夢金(ゆめきん)
五代目三遊亭圓生
世の中は色気と
欲気の二つで
保っているので、人間は色気と欲気に離れゝばモウ、
裟婆を離れたも同様でございます。けれどもこれが
度に過ぎると、ついには命を失うようなになりますから、
何でも物は
程にしなければなりません。とは申すものゝ、この程という奴がどの位の所が程なんだか、そこが誠に難しい。
殊に欲の充満した人間は一層お笑いの種を作るようで「欲深き人の心と降る雪は積もるに付けて道を忘るゝ」また
諺に
一文銭か
生爪かという事がありますが、この
銭は大分厚いようだが、
二文重なってるんじゃァないかと、
剥がそうとして、自分の
爪を
剥がすなぞという、こう欲も満ちて来ると始末にいけません。なかには歩きながら幾らか拾いたい/\と思っていると十円の金貨が落ちていた。ヤレ嬉しやと拾おうと思っても取れません。地に
凍り付いてるんだから、小便をしたら
温たかみで氷が解けて取れるだろうと、小便をすると冷たいンで、眼が覚めて見ると、金貨の落ちていたのは夢で、小便だけは
真正だったという、こんな馬鹿げたお話も随分あります。なかにはまた金が欲しい/\と思い詰めて寝言まで言う奴がある。
○「アヽ金が欲しいなァ。三十両欲しい、二十両でもいい…」
亭主「オイ
女房、また熊の野郎、寝言を言ってやがる。あんな変な奴もねえもんだ。今二階へ
昇って寝たと思ったら、モウ寝言を言ってやがる」
熊「アヽ二十両欲しい…」
亭「まだ言ってやがる、寝言もいいが、二十両欲しいの、三十両欲しいのッて、欲張った事ばかり言ってやがる。ヤイ静かにしねえか」
熊「十両でもいい」
亭「アレ
益々烈しくなって来た。仕様のねえ奴だ」
女「オヤ/\下では小言、二階では寝言、小言と寝言の掛け合いだ」
亭「なにを言やがる。…アヽ寒い/\と思ったら大分雪が
甚くなったようだ。しかし雪の晩は雨と違ってなんとなく世間が静かだ。段々更けて来て
寂寥としている中で、二十両だ三十両だと、大きな声で
呶鳴りやァがって、泥棒にでも聞かれたら、どんな災難を食うか知れりゃァしねえ、サァサァ寝よう/\」
途端に表の戸をドン/\/\、
△「コレちょっと
明けてくれ」
ドン/\/\
△「ちょっと明けてくれ」
亭「サァ大変だ
女房、言わねえこっちゃァねえ。とう/\野郎、泥棒か何か呼び込みやァがった。マァ待ちねえ、声を出しなさんなよ、静かにしていねえ…」
怖々ながら亭主が戸の節穴からソッと
表外を
覗くと、
判然とは分かりませんが、雪明かりに見ると、
長刀を差した
御武家が軒下に立っている様子、
亭「こりゃァ大変だ。いよいよ泥棒を呼び込んだに
違えねえ。待ちねえよ、俺が断るから…エー御気の毒様でございますが、手前共は見る
蔭もない
船宿で、蓄えといっては少しもございません。どうか
他を御当たりを願います」
侍「コレ/\
痴けた事を申すな。拙者は左様な
怪しい者ではない。
汝の所は船宿と知って船を
一艘頼みに参ったのだ」
亮「ヘエ御客様でございますか」
侍「左様だ」
亭「
真実御客様でございますか…、そんなら宜しゅうございますが、戸を開けると光った物を鼻ッ先へ突き付けて、有り金を出せなどゝ
仰るんじゃァございませんか」
侍「
怪しからん事を申すな。拙者は決して
胡乱な者ではないに依って、早く明けてくれ」
亭「左様でございますか、どうもこれは
飛んだ失礼を申し上げて恐れ入ります。怖い/\と思っておるもんでございますから、ツイ失礼を申した。どうか御勘弁下さいまし…、ヘイどうぞこちらへ御
入りを」
侍「
免せ」
と入って来た御武家というのは年の頃三十四五、色の黒い目のギョロッとした、小鼻の開いた口の大きい、あんまり
好い男ではない。頭を見ると
髷は
結っておりますが、
月代が延びて
元結の色も変わり、
髯蓬々と生えております。衣類は
絹布ではありますが
襟垢が付き、
嘉平次平の
袴の
襞の
損んだのを
穿いて、
破柄禿鞘の
大小を差し、
黒羽二重というと、体裁がいいが、
地が赤くなって、紋が黒くなっているから、
赤羽二重の黒紋付という羽織を着て、雪の中を
駒下駄で歩いて来たので、
裾の方に
跳泥が上がっております。連れの婦人というのは、年頃十七八でもございましょうか、色白にして鼻筋通り、
口許の締まった、眼の
涼やかな、眉毛の優しい、
額の生え際の
好い、
丈のスラッとした、どこと言って
非点の打ち所のない、美くしいお嬢さん、髪は
文金の
高島田に
結い上げ、
扮装は
小紋縮緬の
二枚小袖、
繻珍の帯を締めて、
裳裾をキリッと取り上げ、
緋縮緬の燃え立つような
蹴出しで、
木履のまゝ雪の中を歩いたので、これも大分裾に
跳泥が上がっておりますが、
武士の姿とは
全然変わっております。
亭「オヤ/\これは
御難儀でございましたろう。サァどうぞ
御手をお
焙り下さいまし」
侍「イヤどうも雪は豊年の
貢とか言うが、こう
烈しく降られては難儀なものだな」
亭「左様でございます。エーお嬢様、さぞ
御冷とたうございましょう。どうぞ御手をお焙り下さいまし」
侍「アヽ夜中気の毒だがな。深川まで屋根船を
一艘やって貰いたい。実は妹を連れて
今日芝居に参った所、
俄かにこのの雪に
遭い、
駕籠というと
二挺になって
億劫ゆえ、いっそ船で帰ろうと思ってこれまで雪の中を歩いて参った」
亭「それは/\、エー畏まりましてございますが、ちょっとどうぞ御待ち下さいまし。…おイお前、
若え者はどうだろうな…、ナニ皆なが出払った。そうか、
久次の奴がいたと思ったが、…エーあれも
先刻御客様が…オヤ/\そいつァいかねえな。旦那様どうも誠にお気の毒様でございますが、肝腎の若い者が一人もおりませんので、
偶の雪だもんでございますから、御客様が皆な御船で御出掛けなさいまして、あいにく出払ってしまいました」
侍「ハァそれは困ったな、二階で何か申している者はいかんかえ」
亭「あれはいけません。恐ろしく欲張った野郎でございますから、万一御客様に失礼でもありましてはなりませんから…」
侍「イヤ欲張った奴は欲張ったようにして使ったら、また動かん事もあるまい。ちょっと一つ尋ねて貰いたいな」
亭「ヘエ、しかし失礼でもありますといけませんが
宜しゅうございますか」
侍「よいよ。こういう場合だから、少々の無礼位は仔細ない。尋ねて貰いたい」
亭「畏まりましたし…オイ熊公/\」
熊「ヘエー…アヽ
厭だ/\、火箱を抱えて一寝入り、
暖たかく寝たかと思うと、起こされる。これにつけても船頭は
辛え、早く親方になれば、こういう時には
緩くりと寝られる、それには金が沢山欲しい。世の中はなんでも金がなけりゃァいかねえ、アヽ金が欲しい」
亭「なにをグツグツ言ってやがるんだ。どうだ深川まで御客様があるが、一ぱい
往かねえか」
熊「
厭だ/\、深川まで行ったって幾らにもなりゃァしねえ。こいつァ
身体が悪いと言って断るに限る、…親方ァ…」
亭「なんだ」
熊「どうもいけませんよ、この雪の
故で、少し
疝気が起こったと見えて、腰がメリ/\
剥がれそうに痛くって、下ッ腹が突っ張って、
酷く肩が張って
艪に
捉まっても思うように仕事が出来ねえと思うんで」
亭「ウーム…どうも、御気の毒様でございますが、やはり雪のために
身体をやられたんでございましょう。どうも病人では
御供が出来
兼ねます」
侍「困ったな。
外に船頭はあるまいか、
平常と違い、こういう雪の
夜であるから、
酒代は多分に取らせるがどうだ」
熊「待ちなよ。
酒代は多分に取らせると言う事を聞くと、
迂闊こりゃァ断れねえぞ。…親方ァ…」
亭「なんだ」
熊「アノなんでございますよ。若い者は
外におりませんか」
亭「いねえから今、気を
揉んでるんだ。どうだお客様が御祝儀を沢山下さると
仰るが、我慢をして行かねえか」
熊「そうですなァ。そりゃァナニ我慢すりゃァ行かれねえ事はありませんが、
阿弥陀も
金で光る世の中、
魚心あれば
水心…」
亭「なにを言ってるんだ。失礼なことを言うな、御客様を前に置いて…、そんなら一つ我慢して行ってくんねえ」
熊「宜しゅうございます。行きましょう」
と熊公
梯子を降りて来ました。
侍「イヤ若い者、
身体の悪い所を気の毒だな。
酒代は多分に遣わすからやってくれ」
熊「エヽ
酒代という声を聞きまして、腰の痛えのも何も忘れてしまいました。ナーニ造作ありません」
侍「成程正直な男だ。何分頼む」
熊「宜しゅうございます。今
支度をしますから、少しお待ち下さいまし」
やがて船の支度が出来る。
熊「ヘエどうもお待ち遠様でございました。どうぞお乗んなすって。…じゃァ
姐さん、提灯をお頼み申します。、…お嬢さん、
木履じゃァ
歩板が危のうございます。下が凍っているから
上辷りがしていけません。私の後ろからちょっと
背負さるように肩へ
御手をお掛けなさいまし。私が、こう前から肩へ手を廻して
和女の御手を取ってお連れ申せば、大丈夫でございます。大層お軟らかい御手でございますな。
白粉だの
麝香だの
種々良い匂いが致しますな」
女房「なにを言ってるんだね熊公、御客様に
疎匆があるといけないよ」
熊「姐さん小言を言いッこなしだ。済まねえが提灯をモウ
些とこっちへ寄せておくんなさい。そう鼻ッ先へ出されちゃァ前ばかり光って
足許が利かねえ。モウ、少しこっちへ…ヘエ、宜しゅうございます。サァ中へお入んなさいまし、オットット、お
頭をお気を着けなさいまし、お
髪を
打付けて結構なお
簪を折るといけません。どうもこの御素人衆が屋根船へ御乗んなさるのは容易じゃァございません。堀の
芸妓衆なぞは屋根船へ
巧く乗れるようにならなけりゃァ一人前とは言われません。股の所へポンと着物を挟んで、屋根の
小縁へ手を掛けて、足の方からツウーと
入るんでございますが、なかなかそれが馴れねえうちは
巧くいきません。立ってお入んなさるとお
頭が危のうございますから、御気を着けなさいまし。…ヘエ旦那、お待ち遠様、お召しなさいまし…そこに
火箱がございますから、お手をお
焙んなすって…姐さん帰って来たら済みませんが、親方に
内所で二合ばかり…」
女「アイヨ。じゃァお気を着け申して…」
纜を解く、なんの足しにもなりませんが、女房が
舳の所へ手を掛けて
女「
左様なら、御機嫌宜しゅう」
と突き出す奴が船宿の御世辞だそうで船頭が一本張る途端に、チャ/\チャ/\チャ/\、堀を出て隅田川へ掛かり、
早緒を掛けて
艪と変わりました。雪は
益々強く真綿を
千切って投げるよう、恐ろしい吹雪でございます。
熊「アヽ寒い/\。旦那、
甚い雪でございますな。お寒いじゃァございませんか」
侍「寒いのう。この
塩梅ではまだ
明日も降り続くかな」
熊「左様でございますね。恐ろしい大雪になりました。…アヽ
厭だ/\、こんな雪の降る晩に稼業とは言いながら、こうしてマァ、ノソ/\船を漕いで行くなァ気が利ねえ訳だ。もっともこうして漕ぐ奴があるから、乗る客もあるんだ。乗る客があるから漕ぐ奴もあるんだ。箱根山
駕籠に乗る人担ぐ人、そのまた
草鞋を
造る人、上を見りゃァ
方途が
無え、下を見りゃァ
際限が無え。エー旦那え、火箱が
微温くなりましたら、そこに火箸がございますから、どうかお直しなすって下さいまし、火は十分
埋けてありますから、それは提灯が暗くなりましたら下からトン/\とヤンワリお叩きなさると心が落ちて明るくなります。強く叩くと消えますからお静かにどうぞ…」
侍「手数が掛かるな」
熊「ハテナ、
串戯じゃァねえぜ。知ってるのか知らねえのか。
河岸を離れたら
直ぐに
酒代をくれりゃァ仕事に張り合いがあるが、まだ
何とも言わねえ所を見るとくれねえのかな。くれなけりゃァ疝気が起こるぞ。渡る物が渡らねえうちは何だか気掛かりだ。ちょっと催促をして見ようかしら、女は芝居で疲れたか、スヤ/\寝てしまったが、
訝しいなァ。野郎が
長え物を差しやァがって、女の顔を穴の明く程、見ていやがる。
先刻家へ来た時に妹だと言ったが、妹ならなにも珍しそうに、顔を
覗き込んで見ているにも及ぶめえが、こりゃァ妹じゃァねえ。こん畜生、
巫山戯ちゃァいけねえ。そんならそのように渡す物をズン/\渡しゃァ
盲目にでも
聾にでもなってやるが、くれる物をくれねえで
串戯じゃァねえ…、女が起きてりゃァなんとか言うに違えねえ。
貴所早く船頭に祝儀をお
遣り遊ばせ。こういう雪の晩だから、多分に御遣わし遊ばせと、言うか言わねえか、そりゃァ分からねえが、大方言うだろうと思うんだ。アヽ
厭だ/\。一番船を揺すぶってやれ畜生、ウーン、ドッコイショ、ヨーイトショ、ウーン…」
侍「船頭」
熊「ヘエ」
侍「大分揺れるな」
熊「ヘエ揺れます。出るものが出ねえと、
何日でもこの位揺れます。これでも出なけりゃァ大廻しに廻します」
侍「
痴けた事を言うな。マァ疲れたであろうから一ぷくやれ」
熊「ヘエ」
侍「イヤサ、疲れたであろうから一ぷくやれ」
熊「有難う存じます。御催促申す訳じゃァございませんが、出る物が出てしまわないうちは、
強勢仕事が
仕憎いもんでげすから…」
侍「なにを…」
熊「ヘエ
御酒代が出るんでございましょう」
侍「馬鹿を言え。これで煙草を
喫めと言ったのだ」
熊「ヘエ!左様でございますか。私は煙草は
手銭では
喫めません。その代わり
御先煙草なら幾らでも
戴きます」
侍「ウム、
其方は随分欲張った奴だな」
熊「ヘエ、欲の方じゃァ引けは取りません。
山谷堀から
吾妻橋へ掛けて欲の
熊蔵と言えば、知らねえ者はございません」
侍「ウム、その欲の深い所を見込んで、頼みがあるが承知してくれまいか」
熊「ヘエ、金儲けと来たらどんな事でもやります」
侍「
他ではないがな。実はこの婦人は
私の妹ではない」
熊「そうでございましょう。どうも
貴所の御兄弟としては失礼ながらあまり御様子が違い過ぎると思いました。お妹さんでなければ、お楽しみでございましょう」
侍「イヤそうでもない」
熊「それじゃァなんでございます」
侍「この婦人は、ある
大家の娘だが、店の者と不義を働き、その男が
暇になった所から男を慕って親の金を持って
家を出た。その途中
花川戸で雪のために、
癪を起こし、悩んでいる所を介抱して遣わそうと、親切ごかしに
懐へ手を入れて様子を見ると、確かに七八十両足らずの金を持っている。途中で殺してしまおうと思ったが、往来の者が妨げになって仕事が出来ん。いささか、その男に当たりがあるから、遇わしてやろうと、実は
欺かってこの船で連れ出した。どうせ親不孝をしたこんな奴は殺して金を取った方がいい。ちょうど疲れて眠っているを幸い、船の中で殺してしまおうと思うんだ。サァ大した金儲けだ。人殺しの手伝いをしろ」
熊「ジョ/\
串戯言っちゃァいけません。ソヽそんな
酷え事が出来るもんじゃァありません」
侍「それでも
汝は最前二階で金が欲しい/\と言っていたではないか」
熊「そりゃァ旦那、金は欲しうございますが、人殺しをして取ろうなぞという、そんな
太え
了簡はございません。どうぞ
真っ
平御免なすって」
侍「
厭だと言うのか」
熊「ヘエ」
侍「厭なら厭でいい。しかし
武士が大事を打ち明けた以上は、後日の妨げ、是非に及ばん、
汝から先へ
打った切るから覚悟をしろ」
熊「ジョ/\
串戯言っちゃァいけません。じゃァ手伝わなけりゃァ私が切られるんで…」
侍「
如何にも」
熊「驚いたなァ。こっちが殺される位なら、
先方が殺されて、こっちは金を貰った方が割り事だ、じゃァ旦那やりましょう。やりますけれどもこういう事は約束が肝腎だから伺いますが、全体幾らおくんなさいます」
侍「ウム
流石欲深の
其方、ガタ/\震えながら
値を
極めるのは感心、骨折り
酒代両様くるんで二両もやろうか」
熊「
巫山戯ちゃァいけません。旦那は言う事は
大束だが、する事は
吝ったれだね。イケッ太くッて
図太しいと言うのはお前さんの事だ。誰が二両ばかりの目腐れ金で笠の台の飛ぶような、そんな危ねえ仕事がやれるものか、面白くもねえ、マゴ/\しやがると川ン中へ飛び込んで、船を
顛覆すからそう思え」
侍「コレ馬鹿な真似をするな。船を
顛覆されて
堪るものか。それでは
其方欲しいだけ
遣る」
熊「
当然よ。四分六とか山分けとかいうなら危ねえ仕事もするが、僅かの金なら御免蒙むる」
侍「ウム、成程
其方の言う所も
道理だ。しからば
斯様致そう、百両あったらば五十両遣わす。それならば言い分はあるまい。十分に働け」
熊「ヘエ宜しゅうございます」
侍「どうも
其方は随分欲張った奴だな」
熊「私も欲張ってるかァ知らねえが、お前さんの方がよっぽど
質が悪い。…シテ旦那どこでその仕事をするんで…」
侍「高尾の吊るし切り、この船の中でやるつもりだ」
熊「そりゃァ旦那いけません。船を汚されでもしたらどうする事も出来ねえ それよりゃァ両国の
橋間、一ツ目の中洲の所へ船を着けますから、
彼所でおやんなさいまし」
侍「ウム、
好いところへ気が着いた。やれ…」
熊「畏まりました。こうなりゃァ欲と二人連れでやっつけます」
と、それからセッセと両国の橋間中洲の所へ船を漕ぎ付けて来る。雪は
益々烈しく、さしもに広い大川も、
他には
一艘も出ておりません。やがてのこと
艪は
水棹と変わりまして
熊「旦那、先へ上がってくんなさいまし」
侍「よしッ」
袴の
股立を取り上げ、
船首端へ立ち上ったから
熊「ヤァ旦那、そこへ立っちゃァ
舵が取りにくいから、早く上がっておくんなさい」
侍「ウムよしッ」
と言うと、
船首からポンと向こうへ飛び移ると、泥深い沼の事だから
堪りません。足がズブ/\入ってしまって、抜こうと
悶くとなお深く入る。これはといううちにワーッと河岸の方で人声、何事が始まったかと、侍が向こうを見る
間に熊蔵が
水棹を突っ張ったから船は
忽ち十
間ばかり川中へ出たかと思うと、また
艪に変わって腕に
撚りを掛け、セッセと漕ぎ出した。
漸々の事で中洲へ上がった侍、ヒョイと見ると船は遥か向こうへ行く。
侍「コレ船頭、船をどこへ持って行くのだ」
熊「どこへ持って行こうと、大きに御世話だ。俺の船を俺が漕ぐんだ。
態ァ見やがれ、間抜けめえ。慌てゝ飛び上がりゃァがって
好い気味だ。これから段々
汐が上がって来るから、浮くとも沈むとも流れるとも勝手にしろ、
先刻俺が川へ飛び込んで船を
顛覆すと言ったら、顔色を変えて驚きゃァがったのは泳ぎを知らねえんだろう。土左衛門になっちまえ、居残り侍、島流し、
好い気味だ、
態ァ見ろ」
侍「コレ船頭、船を戻せ、
不埒な奴だ」
と侍は
歯噛みをして怒ったがどうする事も出来ない。中州へ突っ立っているうちに、頭から雪が降り積もって、
忽ち真っ白になってしまった。
酷い目に遭えば遭うものでございます。こちらは侍を置きッ放しにして、セッセと船を漕いで
間部河岸へ着けまして、娘を起こし、お
宅はと聞くと
本町だと言うから、
熊「親不孝をなすっちゃァいけません。すんでの事に
和女は、あの侍に殺される所でございました。この雪の中を
和女一人じゃ帰られません。
私がお送り申しましょう」
と
家へ連れて来ると、
流石は
御大家、一人娘がいなくなったと言うので、親類縁者出入りの者が大勢集まって、八方へ人を出して、
行衛を
探ねております所へ送り込まれましたので、
両親の喜びはこの上もございません。
父「有難う存じます。番頭どん、このお方が娘を連れて来て下すったのだからよくお礼を申しておくれ、イヤどうも飛んだ御厄介になりまして、有難う存じます。どうも親不孝な奴で」
熊「どうぞ旦那、御小言を
仰る事もごさいませうが、今晩の所は何も仰らねえで下さいまし。
彼是仰られると、私か骨を折ってお連れ申したのが何にもなりません。またお嬢様が
軽挙に駈け出すような事があるといけませんから、どうぞ私に免じて何も仰いませんように願います」
父「エーモウ
貴郎のお顔を立てまして、なんにも申しません。婆さんや、この方が娘を連れて来て下すった。よくお礼を言いなさい」
母「オヤマァどうも有難う存じます。なんという不孝者でございましょうか。ちょっとお前顔をお見せ。オヤ/\
厭だ、二三日
家にいない間に、大層お前鼻の頭が赤くなって、頭が禿げたね」
父「婆さん
寝耄ちゃァいかねえ、そりゃァ番頭だ」
母「オヤ/\そうですか、マァお前なんという心得違いだえ」
熊「どうぞ
貴女御小言
を仰いませんで…」
母「イエ小言は申しません。初めてお目に掛かった方に、こんな事を申すじゃァございませんが、一人娘だもんでございますから、ツイ我が
侭に育ちまして、飛んだ事を
仕出来しました。この娘ではモウ随分苦労を致しました。小さい時分に
乳放れが悪うございまして、竹内先生に
診て
戴くと、この娘は乳放しが肝腎だ。それに、少し
癆症の
気があるようだから、気を晴らすことをしなければいけないと申されまして、
御師匠さんへ上げて踊りを習わせました所が、大層素性がようございまして、忘れも致しません。
八歳の時でございました。両国の中村屋の
温習いに参りまして、
此娘が
山帰りを踊りました。その時の踊りは、
真正に
貴郎に御覧に入れとうございましたよ。
縮緬の衣裳を着けて棒を担いでチャ/\チャ/\チャンと踊りました時の
可愛らしかった事と言ったら
真正にございませんでしたよ。親の口からこう申しては
可笑しゅうございますが、大層評判が
好くって、まるで人形のようだ、こういう
娘御を持った親御さんの顔が見たいと申されました時、私はあまり嬉しいので我を忘れてこの娘の母は私でございますと、舞台へ
這い上がりまして、どっと笑われましたが、親馬鹿でございますね。やっと育て上げて
妙齢になったと思うと、親の言う事を
肯かないで、家出などを致して、誠に親不孝の奴でございます。親の
罰でそういう悪い侍に捕まって、既に
危うい所を日頃信心をする
御蔭で
貴郎見たような御方があって助けて下さいましたので、なんとも御礼の申しようがございません。実に子供は甘やかすも際限の無い者でございます」
父「オイ婆さん、
不絶にそうベラ/\
喋舌んなさるな。あまりお前が
喋舌るんで耳がガン/\して来た」
母「私も、こめかめが痛くなりました」
父「
箆棒めえ。こめかめが痛くなるまで
喋舌る奴もねえもんだ。オイちょっと俺の手箱を持って来な…誠に
貴郎有難う存じました。なんとも御礼の申しようがございません。いずれまた
明日改めて御宅まで御礼に出ますが…」
熊「どう致しまして、飛んでもない事、なにも御礼をお貰い申そうと思って事をしたんじゃァございません。決して御出でには及びません」
父「イエそうでございません。いずれ御礼には出ますが、つきまして、これは誠に失礼ながら、全体ここで
一口差し上げたいのでございますが、この通り取り込みの中で、召し上がるも、かえって御迷惑でございましょうから、どうぞいずれかで一口
飲っていらしって下さいまし」
熊「どうもこれは困りましたな。ヘエ、そうでございますか、それじゃァせっかくでげすから、お貰い申します。番頭さん、
明日旦那が礼に来ると
仰るが、どうかそれは
止めておくんなさいまし。お嬢さんをあの侍が殺した所で
下郎は口の
善悪なきものと
私も
殺れてしまえば、それッきり。こうして助かったのはお互い様に
僥倖なんで、改まって、御礼になんぞに来られちゃァ困りますから、どうぞ
御止めなすって…」
番「どうも恐れ入ります」
熊「じゃァこの金は
戴きます」
と貰った金を押し戴いて
懐へ入れ、外へ出て開いて見ると中に百両あった。
熊「アヽ有難え、こりゃァ百両、こいつァ
豪儀だ、ウーン…」
あまり
唸り声が
甚いので、自分で目を覚まして見ると、やっぱり船宿の二階に寝ていて、両手を固く握っていました。