「アメリカス・カップの歴史」 国際ヨットレースの最高峰であるアメリカスカップの発端は近代オリンピックの歴史より古く、ロンドンで第1回万国博覧会が開催された1851年(嘉永4年、日本に黒船が来航した頃)、ワイト島(英仏海峡に浮かぶ保養地)を本拠地とするロイヤル・ヨット・スクォードロンが主催したワイト島一周レース(53マイル、約96キロ。淡路島を1周する程度)に始まる。 「海洋帝国」英国の快速艇が一堂に会するこのヨットレースに、当時海洋国としては新興国だったアメリカからただ1隻だけ参加したニューヨーク・ヨットクラブ(NYYC)所属の101ftスクーナー「アメリカ号」は先鋭的な設計による速さをもって大差で勝利をものにし、賞品として真新しい純銀製の優勝カップをアメリカに持ち帰えった。 1857年「アメリカ号」のオーナーたちはニューヨーク・ヨットクラブにこのカップを寄贈、その際に「贈与証書(Deed
of Gift)」として「国際間の友好的な競技のための永続的なカップ」として供するようにいくつかの条件を付した。最初は「100ギニーのトロフィー」と呼ばれていたカップは、やがて「アメリカ号」が勝ち取ったカップとして『アメリカス・カップ』と称されるようになり、至高のヨットレースのシンボルとみなされるようになった・・・。 このカップを巡って初めてレースが行われたのは1870年。雪辱を期してアメリカに乗り込んだ英国艇との間で争われたが、英国はカップを奪還することはできなかった。以来、1958年に開催された第17回大会までカップは米国と英国との間で争われた。英国以外の国から初めて挑戦があったのが1962年に開催された第18回大会で、豪州が挑戦、第20回大会からは複数国からの挑戦があった。以後、現在まで140年以上の年月の間に29回カップを巡り、その時代を反映するハイテクノロジーとマンパワーの結集されたレース艇での競い合いが行われた。
アメリカス・カップの歴史に大きな転機が訪れたのは1983年の第25回大会。オーストラリアの実業家アラン・ボンド率いる「オーストラリアII」が初めてアメリカを破り、それまで132年の長きの間ニューヨーク・ヨットクラブの手にあったカップを米国外へ持ち出した。これを機にアメリカス・カップは世界の注目を集めるスポーツイベントとして変貌し始めた。 1987年にはアメリカのサンディエゴ・ヨットクラブから挑戦したデニス・コナー が自ら奪われたカップをオーストラリアから奪回することに成功した。翌年、アメリカス・カップの歴史はおろか全てのヨッティングにとっての汚点ともいえる事件が勃発したが、コナーはなんなく防衛に成功。92年にはビル・コーク率いるアメリカ・キューブで防衛を果たしたが、95年にはチーム・ニュージーランドが圧倒的な強さでカップを獲得、カップは再び南半球にわたることになった。 蛇足ながら付け加えると、この時のニュージーランドは神懸かったような強さを発揮した。船体のカラーから「ブラックマジック」と呼ばれたその最速の艇は、予選、本選を通じて一度しか負けなかった。それも、その一敗は断トツで準決勝進出を決定した後の不戦敗のみだったのだ。 ちなみにニュージーランドも他のシンジケートと同様に2艇のヨットを用意してきたのだが、「ブラックマジック」は旧艇だった。アメリカス・カップでは、その長い予選期間中にレースの合間を縫って艇のチューニング(改良)を行うことが多い。そして、チューニングの結果を調べるために実戦のようなマッチレースを行い、チューニング精度をより高めていく。つまり、「ブラックマジック」は磨き抜かれた艇だということになるのだが、「ブラックマジック」は旧艇であって、ニュージーランドは新艇を温存していたことになる。 あれから3年半。アメリカを始め、挑戦を表明しているチームも船体構造については最新の技術を投入して抜かり無く準備を進めているはずだが、3年半前に切り札を出しきらなかったチーム・ニュージーランドがどんな艇を用意してくるのか、考え出すとぞくぞくしてくる。
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