【追記:2025.01.02】「圓生師とパンダのランランが同じ日に死んで、翌朝の新聞では昭和の大名人よりランランの死の方が大きく扱われた」というのは、今でも落語家さんや落語ファンのネタとしてよく語られています。1979年というと私は小学6年生。「落語」の「ら」の字を辛うじて知っているという程度で、三遊亭圓生という噺家の名も聞いたことがありませんでした。もちろん、初めて日本に来たパンダでしたのでランランの死が大きなニュースになったことは良く覚えています。ランランの「訃報」記事を読むと、亡くなったのは9月4日の午前1時20分。東京23区に配られる最終版になんとか間に合うという時刻でして、多摩地区、神奈川、埼玉、千葉などの東京近郊向けのそれ以前の版には、この訃報記事は間に合わなかったと思われます。だとしたら23区以外ではランランの死は朝刊紙面に掲載されておらず、したがって最終版より大きく圓生師の死が扱われていたのではないか。こう思うのですが、現在、図書館で閲覧できる新聞縮刷版やマイクロフィルムは最終版の物のみで、それ以前の版を見る手立ては(新聞社勤務でもない限り)ありません。当時から千葉に住んでいた小学生の私は、当日どんな新聞記事を目にしていたのでしょう。 |