。
●戊辰戦没者慰霊碑(枚方市上島町) 京阪線樟葉駅歩15分
船橋川堤上をしばらく行くと淀川との合流点である船橋川河口にでます。山崎、橋本・楠葉の関門を観察するのに良い地点です。
その他交通と観察のポイント
●流れ橋 八幡市駅下車バス 幕末維新と直接のかかわりはありませんが、歴史を振り返るときの参考になるでしょう。
時代劇の撮影に欠かせない「流れ橋(通称)
●三川合流地観察は背割堤へ
京阪線 八幡市駅下車徒歩15分
※ 桜並木が美しい堤で木津川右岸堤防と宇治川左岸堤防をかねています。
天王山、男山を至近に臨む京と大坂をつなぐ回廊部のど真ん中に入る感じを楽しめます。
現代マンガ資料館お勧めの歴史観察舞台です。
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従来 「京都 八幡・橋本」と「大坂 楠葉・枚方」とふたつに分けて記述していましたが、戦場の地理的事情、また戦局の推移からみても、「八幡・橋本・楠葉」を一体的にとらえるほうが適切と判断しまして、ふたつのページを一本化しました。ご了解ください。(2006・8・10)