狸の釜(たぬきのかま)
四代目柳家小さん
狐は
奸智に
長けたもの、狸は愚かのものだといってあります。愚かでも何でも
総て
生あるものは、
喜怒哀楽の
情あるもので、犬なども物を
遣れば尻尾を振って来る。嬉しい悲しいが分からぬというものは決してないと申します。
八五郎「誰だ
其所を叩くのは、ドン/\叩くなよ、
極まってやがる。また夜遊びをして締め出しを食ったんで、泊めてくれすだろう。誰だ、返事をしねえな」
狸「私でございます」
八「
判然口を
利きな。変だなァ、夜中だってえのに脅かすない。臆病の人間だ…今開けてやるよ、誰だ」
狸「早く開けて下さい」
八「
煩せえなァ、今
心張を取るから待て…さァ開いた…オヤ誰もいねえじゃねえか、何処か
其辺へ隠れやがったな。
串戯するない。
夜夜中人をわざわざ起こしておいて、
巫山戯ていやがる。誰か
嘲弄に来やがったんだな。バカにしていやがる…アッ
肝を
潰した。なんだ薄暗い所に…」
狸「こんばんは」
八「アレッ、なんだ
竃の影に…アッ狸だな、こン畜生」
狸「ヘエ、先だってはどうも…」
八「
串戯じゃァねえ。先だってがどうしたんだ。俺はそんなものに
交際はねえ、狸に親類はねえよ」
狸「ヘエお忘れになりましたか。昨年の暮れでございました、
貴郎に命を助けていただきました狸でございます。今晩お礼ながらちょっと伺いました」
八「アヽ寺詣りの帰りに
畑道を通ったら、子供が大勢いるから、
喧嘩でもしているのかと思って
傍へ寄ってみたら、
小ぽけな狸を
捉めえて、
捕縛って
苛い目に
遇わしているから、寺詣りの帰りでもあるし、助けてやったら仏の
功徳にもなるだろうだとと、子供に
銭をやって助けてやったら、振り返り/\嬉しそうに逃げて行ったっけ、あの小狸が
汝か」
狸「ヘエ、あの時の事が有り難いと思って忘れる暇がございません。お礼に出よう/\とおもいながら、ツイ
無精をしておりますと、
今日親父が少し
疝気でもって寝ております…」
八「狸だけに
疝気だと云いやァがる」
狸「ちょっと来いと云いますから、
傍へ行きますと、貴様は
勘当してしまうとこう云うんで」
八「フーム、
汝の方にも勘当だの
廃嫡だのという事があるのか」
狸「ヘエ」
八「何か道楽でもしたのか」
狸「イエ親孝行をしております」
八「
箆棒めえ。いくら狸だって親孝行をして
勘当される奴があるものか。第一
突然の
勘当は
酷過ぎるらァ」
狸「私もそう思って、どういう訳で
勘当するのだと、聞きましたら、貴様は命を助けていただいた大恩人を忘れちゃァ済むめえとこう云いますから、朝に晩に有り難いと思って、チャンと覚えておりますと云うと、馬鹿野郎となお
叱られました。恩を忘れねえからといって、それで済む訳のものでない。なぜお礼に行ってご恩返しをしねえと、親父の理屈を聞いてみればなるほど
此方が悪いので…」
八「ご恩返し、俺は何も恩返しをされようと思って助けたんじゃァねえ。
可哀想だと思って助けたんだ。そんな義理立てはいらねえ」
狸「イエ私もご恩返しをしたいと思いながら、ツイご無沙汰をしておりましたと云うと、それだから貴様などはいかねえ。命を助けていただいてご恩返しをする事を知らねえ、貴様のような奴は人間にも劣ると云われました」
八「大変な事を云いやァがるな。恩返しというのは何をするんだ」
狸「別に仕様もございません。お疲れになった時に、肩でも叩いたり足でも
擦ったり」
八「いけねえ/\。俺は人間にせえ肩や足を触られるのが嫌えだから、そんな真似をされちゃァ恩返しにならねえや。マア
宜いから帰ってくんな。自体俺は臆病だから、狸と一緒に居るのはいやだ」
狸「帰ると親父に叱られます。ナゼご恩返しをして来ないと
勘当されてしまいます」
八「困ったなァ、じゃァマア居ても
宜いがな。俺の所は貧乏だから何も食い物がねえぞ」
狸「食い物なぞはどうにでも致します」
八「ウムそうか。マア二三日も居たら馴れてきて気味の悪い事もねえかも知れないが、昼間幾らも
家へ
朋友や何か人が来る。皆な口の悪い奴が
揃ってるから、あの野郎の所へ行くと
何日でも狸が
膨れッ
面をして居るって、俺は八五郎という名だが、狸の八五郎なんて
綽名をされると困るからな」
狸「イエそれはご心配に及びません。なるたけ人の目の立たないようにしております」
八「親父に叱られるなら仕方がねえ、
可哀想だから居ても
宜いが、今云った通り食い物がねえよ」
狸「ヘエ食い物ぐらい自分でどうにか致します」
八「なにしろもう遅いから寝ねえ。
其処にヌッとして居られると、俺も
寝難いから寝ちまいねえ」
狸「じゃァお先へ御免なさいまし」
八「オッ、縁の下へ入らねえでも
宜い。夜中に人の来る気遣いねえ、大丈夫だ」
狸「
左様でございましょうが、畳が敷いてありますから…」
八「畳が敷いてあったって遠慮するな」
狸「遠慮は致しませんが、畳の上は冷えていけません」
八「ウフッ、畳の上は冷えていけねえって、云う事が
皆な変わってやがる。やはり縁の下の方が
宜いのか。じゃァ勝手にしねえ…アヽ気味が悪いな…」
自体臆病な男だからあまり
好い心持ちは致しません。けれども昼の疲れがあるから横になるとグッスリ寝込んでしまいました。狸はまだ薄暗い
中から起きて、掃除
万端残らず行き届いて、
狸「親方々々…これでもう五度目だ。いくら起こしても起きねえ、人間は寝坊だなァ。死んでるようなものだ。親方…仕様がねえな、俺の方じゃァまた寝ていても起きてる、狸寝入りというくらいだから…親方々々」
八「ウム、ウム、アヽアーどうもスッカリ寝込んじまった」
狸「モウ起きなさい」
八「アッお向こうのお爺さんが。お前さんはまた早起きだからね。エーと…アヽそうか、
昨夜変なことがあって、
締りをしずに寝てしまった。そうだ/\…オヤ向こうのお爺さんかと思ったら見た事のねえ人だが、お前さんは何だえ」
狸「ヘエ昨晩の狸で」
八「アレッ、化けやがったな。こン畜生、恩を
仇で返すでえのは
汝の事だ。恩返しをするなんて云いやがって、人を騙しやァがる」
狸「お静かに願います。騙した訳じゃァございませんが、昼間成るたけ目立たないようにと
斯う思いまして、
是でもなかなか心配して、先刻から
種々やってみました。丁度
貴郎の年頃に似合った女に化けてみました、御長屋のお
交際もあるし、
突然に
内儀さんが出来たら
訝しいと思って、お婆さんに化けましたが、どうも
巧くゆきませんから、いっそお爺さんの方が目に付かないで
宜いと思いまして…」
八「そうか、しかし爺さんにしちゃァ、
肥り過ぎてらァ」
狸「じゃァ少し痩せます」
八「そう自由にいくかえ」
狸「ヘエ、
一寸御覧なすって…」
八「アヽ痩せた/\、
些と痩せ過ぎた…オットットその位で
宜かろう。
先刻顔が向こうの爺さんによく似ていたが、少し変わって来たぜ」
狸「ヘエ時々変わります」
八「いけねえや。時々変わっちゃァ、毎日同じ
爺でなけりゃァ。八公の所にいろ/\な
爺がいるなんて云われると困るから」
狸「そうでございますか。それは少し面倒で…」
八「精々面倒を見てくれ、
何時の間にか馬鹿に
家が綺麗になったな」
狸「
貴郎は随分無精だと見えて汚のうございました。今朝薄暗い時分から起きてお湯を沸かして
悉皆掃除をしてしまったんで、
好い心持ちになりました。それからまァ
面を洗って手を
浄めて御飯を
焚いてお
汁を
造らえて、煮豆に納豆を買って、ついでに梅漬けの生姜に沢庵と名漬けの御漬物を買って来ました」
八「アレ
串戯をするない。俺の所は米も
碌になし…」
狸「エー一粒もありません」
八「
薪も何もねえ、第一
銭がねえや」
狸「エー訳ェございません」
八「訳ぇねえって
何うした」
狸「
火鉢の
抽斗を開けたら手帳がありましたからそれを破って使いました」
八「手帳を破ってどう使った」
狸「その紙が
一寸札や何かに見えます」
八「フーン、それで
皆な買ったのかえ」
狸「ヘエ、
剰余銭が
此所に沢山取ってあります」
八「手帳の紙で
剰余銭を取ったのか…大変にあるなァ」
狸「ヘエ、これは米屋の
剰余銭で、これが
薪屋の
剰余銭、これは
鰹節屋の
剰余銭」
八「
鰹節まで買って来たのか。こいつァ
剛儀だ。何しろ実に
能く働いてくれて第一
綺麗になって有り難え、アヽ
成程薪が大層あるな」
狸「ヘエ
其処に積んで置きました。退屈で仕様がないから、
諸方の薪屋へ幾度も行って、その
度に
剰余銭を取って二束ずつ買って来たんで…
札はその時だけで
直きに元の紙になっちまいますから、幾度も行くと
露顕します」
八「
成程、
此辺の薪屋にこれだけ積んである
家はありゃしねえ、大層なものだ」
狸「御長屋へ一束ずつ
遣りましょうか」
八「そんな事をしねえでも
宜…こりゃァ貧乏人は女房を持つより狸を飼っといた方がよっぽど徳用だ。当分俺の
家へいてくれ。生涯いたって
宜い。重宝なものだ」
八五郎顔を洗ってお
汁で御飯を食べてしまって、
八「時に狸公や、人間というものは貧乏で意気地のねえものだと思うか知らねえが、俺は
独身者でツイ怠け癖が付いてるもんだから、借金も幾らか出来た。中に越後から来る
縮屋に四円
若干、五円近い借りがありんだ。
貴方のだけ
戴けないために宿屋で無駄飯を食べていると云って、
蒼蝿く催促に来やァがるんだが、今日も来るに違えねえから、お前一つ新聞
紙か何かで
札を
造えといてくんねえな」
狸「エーそれが長い間札に見える訳にゆかないんで、
直きに元の紙になっちまいますから、持って帰って新聞
紙か何かになってると、これは
怪しいというので
貴所が警察へでも連れて行かれるような事になると、私の御恩返しが無駄になりますから」
八「ウム、人間より考えが
深えな。なるほど…それじゃどうだい。何か化かす工夫で、俺のところへ一軒置いた隣に馬鹿に貧乏人があるが、間違えて向こうへ催促に行くというような事にしたら…」
狸「いけません。第一そんな化かし方は面倒でございます」
八「面倒だろうがやっておくれ。それでなければ、モウ少し
諸方から
剰余銭を集めて来て貰いてえな」
狸「ナニそんな事をしないでも、その人が来たら私が札に化けて
先方へ行きましょう」
八「お
前が札になれるかえ」
狸「エヽ札や銀貨にはチョイ/\なっております。
幼さい時によくやって親父に叱られました」
八「何で叱られた」
狸「夜の十一時過ぎになって往来の
点燈の下なぞに札や銀貨になって転がってるんで、欲張ってる奴が拾おうとして手を出すと、引っ掻いて逃げ出すんで、なかなか面白うございます」
八「悪い
戯らをするな」
狸「
幼さい時には随分そんな事をしました」
八「じゃァ一ツやってくれ、一円札で五枚…」
狸「それはいけません、一人だから一枚でなくっちゃァ、別々にはなれません。どうしても五枚でなくっていけなければ
朋友を連れて来ますけれども」
八「
朋友なんか連れて来ちゃァいかねえ。それじゃァ五円札で
宜い。
剰余銭は要らねえといって皆なやっちまうから」
狸「いっそ百円札になって、
剰余銭を貰いましょうか」
八「
突然に百円札なんか出すと、それこそ怪しまれる。モウ来るよ、毎日々々
明日々々と延べてあるんだから…不意に
家を開けられて、アワを食って化け損なうといかねえ。モウソロ/\化けてくんな」
狸「それじゃァ私が
引倒返りますから、
貴郎手拍子を
拍っておくんなさい」
八「ヨシ、いいか、
一の
二の
三ッと…オヤ
何処かへ行っちまやァがった、ナニ
札なぞになれるものか、
瞞着して逃げちまやがったのだろう」
狸「親方々々」
八「アレ、
何処かで呼んでやがる。何処だ
狸公」
狸「ヘエ」
八「アヽ、こりゃァ
汝か。そうか、
無暗に口を利くな」
狸「大丈夫」
八「不思議なものだなァ…アヽいけねえや。裏に毛が生えてるぜ」
狸「表だけ、ちょっと見本にご覧に入れたので」
八「見本か。裏も一つ…うめえ/\何だか少し横が長えやうだな。オット/\それじゃァ詰まり過ぎた。よし
其処だ。おめえ/\しかし
札になると
量目まで軽くなるのは
剛気だなァ」
狸「アヽ畳んじゃァいけません。苦しゅうございます」
八「苦しかろうが我慢をしろ」
狸「渡すまで広げておいておくんなさい」
八「よし/\。うめえものだ、モウ来るだろう」
縮屋「御免下さいまし」
八「アヽ来た/\、今朝は来るだろうと思ってチャンと都合をして待っていた。五円だ。
剰余銭は
要らねえ」
縮「ヘヽどうも済みません。
皆戴きませんでもせめて宿賃の足しにと存じておりましたので、余分に頂きましては…」
八「江戸ッ子だ。
無え時にゃァ
遣れねえけれども、有りせえすりゃァ半端に
遣るんじゃァねえや。ソーッと
納いな。余り酷い事をすると食い付かれるよ」
縮「エーッ」
八「肝を潰さねえでも
宜い。そうやたらに引っ繰り返しなさんな。可哀想だから…何も怪しい所はありゃしめえ」
縮「ヘエ確かに頂戴致しました」
八「じゃァ面倒でも受取を置いてってくんな。どんなに
懇意い者でも銭金は他人という事がある。後で取らねえなぞと云うといかねえから…」
縮「ヘエ有り難う存じます。こう
皆な戴けるとは思いませんでした。どうも有り難う存じます」
八「気を付けて行きなよ、
宜いかえ、…アヽ行っちまやァがった。キョロ/\しやァがって、幾度も引っ繰り返して見やァがるから、どんなに心配したか知れねえ。とうとう
真正の
札と思って縮屋めえ狸を
懐中へ入れて喜んで
帰った。どうだろう
露顕をして殺されると罪を作る
基だが、…アヽ肝を潰した。モウ行って来たのか」
狸「ヘエ途中から逃げて来ました」
八「あんまり早えじゃねえか、どうした」
狸「どうも驚いちまいました、
彼所の
路次の入口の
処へ立ち留まったからどうするかと思うと、
札を出して見ていました」
八「
札というと
汝だな」
狸「ヘエ広げて透かしてみたり、引っ張ってみたり
種々な事をしやがるんで苦しくって仕様がありません。それでも我慢をしていると、丁寧に四つに畳んで
紙入の中へギュッと押し込んでしまったんで…」
八「そいつァ困ったろう、どうして逃げ出した」
狸「
紙入を食い破って来ました」
八「そんな事がよく出来たな」
狸「ヘエ、どうせ逃げ出すついでだから
紙入の中に幾らかあるなら、持って来ようと思いましたら、宿屋へ置いたとみえて、一円札がたった二枚しかありません。お小遣いに持ってきました
」
八「ヘエー、
札が
札を持って来たのか、有り難え/\、どうもうめえもんだな」
狸「ヘエ年は若いがなかなか
性が
宜いと、仲間にも
褒められております」
八「自慢をしていやァがる。恩返しとは云いながら、
汝に大変に骨を折らした。俺も土産の一つも持たして親父の所へ
帰してえが、何を云うにも先立つものは金だ。ついちゃァ俺の行く寺の和尚がこの頃茶の湯に凝ってお前は世間が広いから、
諸方歩いてるうちに、格安の釜が見当たったら世話をしてくれと云われているんだ。なんでも
先方で好んでるのはヅンドという型の釜の沸きが早くって
宜いと云ってる。一つその釜になってくれめえか」
狸「ヘエ宜しゅうございます」
八「飯を炊く釜じゃァねえよ、茶の湯の釜だよ」
狸「エー茶釜なら
文福というのが私の先祖で」
八「また自慢をして居やがる、釜に一つなってくれ」
狸「どうか手拍子を願います」
八「
宜し、
一の
二の
三つ…そう膨らんではいけねえ、俺が手で
撫でるからその形になってくんねえ…そうだ/\、うめえ/\、
飴細工みたように自由になる、
旨えけれども何だか淋しいな、アッ
環を付ける所がねえ…そうだ、
可し/\環がねえな…、ナニ、別にするには
朋友を連れて来るって、そりゃ困るよ、じゃァいゝや、環は忘れて来たから後で届けるとでも云っておこう、もう少し小ぶりになると申し分がねえな。アヽ重いな、
鋳物だから
矢張り重くなければいかねえってそれはそうだ。
札の時には軽くなるし、なかなか器用のものだ…エー御免下さいまし、和尚様はお
在でござますか…」
和尚「オー之は/\、さアどうぞ、
此方へ…」
八「エー
此間お話がございました釜の手頃のが
他に払い者でございましたから
一寸借りて参りましたが、
如何で…」
和「アヽそうかえ、それは早速拝見しよう…
成程これは
家にあるのより、少し小振りだな」
八「ヘエ、まだ大きくもなります」
和「エー大きくなるというと、まだ
外にもあるとお云いか」
八「ヘエ左様でございます」
和「イヤ小ぶりの方を好むので、これならば思い通り。お急ぎでなくばマァ
緩くりなさい。御茶を一つ御馳走しよう。イヤどうも誠に手頃で気に入った。
一寸試してみるから…アヽ
弁長や、これへ水を入れてな。イヤ湯だけ沸けば
宜いのだから、その火鉢へもっと炭をついで…」
八「エー和尚さん
何うなさるんで…」
和「イヤ
一寸火に掛けて試してみる」
八「それはいけません」
和「いけないと云うは
瑕でもあるのかえ」
八「
何う致しまして
瑕などはございません」
和「それなら試してみるに差し支えあるまい」
八「ヘエ、じゃァまた私は上がります」
和「また上がると云って、用がないなら少しお待ちなさい」
八「イエ
一寸行って参ります、
直にまた伺いますが、
如何でございましょう。
先手では手放す位でござますから、
甚く金を急いでおりますが…」
和「アヽお金を急ぐそうかえ。
沸を試してみてから
値を聞こうと思っていたが、
如何程だね」
八「左様でございます。
先方で申しますには…円位と云うので」
和「どうも分からんな。
判然云って貰いたい」
八「ヘエ、
何うでございましょう…円位」
和「ハア十円かえ」
八「ヘエ、十円/\」
和「手間は取らせない。
沸を試した上で…」
八「でございましょうが、
些と急ぎますから…」
和「じゃァこうしよう。気に入ったら十円即金で上げる。
兎に
角半分だけ持ってお
出で」
八「どうも有り難う存じます。左様なら
後刻」
和「何だか
気忙しい人だの。わざわざ持って来た位で少しの間が待てないで行ってしまった…
弁長釜へ水を入れたかえ、何を見ている」
弁「エヽ何だか
先刻から見ると少し大きくなりましたようで」
和「ナニ大きくなる訳がない。水を入れたら火へ掛けなさい、どうも火の
熾りが悪いな。どうも困るな。炭を
湿らしてしまって、仕方がない。下へ
煽ぎなさい。火が
鈍いと
沸が遅い。アヽそうパタ/\
煽ぐな、灰が立っていかん」
狸「
納所」
弁「オヤ」
和「何だ」
弁「誰か
納所/\と云います」
和「貴様は
弁長という名がある。誰も
納所などゝ云うものはない」
弁「エー花屋のお爺さんが御小僧さん/\と云いますが
納所なんてものは
一人もありません」
狸「
納所」
弁「アレまた云います」
和「
何所で」
弁「
此所でございます」
和「
此所でいう訳がない」
弁「アヽ表の煙草屋の小僧が、よく私の事を
納所/\と云います。小僧が
何所かに隠れていて
揶揄んでございましょう」
和「そうか、悪い奴だ」
狸「
納所、熱い」
弁「オヤ
納所熱いと云いました」
和「
成程何か云ったな」
弁「この釜のようで」
和「馬鹿を云え。釜は湯が
沸れば鳴るけれど、
納所熱いなどゝいうものか」
弁「でも不思議でございます」
和「不思議という事はない。心の迷いだ。仏門に入っているものはそんな事を云ってはいかん。
乃公が
煽いでみよう。それで何か云えば
訝しい」
狸「
住寺」
和「オヤ、何でそんな声を出す」
弁「私は何も云やァしません」
和「嘘をつけ、
住寺と云った」
弁「そんな事を云やァしません」
和「ウム
解った。あまり水を一ぱい入れたので、湯気が
蓋へ溜まって下へ廻る。それでジュウと云うのが
住寺と聞こえたのだ。イヤ確かにそうだよヤァこれはいかん。
成程この釜は変だ。何を
彼奴持って来たか。怪しい釜だ。
煽げ/\、ドンドン煽げ煽げ」
パッパ
煽ったから
耐りません。灰神楽をあげて飛び出した。ソレ釜が化けたと坊主頭へ
鉢巻をして
納所坊主が、棒を持って追い掛ける。
和「コレ/\、とても
捉まらんから
止せ。しかし何だな
彼ゃァ」
弁「本堂の脇へ追い詰めた時に見ましたら狸でございます」
和「狸だ。ウムそれでは
半金騙られたか」
弁「包んだ風呂敷が、
八丈でございました」