幕末維新ミュージアム 京街道を往く 京都 鳥羽・伏見T
歴史の転換点「鳥羽伏見の戦い」第1部
鳥羽伏見の戦い
慶応4年1月3日、午後5時ごろ、鳥羽小枝橋で入京しようとする旧幕府軍と守備する薩摩軍との戦闘が始まりました。戦闘
は伏見方面でも始まり、4日、5日、6日と戦線を移動させて激戦が続きます。旧幕府軍は、敗退を重ね、1月6日の戦闘におい
て、ついに戦線が崩壊し、潰走(大坂城への退却)が始まります。戊辰戦争の幕開けです。
T 戦跡探訪
淀から鳥羽街道を北上。戦闘の経過を逆にたどりました。
@ 鳥羽伏見方面戦闘図
鳥羽離宮跡公園内に鳥羽伏見方面戦闘図が設置
されています。
戦闘の輪郭をとらえるのに大変参考になります。
左図は、その一部の紹介です。
※「小枝橋」「淀」の表記は現代マンガ資料館で付記しています。
A 鳥羽街道
「淀城」、「妙教寺」、「愛宕茶屋激戦地」など淀の激戦ゆかりの史跡を経て
北上すると戦端が開かれた小枝橋です。
激戦を物語る旧幕府軍戦没者慰霊碑が散見します。
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法伝寺と慰霊碑
街道
B 小枝橋
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小枝橋 小枝橋から見る城南宮 城南宮
小枝橋は古代から都に入る関門、軍事的要衝でした。
U 戦いの背景
@ 大政奉還
慶応3年10月12日、15代将軍徳川慶喜は二条城に在京する
幕府関係者を集めて、大政奉還(政権を朝廷に還すこと)の決意
を告げました。
歴史的瞬間でした。
図はそのようすを描いたもので、徳川慶喜(中央)、京都守護職
松平容保(向かって右奥) ※聖徳記念絵画館像
徳川幕府265年間の終焉でした。
幕府諸機関、京都守護職、所司代なども同時に廃止されます。
しかし、同日、朝廷から倒幕の密勅が出て、長州藩などは出
兵の準備を進めて、相次ぎ京都に兵を送り、慶応3年末には、
薩長軍が京坂に布陣し、軍事的緊張が高まっていきます。
A 王政復古と徳川排除
大政奉還を受けて、朝廷では、王政復古が宣言され、新政府の準備が進められていきます。
新選組を含む旧幕府関係者は、京都を退去し大坂に拠点を移 します。
しかし、徳川慶喜の新政府における処遇で対立があり、12月9日の小御所会議において徳川慶喜の「辞官
納地」などが決定され、倒幕派の政治的攻勢が強まります。
江戸では薩摩藩による挑発活動にのせられた旧幕閣が薩摩藩邸焼き討ちを行い、この知らせが大坂に届く
と、薩摩討つべしの動きがいっきに拡大し、慶応4年1月早々旧幕府軍は「討薩表」を掲げて、京都に進撃を開
始します。
V 視点
慶応3年末から慶応4年初めは事態が速く、激しく動きました。
慶応4年1月の鳥羽伏見で戦われた戦闘は、極めて政治的なものでした。戦闘は、政治的目的(武力討幕)を遂
げるために必要とされ、そのために計画的に周到に準備されたものでした。
だから、軍事的帰趨が政治情勢にかかわり、敗北した旧幕府軍にとっては、軍事的敗北が政治的敗北を決定
付け(朝敵になる)、政治的敗北があらたな軍事的敗北(相次ぐ裏切り)につながるという厳しい展開を余儀なくさ
れます。
ちょっと休憩
鳥羽伏見方面戦闘図をご覧いただくとわかりますが、新選組は伏見の戦線で戦っています。
鳥羽方面の戦いが起こると、伏見方面でも戦闘が始まります。
鳥羽方面では、ライバル「見廻り組」が白刃をふるって奮戦していますが、苦戦です。
※ 交通・その他は近日