司馬遼太郎原作の「竜馬がゆく」が平成16年正月二日、テレビ東京で放映された。 |
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徳川慶喜の生い立ち: 御三家の一つ、水戸の徳川家に生まれる。 父は烈公斉昭(水戸斉昭)、幕末における幕府政治家の中では出色の評判。 老中阿部正弘より、慶喜を一橋家の養子にせよとの台慮(将軍の意思)を伝えられ、これを請けた。(慶喜11才の時)当時の12代将軍家慶(いえよし)はあまり健康でなく、その後を継ぐべき世子の家定は生まれつき病弱。 となると時代の将軍家に養子が必要になってくる。将軍の養子は、水戸家を除く御三家の他に、御三卿の家から選ばれる。ところで、御三家、御三卿の中で将軍家の養子を出せる能力は無い状態にあった。従って、慶喜が一橋家に入れば、将来将軍になる可能性が大であった。 |
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御三家 御三卿 |
紀州、尾張、水戸。 一橋、清水、田安の三家。 |
徳川慶喜の人となり、性格: |
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歴史のこと: ・嘉永6年6月3日 ペリー浦賀に来航、開国を迫る。 ・井伊の死後満2年たった文久2年4月、慶喜は謹慎を解かれた。 朝廷より幕府に勅使。 薩摩島津久光江戸入りし、これを後押し。 「幕府を改革し、攘夷を決行せよ。そのため、一橋慶喜を将軍後見職に、松平春嶽を大老職に要求。」 これに幕府が屈す。 |
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四賢公 徳川家将軍 |
薩摩の島津斎彬(なりあきら)、土佐山之内容堂(豊信)、伊予宇和島伊達宗城(むねなり)、越前福井松平春嶽(慶永(よしなが))の四人を指す。この内、島津斎彬の死後、島津久光をさす。 12代将軍:徳川家慶(いえよし) 13代将軍:徳川家定(いえさだ) 14代将軍:徳川家茂(いえもち) 15代将軍:徳川慶喜(よしのぶ) |
一橋慶喜の思想(本心): |
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◆第15代将軍徳川慶喜の誕生: ・蛤御門の変で一橋、薩摩の評判上がる。 第二次長州征討開始。 ・14代将軍家茂、七月二十日没す。 ・幕閣、朝廷の賛同を得て、慶喜を将軍にする件が、松平春嶽より説得が行われたが、慶喜は受けず、徳川宗家のみを継ぎ、15代目の当主となった。 そして朝廷の勅命を賜ろうとしての作業中、突如、長州大討込を止めると言い出した。 ・松平春嶽のみる所、家康と吉宗をのぞけば、慶喜ほどの政治的頭脳をもった男もいまい、しかも、その教養は、家康と吉宗をはるかにしのぐであろう。 しかしながら、もっとも愚昧な将軍でさえなかった愚行を、慶喜は連続的に演じている。 つまるところ、あのひとには百の才智があって、ただ一つの胆力もない。 胆力がなければ、知謀も才気もしょせんは猿芝居になるにすぎない。 慶喜自身は、この軽薄さについて内々にも悔いず、ひとに対しても羞じらわなかった。 ・この後、さらにさまざまの曲折をへたあと、慶喜は将軍に宣下された。−われは将軍職をこのまず。 ということを世間にむかってくどいほど言い、その演技をした。 |
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◆徳川慶喜、大政奉還に応じる。: ・慶喜の将軍就任後、わずか二十数日目に孝明帝が病死された。(幕府は終わったと慶喜はとっさに思った。) この帝がおわすがぎりはという佐幕活動者の心丈夫さがあり、佐幕以外に尊王はない、という公武合体派の理論根拠もそこにあった。 その帝が、薨じた。 あと、幼帝が立つ。 その保護者は外祖父の中山忠能で、もし宮廷で謀略家があらわれ、この老公卿を籠絡すれば「幕府こそ朝敵である。それを討て」という勅錠なども簡単につくりあげることができる。 ・慶応三年十月十二日、慶喜は京都に駐屯する幕府役人をことごとく二条城大広間にあつめた。土佐藩より提案のあった大政奉還の案を説いた。 翌十三日、在京四十藩の代表を二条城に集め同様の宣言を説明した。 翌々十五日、朝廷からこの案を許可され、ことは終わった。 ・大久保一蔵の推察する、慶喜の弱点は、朝命を怖れるところである。 というよりも、朝敵となることを、世に慶喜ほど怖れる者はまれであろう。 慶喜は歴史主義者だけにその目はつねに巨視的偏向があり、歴史の将来を意識しすぎていた。 賊名をうけ逆賊になることをなによりもおそれた。 その神祖の家康にはそれが皆無であった。 皆無であることが家康の行動を自由なものにした。 南北朝のころの足利尊氏を逆賊に仕立てることによって、独自の史観を確立した水戸学の宗家の出身である慶喜は、自分が足利尊氏になることをなによりもおそれ、その点でつねに過剰な意識をもつていた。 それを、慶喜と同じ体質の大久保一蔵はありありと見ぬいている。 |
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大政奉還後の徳川慶喜のこと: ・王政復古の大号令が慶応三年十二月九日発せられる。 ・朝敵となった慶喜は後の始末を勝海舟に頼み、自らは朝廷への絶対恭順をとおした。 ・明治二年九月、慶喜は謹慎を解かれ、同時に時勢からもわすれられた。 その前後、慶喜は水戸から徳川の新封地である静岡に移っている。 ・静岡に移った慶喜は、その後会うのは一橋以来の家臣である渋沢栄一と、明治政府との関連において保証人のようなかたちになつている伯爵勝海舟ぐらいのもので、両人以外の過去のたれにも会わなかった。 ・慶喜が62才の明治31年2月9日、親戚の有栖川宮威仁(たけひと)親王の誘いを受け入れ参内した。 ・それから四年後、慶喜は宗家の徳川家達とは別に一家を立てるべき内勅があり、華族に列せられ、公爵を授けられた。 ・大正二年77才の11月はじめ、風邪をこじらせなくなる。 |
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余談1: 徳川慶喜の人物について、次第に首尾一貫しないところが不快になってくるようで、後半部分になると同情の余地が無くなってきた。 心が強いのか、言われるとおりに右往左往する気の弱い将軍とも思えず、見栄っ張りとも思える。 しかし、大政奉還後の晩年の慶喜の姿を見ると、何か理解できるような、かわいそうな人であった気がしてくる。 人の一生は死ぬときになってはじめて、良かったのか、つまらない人生であったのかが判るようで、この後も後悔しない人生を送りたいものである。 |
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余談2: 年末から正月に掛けてスペシャル番組などで、幕末から維新にかけての映像が多数在った。 「高杉晋作」、「勝海舟」、「竜馬がゆく」等。 しかし、その中に出てくる人物像は、脚本家の思惑や、配役のイメージにより、かなりな部分バイアスがかかってしまう。 やはり、作品に書かれたものを自分の中で人物像を膨らませるながら読んでいくのが楽しいとつくづく思われた。 |