淀川紀行@ 「夕陽丘」
2004年9月12日撮影
(1) 天王寺七坂
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口縄坂 清水坂 源聖寺坂 愛染坂 天神坂
逢坂、真言坂を加えて七坂と称されました。坂が多いのにはもちろん理由があります。
@ 海食崖
上町台地は、昔、大阪湾の波が打ち寄せる半島でした。まっすぐ北にのびる上町台地の北端は大阪城のあるあたりで、
西は大阪湾でした。たくさんの坂は、打ち寄せる波が削った海食崖の名残です。
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志摩英虞湾海食崖 大江神社西斜面急崖
A 坂という所
坂は私の好きな景観です。地点によって見える景色が変化するところが面白いのです。上がりきった地点に立つと、
これまで見えなかった所まで見えるわけで、これが峠です。
峠には地理的な意味以上の意味がこめられる場合があります。たとえば、峠を越す、というようにです。
坂も同様で、しばしば象徴的な使われ方をしています。たとえば、「坂の上の雲(司馬遼太郎)」「峠の群像(堺屋太一)」
というようにです。
坂を上がりきった地点でとらえる海の雄大な視界、そして入り日、それは格別なものだったでしょう。
か りゅう
(2) 家隆塚 ≪伝 藤原家隆墓≫
@ 契りあれば 難波の里に宿りきて 波の入り日を拝みつるかな (藤原家隆)
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家隆塚
新古今和歌集の選者であり、この時代の代表的歌人である藤原家隆が嘉禎2年(1236)に庵(夕陽庵せきようあん)をもう
けたというところです。
夕陽丘の地名は夕陽庵に由来するようです。
すぐ近くに愛染堂があります。本ページ冒頭の写真「愛染堂多宝塔と夕陽」は夕陽庵に近いことから撮影したものです。
「波の入り日を拝みつるかな」・・・が語っていますが、夕陽が信仰の対象でもありました。波の打ち寄せる音、さえぎる
もののない海に姿を没する太陽。荘厳なものだったのではないでしょうか。
夕陽の沈む彼方、西方にあるという極楽浄土をイメージする、このような信仰を「日想観」といいました。
参考
@ 家隆塚の西斜面は海食崖を物語る急崖です。ここから眺める夕陽は見事なものだったに違いありません。
樹木が茂っていて夕陽を観察しにくいために、ここから少し移動して、愛染堂から撮影しました夕陽が冒頭写真です。
愛染堂「多宝塔」は文禄3年(1594)に建立されたもので、重要文化財に指定されています。藤原家隆の時代(鎌倉時代
初期)にはありませんでしたが、真田幸村などは見ている景観です。
A 家隆をこの場合“かりゅう”と音読みしています。敬意を払ったいい方です。音読みと訓読みはきっちり使い分けら
れていました。
A 時間と空間の彼方<1> 夕陽丘と新選組
◆ 「燃えよ剣(司馬遼太郎作)」の土方歳三とお雪さんの二日間の舞台です。
「華やかなことが好きな人のようだな」
「夕陽が華やか?」
お雪は、歳三は変わっている、と思った。
中略
「華やかでしょうか」
「ですよ」
歳三はいった。
「この世でもっとも華やかなものでしょう。もし、華やかでなければ、華やかたらしむべきものだ」
歳三は別のことをいっているらしい。 (燃えよ剣 西昭庵より)
大阪湾に落ちる華麗な夕陽は土方歳三にとってたぶんこれからの生き方と重なるものだったのかもしれません。<2> 大塩存命伝説、海、そして大陸
て゜も、夕陽にさまざまな思いを重ねることは、宗教的なものも含めて昔からあることなのです。見事な夕陽を眺め
ることができる地点はいまでも人気がありますよね。
つまり、時間的には未来、空間的には別の世界が夕陽の消える彼方に重ねられているのかもしれません。
大阪湾はこのような夕陽がおちる舞台であり、そのことで未来やはるか彼方の西方浄土とまではいかなくても夢
を重ねることができるあらたな世界につながる所なのです。
※ いうまでもないでしょうが、「燃えよ剣」の土方歳三とお雪さんの物語はフィクションです。鳥羽伏見の戦いについ
て問われた土方歳三は刀槍の時代ではないと答えたばかりです。このようなエピソードを背景におくと、フィクション
だからこそ、夕陽丘という舞台をかりて、ことの本質が鮮やかに浮き彫りされたように私には思われます。北の大
地における土方歳三の活躍には瞠目するべきものがあります。
新潮文庫上下2巻
大塩平八郎父子は隠れ家を襲われて自害するというのが定説です。しかし、大塩平八郎が生きていたという
伝承が存在します。
それによると、大塩平八郎父子は門人秋篠昭足のつてで九州天草(秋篠昭足の奥さんの実家が天草)、長崎
経由で中国(清)に逃れたというものです。秋篠昭足はその後帰国して医師になり、明治10年になくなったという
ことです。大塩の生存は、大塩と行動を共にした秋篠昭足の語るところだということです。
源義経や西郷隆盛が生きているという伝承と同じものなでしょうが、大坂から天草・長崎・大陸(清)というように
世界の広がりをイメージできる興味深い問題です。
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秋篠昭足の墓 龍淵寺(天王寺区上本町)
波の入り日が、浄土を含めて別の世界と未来を象徴し、イメージするものだとしたら、大塩生存の思いと“夕陽丘”の
存在は深くかかわっているのかもしれません。
(3) 淀 川
難波津に み舟おろすゑ 八十梶貫き 今は漕ぎぬと 妹に告げこそ
防人に 立たむ騒ぎに 家の妹が 業るべきことを 言はず来ぬかも (万葉集巻第二十)
防人として出立する際に詠まれた二首ですが、上町台地北端に位置する交通の要衝「渡辺津」は、古代からたくさん
の人を送り、また迎えてきました。源義経もここで船揃えをして四国屋島に向かっています。
この地は、淀川を介して都と各地を結ぶ河海交通の要衝でした。
@ 渡辺津と熊野詣
平安時代から始まり江戸時代初期まで続く熊野詣のコースは、京都、鳥羽、天王寺、住吉、和泉、 紀伊の海岸を経由
して紀伊田辺から山中に入り、熊野座神社までというものでした。淀川を舟で下り、渡辺津に上陸して熊野街道というコ
ースです。渡辺津からの熊野街道は、上町台地の脊梁を南下していきます。夕陽庵はこの途中にありました。
A 入り日の海と水の都
この場合の水の都は平安京のことです。
河川など水とのかかわり(たとえば水の利用)は、都づくりにとって大変重要な要素でしたでしょう。交通、交易ばかりでなく、
文化的にも重要なファクターでした。
古代貴族の日記である「土佐日記」や「更級日記」の記述をみても淀川に依拠する交通事情の一端を見ることができま
す。
入り日の海と都をつなぐ淀川は平安京の重要な構成要素であったと私には思われます。
夕陽丘と都との距離は淀川を利用するならば、地理的距離以上に近いものだったのではないでしょうか。人を含めた運搬
力、移動の速さ、船中泊が可能などの安全性、楽しめる流域の景観など、諸面において優れていたと考えられるからです。
たとえば、更科日記の記述では、牛車で淀に出て乗船し、この日は高浜(山崎辺)泊<船中泊>、翌日にははやくも大阪湾
上を和泉に向かっています。
水の都だからこそ、淀川を介して、入り日の海と平安京は意外に近いのです。
夕陽庵と都の近さでもあるでしょう。
2004年9月13日
2004年9月28日改訂
ちょっと休憩
●「燃えよ剣」の土方歳三とお雪さんは、口縄坂をあがった西昭庵で二日間を過ごします。鳥羽伏見の戦いで敗退し
た新選組が幕府軍艦で江戸に向かう寸前の二日間です。このような二日間の舞台が上町台のこの地というのがう
れしいですね。新選組の足跡を訪ねて大阪にいらっしゃる場合、ぜひおたずねください。司馬遼太郎さんのフィクシ
ョンですが、この設定に司馬さんの思いがこめられているように私には思われるのです。
●平安京の都としての力の変化が波及して江戸時代の大坂は、京都とのかかわりにおいてではなく、独自に、水の
都としての役割を発展させています。政治の中枢が江戸にあって京都にはないからです。これが再び変化するのは、
京都の政治的役割が大きくなった幕末の一時期です。京都守護職の設置という幕府側の動きもこのような変化を示
しています。いうまでもないでしょうが、京都守護職は大坂城代を指揮することができる職掌でした。
● 要衝「渡辺津」を掌握(渡辺惣官職)したのが渡辺党であり、この地を根拠地として、大阪湾はもとより、より広域の
海洋を支配する武士団でした。平家物語、御伽草子で活躍する武士団でもあります。次回はこの「渡辺」がテーマ
です。
交通と観察のポイント
@ 天王寺七坂
大阪市営地下鉄谷町線 四天王寺夕陽丘駅起点 or 地下鉄線、京阪線 天満橋駅起点
上町台地西縁を北上します。七坂の最後真言坂は谷町9丁目あたりです。さらに北に進むと大阪城ですが、海食崖の
名残を観察することができます。
天満橋駅から南下するのも良いでしょう。
● 天王寺動物園 美術館など文化施設ミュージアム
● 四天王寺、一心寺などの古寺探訪も楽しい。
A 家隆塚
天王寺区夕陽丘5
大阪市営地下鉄谷町線 四天王寺夕陽丘駅西約100m
大阪府史跡に指定されています。
B 愛染堂多宝塔
天王寺区夕陽丘5−38
大阪市営地下鉄谷町線 四天王寺夕陽丘駅南西約150m
愛染堂の正式名称は「勝曼院」で四天王寺「施薬院」の後身とされていますが、愛染さんと呼称され親しまれています。
多宝塔(文禄3年建立・重要文化財)は大阪市内唯一の桃山時代遺構。
※ 多宝塔から眺める夕陽はなかなかです。
C 龍淵寺
天王寺区上本町4
大塩門下秋篠昭足のお墓があり、大塩生存伝説を伝えています。
大阪市営地下鉄谷町線上本町9 近鉄線上本町駅 歩
課題@ 地図の要望がありました。全体に地図が少ないのでわかりにくい点があるようです。地図の整理をする予定です。