将棋の殿様(しょうぎのとのさま) 三代目三遊亭小圓朝  当今では華族様の御公達《ごきんだち》が大道《だいどう》で鮓《すし》や天麩羅《てんぷら》の立ち食いをなさるというくらい、世の中が変わって参りましたから大した間違いはございませんが、昔の御大名には随分|可笑《おか》しなお話がございました。もちろん生まれ立ちから多くの御家来に侍《かしず》かれ、何の御苦労もなく、ボーッとして、お育ちになったから、下情《げじょう》の事をご存じなかった。ある殿様がお物見から市中の様子を見て在《いら》しったが、 殿「アヽコレ/\藤太夫《とうだゆう》、町人というものはさてさて憐《あわ》れなものであるな」 藤「何ぞお目にお留まりになりましたか」 殿「見ろ、職人共が煙草《たばこ》を喫《の》んでおる」 藤「職人でも煙草を喫《の》みます」 殿「喫《の》むのは宜《よ》いが一ぷくの煙草を二人で喫《の》んでおる」  火を貸しているのを御覧になったのでございます。今から考えると莫迦《ばか》々々しい様《よう》でございますが、これらは御大名の心意気で、其処《そこ》にまた味わいがあります。つまり世間見ずだから随分無理な事を言う、それを仰せ御道理《ごもっとも》と少しも反抗の出来ないのが君臣《くんしん》の礼としてありました。ある時御親戚へお客にお出での節、御馳走にお蕎麦《そば》が出ました。何も蕎麦が美味《うま》いから差し上げようというのではございません。職人を庭前《ていぜん》へ入れまして、蕎麦を打つ処《ところ》を御覧に入れるのが一つのご馳走でございます。殿様のことで、蕎麦というものは木にでも生《な》っている物か、心天《ところてん》のようにニュウと突き出すもののように思し召して在《いら》っしゃる。それを蕎麦粉から打ちまして麺棒《めんぼう》で展《の》して庖丁《ほうちょう》を入れて、釜《ゆ》で上げて前へ出したから驚きました。成程《なるほど》蕎麦というものはこんな事をして造るものかと、感心をして、あれは何《なん》というものだ、木鉢《きはち》でございますとか、これは麺棒《めんぼう》と申しますとか、種々《いろいろ》皆|側《そば》で申し上げて、蕎麦の製法を概《あら》かた覚えになり、お屋敷へお帰りになると、其処《そこ》が大名でどうか御自分で蕎麦を製《こしら》えてみたくってなりません。 殿「コレ金弥《きんや》々々」 金「ハヽッ」 殿「どうじゃ。皆の者は蕎麦は好きか」 金「ハッ、暫《しばら》く……近藤、吉田、どうだえ、御前がお尋ねだ。皆《みん》な蕎麦が好きかと仰《おっしゃ》るが、貴公《きこう》はどうだ」 近「大好物」 金「お手前は」 吉「結構」 金「皆好きだな……エヽ、恐れながら申し上げます。皆、大好物にございます」 殿「好きか。しからば一同へ蕎麦を振る舞い遣《つか》わす」 金「ハヽッ、有り難い事で。どうだえ。お蕎麦のお振る舞いだ。更科か蘭麺《らんめん》か、定めし結構の蕎麦屋へ御注文になる事であろう」 殿「コレ/\自身打って遣《つか》わすぞ」 金「ヘエー、御前が御蕎麦を……」 殿「ウム、製《せい》する事は疾《と》くより存じておる。控えておれ……蕎麦粉を持って参れ」  鶴の一声、かねて内々《ないない》御申しつけになっていたものと見えて、直《す》ぐにお坊主衆が蕎麦粉を叺《かます》で担ぎ込んで参りました。 殿「木鉢《きはち》を持て」  大きな木鉢が参ります。 殿「水が要る、沢山に水を入れて持って参れ」  荷担《にな》いもって御殿へ水を持ち込んで来ました。  やがて御前はお羽織をお脱ぎ遊ばし、襷十字《たすきじゅうじ》に綾《あや》どり、蕎麦粉を木鉢の中へ入れ、水を入れましてでっちます。これは見ていると訳がなさそうですが、やってみるとなかなか巧《うま》くいきません。まして分量が分からず、水が多過ぎて、また水を入れるという始末で、継《まま》ッ子が出来放題、大きな塊と小さな塊を山のように積み上げました。 殿「どうじゃ」 金「恐れ入りました」 殿「草臥《くたび》れたな。さて、これからどう致したっけの、オヽそうじゃ/\、これへ板を持て」 金「エヽ伺いまするが、板と申しますると、どういう板でございます」 殿「分からん奴じゃな。手前達は蕎麦を製《つく》るのを見た事はないか、この蕎麦の塊を展《の》す板じゃ。何かあるじゃろう、アヽコレ/\杉戸《すぎど》を外《はず》してこれへ直せ」 金「ハテ、お杉戸を外しまするか、それは些《ち》とお手荒いかと心得ますが、楯板《たていた》ではお間に合いますまいか」 殿「何でも宜《よ》い、早ういたせ」  ソコで軍用に使う楯板を持って来た。 殿「前へ直せ、アヽそれで宜しい。まずこの上へ載せて、それからじゃ。アヽそうだこれをコロ/\やるのじゃな。棒を持て棒を」 金「ハヽッ恐れながら棒と申しまするとどういう……」 殿「この蕎麦を、コロ/\やる棒じゃ。何でも宜《よ》いから早く持て、六尺棒《ろくしゃくぼう》を持て……」  麺棒《めんぼう》という事を忘れました。六尺棒という仰せだから、早速足軽部屋から真っ黒に汚れている、六尺棒を取り寄せる。 殿「オー宜《よ》し/\」  これでゴロ/\展《の》す。それから庖丁を入れる。庖丁だって本当に入りません。お庭に大釜があって、これに湯が沸いている。その中へ蕎麦を入れて、茹で上がるとズーッとお吸い物膳が出る。器《うつわ》はもちろん立派でございます。 ○「恐れ入ったな。どうも御器用な事で、御前が蕎麦をお打ちになるというのは」 △「イヤどうも驚きました。これが本当の御膳《ごぜん》蕎麦だろう」 ○「大きに左様……イヤこれは蕎麦が固まっている、蕎麦粉ばかりで継《つな》ぎがないようでござるな」 △「これこそ真の生蕎麦《きそば》でござろう。どうも、拙者蕎麦好きと言っては類のない位、頂戴致そう。恐れながら、申し上げます、御手作りのお蕎麦有り難く頂戴いたします」 殿「オヽ遠慮いたさず、充分に食べろ」 ○「有り難う存じます、頂きます」  箸を上げて挟もうとすると、蕎麦が固まっていて、箸に掛かりません。 ○「これは困ったな。どうも……」  隣を見ると、蕎麦の中へグイと箸を突っ込んで千切っているから、 ○「成程、こう千切って液汁《したじ》を付けるのかな……」  口へ入れると手垢の付いた六尺棒で拵《こしら》えたお蕎麦でございますから、イヤに塩気がある。中には生茹《なまゆ》での処《ところ》があって、粉が出る。ヒョイと向こうを見ると殿様がピタリと見張って在《いら》っしゃるから吐き出す訳にもゆかない。蕎麦のために失策《しくじ》ってはなりませんから、一生懸命に食べ終わりました、 ○「有り難く頂戴|仕《つかまつ》りました」 殿「アヽ遠慮いたさず、充分に食せ。コレ代わりを持て」 ○「イエモウ沢山頂戴仕りました」 殿「沢山という事はない。一ぱいでは可《い》かん。遠慮をするな」 ○「なかなか以《も》ちまして御遠慮は仕りません」 殿「イヤ大好物であると申しながら、一ぱいという事はない、代わりを食べろ」 ○「ヘエどうも恐れ入りました、しからば頂戴仕ります。エヽ恐れ入りましたがお液汁《したじ》のお代わりをどうか願います」  お汁《つゆ》は御膳所《ごぜんしょ》で出来ますので、誠に結構でございますから、汁《つゆ》の勢いで食べるので、アヽ奉公は辛いもの、どうしてもこの蕎麦を食べなければならんのかと腹の中で愚痴を溢《こぼ》しながら、口の処《ところ》まで持って来るとウンザリする。漸《ようよ》うの事で今一ぱい食べ終わったと思うと御前が見張って在《いら》しって、 殿「コレ/\あれにモウ無いようじゃ。代わりを持て代わりを持て」 坊「ヘエお代わりでございます」 ○「エヽ貴郎《あなた》そう無暗《むやみ》と明けては可《い》けません。手前充分満腹致しました。これを一つ頂けば大概沢山で、後からそうお明けなさるというのは何たら情けない事で……」  これが殿様のお耳に入ると、 殿「コレ/\情けないとは何だ。折角予が自ら造って振る舞い遣わすものを、情けないとは無礼千万、左様|我儘《わがまま》を申して食さんにおいては、手打ちにいたすぞ」  ご家来ハッと気が付いて、 ○「成程、手打ち蕎麦とはこれか……」  つまり御登城《ごとうじょう》の外《ほか》には別に御用がないから、御退屈のまゝ種々《いろいろ》遊び事を御考えになります。 殿「コリャ/\、家来共一同|揃《そろ》ったか」 ○「御機嫌宜しゅう」 殿「イヤどうも毎日、汝等《なんじら》から種々《いろいろ》話は聞いておるが、別段面白い事もない。どうじゃ、予が子供の頃将棋を差した事があるが、汝等将棋を差せるか」 ○「ヘエ、差せると申す程でもございませんが、ホンの駒を動かす事なら弁《わきま》えております」 殿「アヽそうか、しからば盤を持て」  早速結構な将棋盤がそれへ出る。 ○「しからば手前が御対手《おあいて》を仕《つかまつ》ります」 殿「アヽ汝《そち》は幾らかやれそうだな。サア/\対手《あいて》をしろ」 ○「なかなかお対手《あいて》などという訳には参りません。お稽古を願います」 殿「宜《よ》し/\、サア此方《これ》へ参れ……早く列《なら》べろ」 ○「エヽ手前の方は列《なら》びました」 殿「イヤ其方《そのほう》は列《なら》んだろうが、此方《このほう》がまだ列《なら》ばん」 ○「アヽ左様で」  相手の方まで列《なら》べさせられて御家来が、 ○「エヽ御上《おかみ》へ伺います」 殿「何じゃ」 ○「下様《しもさま》ではこの将棋を差します前に、先手後手を定《き》めまするために、金が歩かという事を致します。恐れながら斯様《かよう》に一人駒を握っておりまして金か歩かと尋ねまする、甲《こう》が金なら金と申します。其処《そこ》で恐れながらこれを投げてみまして、金が出れば甲が先手、歩がでれば乙の先手とこういう事に相成ります」 殿「ホヽウ先に出るのと、後に出るのと何《いづ》れが利益だ」 ○「それはもちろん先へ出ました方が利益でございます」 殿「左様か、しからば予は先手を取る」 ○「アヽお先へ遊ばしますか」 殿「予が先へ出る。この歩を突くのが宜《よ》いという事を記憶しておるがな。この角《かく》という物はイザ敵地へ乗り込んで成ってしまうと、縦横に歩けるから働きを致すものだが、我が陣地にあっては誠に役に立たん奴だ。それ故|身体《からだ》を自由にしてやるために、角道《かくみち》から出るのが将棋の方だという事を聞いたがどうじゃな」 ○「御意にございます。碁には碁の定石《じょうせき》のあります如く、将棋にもまたその法のあるもの、角道から出ますのは将棋の法に適《かな》っておるように承わりおります。なかなか御名手《ごめいしゅ》かと存じます」 殿「ウム、左様か」 ○「手前は、少々工夫を変えまして、此方《こちら》から出ます事に致します」 殿「左様か、しからば予はこう出る」 ○「ヘエ……どうもなかなかお上《かみ》はお手順が極《き》まって在《い》らっしゃるので、大きに苦しみます。しからば此方《こちら》の金が上がります事に仕《つかまつ》ります。ヘエ」 殿「ウム成程、其方《そち》はなかなか能《よ》くやるな」 ○「恐れ入ります」 殿「コレ/\そう其方《そち》のように一々お辞儀をするな」 ○「ヘエ恐れ入ります」 殿「また頭を下げる。何もそう恐れ入る事はない。予を敵と思え。予がこう突いて出る、サア早くやれ/\」 ○「ハヽッ、何時《いつ》の間に君《きみ》には斯《か》く御上達遊ばしましたか、なかなかお出来でございますな」 殿「イヤ褒《ほ》めるな。敵に向かって追従《ついしょう》を申す奴があるか……アヽコレ/\その歩を取ってはいかん」 ○「ヘエッ」 殿「その歩を取ってはいかんよ」 ○「エヽ只今|上《かみ》にはこれをお突きになりました。それ故手前がこれを取ります。隔番《かくばん》に」 殿「隔番《かくばん》に遣《や》るくらいは、汝《そち》に教わらんでも存じておる」 ○「只今|上《かみ》がこの歩をお突きになりましたから、それ故手前がこれを頂戴致します」 殿「イヤその歩を取られては、此方《このほう》が不都合だ」 ○「不都合と仰《おお》せられましても、恐れながら手前の手で」 殿「其方《そち》の手には違いないが、当方において不都合があるから取ってはならんと申すに分からんか。主人の不都合を顧《かえり》みず、この歩を取るというは不忠《ふちゅう》ではないか。強《た》って言葉に背くか」 ○「イエ御立腹では恐れ入ります」 殿「その歩を取らずに他《ほか》の手をいたせ。怪《け》しからん奴じゃ」 ○「ハヽッ、イヤ御同役お笑いなさるな」 殿「サア早く致せ」 ○「御言葉に背くと仰せられましては、甚だ恐れ入りますから、仰せの歩を取る事は暫《しばら》く思い留まりまして……他の手がございません。止むを得ず端の方の歩を突く事に致します。どうかこれにて御勘弁を願います」 殿「確《しか》と左様か。それなら、此方《このほう》においてこの歩を取ると甚だ都合が宜しい」 ○「ハヽッ、御道理《ごもっとも》」 殿「分からん事を申さずに早く致せ。下手《へた》の考え休むに似たりという事があるが、戦争《いくさ》を致すにそう一々首を傾けて考えておっては勝つ事が出来んの。これはいかんな。アヽコレ控えろ、その飛車は何時《いつ》の間にか此方《このほう》の陣中へ乗り込み、剰《あまつ》さえこの辺りの駒を皆な取ってしまうというは怪《け》しからん奴だ。其方《そのほう》は主人の言葉を背くか」 ○「恐れ入ります。決してお言葉を背きは致しませんが、この飛車なる者が陣中へ乗り込みますまでには幾許《いくばく》の艱苦《かんく》を嘗《な》め、漸《ようや》くこれまで参りましたもの故、何卒《なにとぞ》これまでの艱苦《かんく》を思し召し、飛車だけは御憐憫《ごれんびん》の御沙汰《ごさた》をもちまして、そのままお差し置きを願います」 殿「其方《そのほう》如何《いか》に嘆願に及ぶといえども、この飛車が我が順中へ乗り込んで参ったのは如何にも怪《け》しからん奴だ。しかしながらせっかく其方《そのほう》の嘆願致すものであるから……何とか趣意を見つけ出して遣《つか》わす。待て/\暫時《ざんじ》差し控えおれ。こうっと……有った/\趣意を授けて遣わす、此処《ここ》に蹲《うずくま》っておる此方《このほう》の飛車を其方《そち》の順中へ成り込ませれば、許して遣わすが、その代わり其方《そのほう》の飛車は当分動かしてはならんぞ」 ○「ハヽッ、恐れながら手前の飛車をお助け下しおかれるために、手前陣中に上《かみ》の飛車がお成り込みに相成りまする事は、承知致しましたが、しかし途中に金と銀とがございますのを飛び越して入《い》らせれれましては甚だ迷惑|仕《つかまつ》ります」 殿「分からん奴だな。其方《そち》の飛車を助けるがために、此方《このほう》の飛車を成り込ましたのじゃ、しかるに何ぞや通り道に金銀があって、飛び越したとて宜《よ》いではないか」 ○「お飛び越しと申すは、飛び将棋の外《ほか》はないかと存じます」 殿「将棋のほうにないといたしてみれば、此方《このほう》の飛車も其方《そちら》へ行く事が出来ん。行く事が出来んければ、其方《そのほう》の飛車も助ける訳にはならん。もし飛び越す事が出来んなら、この金銀は目障《めざわ》りに依って取り払い申し付ける、早速取り払え」 ○「ハヽッ……御同役お笑いなさるな。しからば斯様《かよう》取り払います」 殿「コレ/\死体は此の方へ引き渡せ。其方《そち》の願い通り助けてやる、代わりに此方《このほう》の飛車は其方《そちら》へ参るぞ」 ○「恐れ入りました」 殿「どうじゃ負けたか、其方《そち》は下手《へた》じゃな。コレ入れ代わって参れ/\」  サアそれから何人かの御近臣《ごきんしん》が入れ代わり立ち代わり、出ましたが皆《み》な取り払い、お飛び越し、差し控えを申し付けられ、甚だしきはお上《かみ》が二手《ふたて》くらい遊ばしますからどんな先生だってこれじゃァ負けます。碁敵は憎さも憎し懐かしゝで総《すべ》て勝負事は負け勝ちの中《うち》にお互いに楽しみを致すものでございますが、これは何時《いつ》でも殿様が勝って、家来が負けてお辞儀をすると極《き》まっているから面白くない。御近臣の者が毎日お対手《あいて》をいたしモウ飽きるだろうと思うとなかなか飽きない、御飯を召し上がると御休息もなさらずに直《す》ぐに始める。御家来方もやり切れないから、なるたけ早く負ける事ばかり考えております。 ○「お早う」 △「これは大層お早く、御苦労千万。上《かみ》は」 ○「モウ疾《と》うにお目覚めになったようで、只今|一寸《ちょっと》覗《のぞ》いてみました処《ところ》が、将棋盤がモウ出ております」 △「それは/\。最早《もはや》大概お飽きになりそうなものではござらぬか。そうも困ったもので、またお対手《あいて》仰せ付けられるかな」 ○「イヤこれもよんどころござらん。実は拙者、昨夜親父に相談を致した処《ところ》、それはどうも致し方がないから、御機嫌を取り結んだが宜《よ》い。それは御奉公の道であると言われてみると、それに相違ござらん」 △「如何《いか》さま是非《ぜひ》に及ばん。どうでござる、モウお出ましになろうか」 ○「イヤまだチト早うござろう」 殿「コリャ/\次《つぎ》の間《ま》に声が致すが、一同見えたか」 一同「ハヽッ、御機嫌お宜しゅう……」 殿「サア皆の者参れ」 △「ソレ、お飛び越しお取り払いのお呼び込みだ」 殿「コレ/\其方《そのほう》共はどうも下手《へた》でいかん。何時《いつ》やっても此方《このほう》が勝つと極《き》まっておって面白うない。負ければ辞儀さえすれば宜《よ》いと心得ておるのに依って、何時《いつ》までも上達致さん。奨励のため一工夫致した。此処《ここ》へ鉄扇《てっせん》を賭《か》け置いて、負けたる者はこの扇で頭を打つ事に極《き》めたから左様心得ろ。勝負の事だから、其方《そち》が勝ったら遠慮なく充分に予を打て、依怙《えこ》の沙汰《さた》はない。どうじゃ」 △「しからば幸いにして、我々が勝ちを得ましたる節は、恐れながら上《かみ》の御頭《おつむり》を打ち奉りましてもお叱りはございませんか」 殿「それが勝負であるから、腹蔵《ふくぞう》なく打て」 △「ハッ一統《いっとう》へ只今申し聞けまする間、暫《しばら》く御猶予を願います……同役、今聞く通りの訳だから宜《よ》いか」 ○「イヤいかん、到底勝てる訳がない」 △「今日《こんにち》我々が勝てば彼《か》の鉄扇《てっせん》を拝借して、御上《おかみ》を打つんだが、ナニ真正《ほんとう》にやれば御上などは赤子の手を捻《ねじ》るより猶《なお》易いことじゃ」 ○「それがなかなかそうはいかんよ、お取り払い、お飛び越し、差し控えがあった日には到底勝てん。鉄扇《てっせん》を賭ける事になっても、やはりお取り払いやお飛び越しは依然としてあるに違いない」 △「イヤそれはなかろう、例《いつ》もと違い現在|腹蔵《ふくぞう》なく打てと仰《おっしゃ》るのだから」 ○「そうかな。それではとにかく伺ってみよう……エヽ恐れながら伺いますが、一統の者へ励みのために鉄扇《てっせん》をお賭け遊ばす事を申し聞け、一統承知|仕《つかまつ》りましたが、それにつきまして、少々前に伺いおきたきは、いよいよ鉄扇《てっせん》をお賭けになりましてもやはり、例のお取り払いお飛び越し差し控えを仰せ聞けられるような事がございましょうか、念のために伺い奉ります」 殿「それは念の入った尋ねだが、盤に向かってみなければ分からん。不都合な時には取り払い、飛び越しもあるものと存ぜい」 ○「オヤ/\、各々《おのおの》やはりお飛び越しがありますと。どうぞ、貴殿から先へお対手《あいて》に」 △「イエどうぞ貴公から、御遠慮には及ばん」 ○「頭を打たれるに誰も遠慮する者はない。しからば拙者お先へ、宜しい/\、参ろう」  ブル/\もので盤に向かって手を出すと、無い処《どころ》ではありません。常より烈《はげ》しい、忽《たちま》ち勝負が付いて、 殿「どうじゃ」 ○「恐れ入りました」 殿「頭を持ち参れ」 ○「ヘエ……恐れながらお手柔らかに願いとう存じまする」 殿「イヤそれはいかん。甚《ひど》く打たれゝば、これでは堪《たま》らんと存ずる所から、上達致すのじゃ。このくらいなら我慢がし宜《よ》いというのでは上手《じょうず》にはなれんに依って、充分に打つから左様心得ろ」  と例の鉄扇《てっせん》で頭をポカン、 殿「どうじゃ……代わって参れ」  剣術でも遣《や》るような塩梅、出ても/\お取り払いお飛び越しをして、ポカ/\頭を打たれるから、それが幾日《いくにち》も続きますので、御近臣《ごきんしん》やりきれません。 ○「イヤ/\どうも堪らんな……オヤ貴公は珍しいな。瘤《こぶ》が一つもございませんが、如何《いかが》なされた」 ×「ナニ、拙者|瘤《こぶ》が一つもないのではござらん。余り沢山になり過ぎて、一面に地ぶくれが致したのだ、お察し下さい。昨夜お夜詰めでお対手《あいて》仰せ付けられ、誰も外《ほか》に交代がないので、多分に打たれ、斯《か》くの如く次第」 ○「イヤそれはどうもお気の毒千万、道理でお顔の色が悪いと思った」 ×「例《いつ》もとは気分も異なり、事に依ったら瘤衝心《こぶしょうしん》かも知れん」  と各自《てんで》に愚痴を零《こぼ》している処《ところ》へ、何《いづ》れも御大名にも御意見番と申し、殿様の煙ったがるお爺さんが一人や二人あります。大久保|三太夫《さんだゆう》という人が、病気で引き籠っていましたが、この事を聞いて、これは捨て置けないというので、病気を押して出仕《しゅっし》いたし、次の間まで来てみると驚いた、御近臣の面々|何《いづ》れも瘤《こぶ》だらけで青くなっております。 三「ウム、各々《おのおの》方|大分《だいぶ》頭に瘤《こぶ》があるが、察する所|素面《すめん》素小手《すこて》の仕合《しあい》に及んだものであろう……ナニ将棋のお相手をして負けたる者は鉄扇《てっせん》にて頭を打たれる。ウーム将棋は武道|軍学《ぐんがく》算木《さんぎ》を以って割り出した畳の上の戦争だ。治《ち》にいて乱を忘れず、誠に結構な事をなさる。上《かみ》にも定めてお瘤《こぶ》が沢山お出来であろうな」 ○「ところがお上《かみ》においては一つもございません」 三「しからば、各々《おのおの》方が負ければ打たれ、上《かみ》は負けても打たれんという片手落ちの極《き》めか」 ○「イエそういう訳ではございません。お上《かみ》はなかなかお強くして、七日《なのか》八日《ようか》掛かって一人も勝つ事が出来ません」 三「イヤそれほどお上手《じょうず》の訳がない。上《かみ》未《いま》だ御幼少の砌《みぎり》、某《それがし》が一手《ひとて》二手《ふたて》、御教え申した事はあるが、左様に御上達はない筈《はず》だ」 △「イヤそれがどうも、我々が下手《へた》ゆえによんどころございません」 三「ウム余程《よほど》各々方は下手《へた》だと見えるな。しからば今日《こんにち》はこの三太夫《さんだゆう》が上《かみ》のお対手《あいて》を致し、鉄扇《てっせん》を拝借して多寡《たか》の知れたる上《かみ》のお手際、各々方の復讐《ふくしゅう》を致して進ぜる」 ○「イヤなかなかそうは参りません」 三「ナニ拙者きっと勝って御覧に入れる。エヽ恐れながら、上《かみ》には例《いつ》も御機嫌の体《てい》を拝し、恐悦至極に存じ奉ります」 殿「オウ爺《じい》見えたか。病気全快いたしたか」 三「ハッ、未《いま》だ全快は仕《つかまつ》りませんが、日々|御近臣《ごきんしん》見えましての話に、何か将棋のお催しがあるとの事」 殿「爺また意見か、将棋を致しては悪いか」 三「イエ悪いどころではございません。将棋のお慰みは誠に結構。何か鉄扇《てっせん》を間《あいだ》に賭けまして負かした者が打たれるとかいう、至極面白いお考え、しかるところ若侍《わかざむらい》共、何《いづ》れも瘤《こぶ》だらけでありまするに、上《かみ》お一人は一つもお瘤《こぶ》がございませんのは、余程《よほど》御上達と見受けます。つきまして斯《か》く申す三太夫、年寄りの冷や水には似たれど一番お対手《あいて》を致して、運|宜《よ》くばお上《かみ》のお頭《つむり》を打たんず心得にて罷《まか》り出《い》でました」 殿「イヤ三太夫、其方《そのほう》はいかん。年寄りと思うと不憫《ふびん》じゃに依って、此方《こちら》の腕が鈍る。若い者の方が宜《よ》い」 三「恐れながら手前年寄りではございますが自ら仇討《かたきう》ちを勤めましょうと名乗り掛けて出ました者、幼少の頃より袋竹刀《ふくろしない》で打ち固めたこの頭《つむり》、御柔弱《ごにゅうじゃく》のお腕にてお打ちになりましても、容易にこの薬鑵《やかん》は凹《へこ》みません。もしまた手前の頭を凹《へこ》ます程のお腕前にならせられゝば手前死しても武士の本懐、更に悔《くや》む処《ところ》はございません。御充分にこの頭《つむり》の砕けるほどお打ち下さい」 殿「しからば対手《あいて》を勤めるか、打つぞ」 三「委細承知|仕《つかまつ》りました。しかしながら万一手前勝ちを得ましたる節は恐れながら上《かみ》のお頭《つむり》を」 殿「オヽ約束じゃ、充分に打て」 三「お坊主衆、将棋盤をお取り出し下さい」 ○「ホラいよいよお取り払いが始まるぞ」 殿「イヤ其方《そのほう》は列《なら》べても、此方《このほう》が列《なら》んでおらん」 三「これは異な事を承るものかな。駒を列《なら》べるのは即ち陣を作るも同じ事。味方の陣を敵に列《なら》べさせるなどと言う、左様な事はござらん。御自身にお列《なら》べ遊ばせ」 殿「宜《よ》い/\しからば自身|列《なら》べる……サア宜《よ》いか、此方《このほう》が先手であるぞ」 三「もちろん|下手《へた》の方から先手と極《き》まっております」 殿「怪《け》しからん事を申すな……何時《いつ》も角の道から出ると極《き》まっておるのじゃ」 三「左様、下手《へた》は大概角の道から出るもの」 殿「一々|下手《へた》々々と言うな……ウム、なかなか其方《そのほう》は早いな」 三「左様で、下手《へた》の考え休むに似たりと申します。戦争を致すに考え/\致しておるような事ではなりません。その場に向かわば油断なく智恵を廻《めぐ》らし、機に臨《のぞ》み、変に応じなければなりません」 殿「如何《いか》にも其方《そのほう》の申す通りじゃ……コレコレ控えろ/\」 三「ハア」 殿「その右の手を一寸《ちょっと》放せ、その歩で桂馬を取ってはいかん」 三「ハッ」 ○「フヽヽヽヽ御同役、始まりましたよ」 △「いよいよこの次がお取り払い、その次がお飛び越しと極《き》まっている」 殿「三太夫その桂馬を取ってはいかん」 三「ヘエ……お上《かみ》のお手は左の金が、右の方へお上《のぼ》りになりましたから、桂馬の高《たか》上がりは歩の餌食という譬《たと》えの通りで、桂馬を取りました。お上《かみ》一人で差す将棋ではございませんから取りましても差し支えなきものと存じます」 殿「イヤそれはそうじゃろうが、その桂馬を取られては、此方《このほう》において不都合があるから申すもじゃ。其方《そのほう》は主人のためをも顧《かえり》みず強《た》って取るか」 三「これは近頃|怪《け》しからん事を承ります。敵の不為《ふため》、不都合は味方の幸い、敵が都合|好《よ》くば味方は全敗と極《き》まっております。既に斯くの如く盤面に対《むか》って互いに勝負を争う以上は、君臣の別はございません。即ち御前《ごぜん》を憎い敵と心得て、勝ちたる時はお上《かみ》のお頭《つむり》を……」 殿「イヤそれは心得おるが、此方《このほう》において困るに依って、取るなと申し付けるに主《しゅ》の言葉に背くか」 三「上《かみ》のお言葉を背くかと仰せられましては恐れ入りますが、拙者老衰いたせばとて、武士でござる。一旦取り掛けました物を敵の迷惑になるから差し控えるなとというのは、甚だ卑怯《ひきょう》でござる。たとい、お怒りに触れてお手討ちに相成っても、この桂馬を取らざるうちはこの座は立ちません。お上《かみ》の怒りを恐れて待つような諂《へつら》い武士は知らぬこと、真《しん》の武士《さむらい》は一歩も譲りません。これを真《しん》の戦争としてお考え遊ばせ。恐れながら歩は雑兵《ぞうひょう》、桂馬は馬廻り以上、一騎当千《いっきとうせん》の武士《さむらい》なり、その身分軽き足軽が君恩《くんおん》を重んじ、我が命を軽んじ、一騎当千の武士《さむらい》に立ち向かって、その首を上げるというは末頼もしき奴、天晴《あっぱ》れな奴にございますから、何《いづ》れ帰参《きさん》の上は士分《しぶん》にも取り立て遣わさんと存ずる程の者、それを敵の大将がとやかく申したからとて、その言葉に従えましょうか。将棋は素《もと》より軍学の稽古同様ものにて未《いま》だかつて左様な例《ためし》ある事を承ったことがございません」 殿「イヤ其方《そのほう》そう理屈を申すな。マア宜しい、その桂馬は取れ」 三「固《もと》より取るべきこの桂馬、取れと仰せがなくとも取ります……イヤこれは怪《け》しからん。飛車が歩を飛び越して参るとは」 殿「コレ/\此方《このほう》の飛車を投げ返すとは無礼であろう」 三「イヤ、無礼の御|咎《とが》めこそ恐れ入ります。お上《かみ》も御|両眼《りょうがん》明らかにいらせられますれば、これに金銀のある事を御存知でございましょう。金銀は境壁《きょうへき》を固くして王将の前後を護衛し、飛車は盤上重く用うる軍師でございます。いやしくも軍師たるものが、軍略《ぐんりゃく》に依らず、陣法《じんぽう》に従わず、卑怯未練にも道なき処《ところ》を飛び越して参るとは将棋の法にございません。軍法を弁《わきま》えざる者を切るは却《かえ》って刀の汚《けが》れと存じ、情けに依ってお返し申したが、御異存あらば此方《このほう》へお返し下さい。首を刎《は》ねて軍門に曝《さら》します」 殿「マア/\宜《よ》い……この通り道に金銀がいないと宜《よ》いのだが」 三「此方《こちら》の駒が上がって大手《おおて》になります」 殿「そうか、この駒は何時《いつ》の間に入っておったのか。宜しい、サア早くやれ」 三「一寸《ちょっと》承りおきますが、もし敵が城の塀際《へいぎわ》まで迫った節は如何《いかが》遊ばされますか。恐れながら敵勢塀際へ詰め寄るまで戦うは大将たるものゝ不念《ぶねん》であります。およそ心得ある大将は、三日も以前にその勝敗が分かっておるようでなければ一国一城の大将とは申されません。もっとも時としては、計略に依って敵の塀際まで押し寄せるのを機として打ち出し、全勝を得《う》る事もありますが、軍法懸け引きのなき勝ちなれば、真《しん》の勝ちとは申されません。策もなく、略もなく、安閑として敵の塀際まで詰め寄せるも知らず、空然《くうぜん》と控えておる者の如きは武士の風上にも置けぬ、馬鹿大将とも間抜け大将とも言うべきで、俗に言う雪隠詰《せっちんづ》めになるまで逃げ惑い、苦しんでおるとは実に馬鹿々々しき言語道断の事でござる」 殿「ナニ馬鹿大将とは怪《け》しからん……ソレこれへ参るぞ、ナヽナニ金がおると。ウーム負けたか」 三「負けたと仰せられるは何方《どちら》で」 殿「皮肉な事を申すな。此方《このほう》じゃ」 三「お上《かみ》が負けだと仰せられゝば三太夫勝ちを得ましたもので、まずこの頭も凹まずに済みました、しからばお約束通りお鉄扇《てっせん》をどうか拝借」 殿「サアこれだ」 三「ハヽア、これは手頃の結構な鉄扇でござる。エイッ/\」 殿「コレ/\そんなに気合を入れるな」 三「恐れながら手前壮年の折柄、一刀流《いっとうりゅう》の片手打ちが自慢で一人も争う者はなきほどでございましたが、近年老衰致し、力の脱《ぬ》けましたために痛さの利きません処《ところ》は幾重にも御容赦を……」 殿「そんな事は詫《わ》びんでも宜《よ》い」 三「サア各々《おのおの》方御見物なさい。武士はこの通りでござる」  と総身《そうみ》の力を腕に込めてポカッと打った。剣術の出来る人に打たれたから堪《たま》らない。殿様がポロポロ涙を溢《こぼ》しながら、 殿「ウムなかなか利いた、えらいなどうも」 三「今一つ参りましょうか」 殿「イヤそれには及ばん。コレ/\、一同何を笑っておる。早く将棋盤を取り片付けろ……明日《みょうにち》から将棋を差す者には切腹申し付ける」