三国志の時代背景:
三国志を読むにあたり、あらかじめ中国の歴史を知っておく必要がある。
春秋・戦国の動乱を経て、秦の始皇帝による統一がなる。 そして15年ほど(紀元前221)で、秦は(有名な項羽と劉邦の戦を経て)漢の時代にはいる。 漢は前漢、後漢合わせて400年ほど、比較的安定した社会が続く。
しかし、永く政権が続くと腐敗がはびこり、184年に宗教集団の指導者がおこした黄巾の乱をきっかけに、中国は動乱の時代を迎えることになる。
漢の時代の後、三国(魏・呉・蜀)鼎立の時代を経て、やがて魏の将軍司馬炎(武帝)が晋(265-316)を建て、中国を統一する。
武帝の死後、再び内乱が起こり、五胡(匈奴・羯・鮮卑・?・羌)十六国、南北朝の対立を経て随による統一(589)に至る。
三国志は、漢の終わりの時代から、三国鼎立の時代、そして晋が天下平定するまでのほぼ百年間を舞台とした物語である。 日本でいえば、年代は随分異なるが、丁度戦国時代のような状況といえる。
三国志の生い立ち:
「三国志」大本は、晋が勝者としての正当性を示すために史官陳寿に編纂させたせ正史「三国志」全六十五巻をいう。しかし、小説やコミックなどはもっぱら、14世紀に成立した羅漢中による長編小説「三国志演義」を題材としている。
物語の大筋:
漢の終わりの霊帝の時代、長く続いた漢の時代も、皇帝の側近は宦官が巾を利かせ、賄賂や密告、策謀により治世は乱れに乱れていた。 霊帝が病死すると、宦官を除くことで漁夫の利を狙っていた董卓が、皇弟を帝(=献帝)にして天下に号令をする挙にでた。
帝は変わっても再び董卓の横暴さに治世は乱れた。
漢室の権威を取り戻すことで、建安元年(196年)曹操が献帝を奉じ許都に入る。 それから全国平定にとりかかる。 全国の約7割を平定し、献帝より魏王の爵位を与えられる。
一方、曹操も漢室をないがしろにしているとし、献帝より劉皇叔との爵位を得ている劉備は、呉の孫権と同盟を結び、益州を中心に建安26年(221年)漢の皇帝となること宣言。
(歴史上は「蜀漢」)また、呉の孫権は229年、自ら皇帝の位につくことを内外に宣言。
このようにして、劉備の臣下であった諸葛孔明のいう天下三分の計が実現した。 その後、この三国の統一は魏の司馬炎により280年になされた。
三国鼎立に至るまでには、数多くの人物が出現し、色々なエピソードが語られ、三国志の魅力を醸し出してくれている。
印象に残った所:
1.関羽と曹操
劉備と三人(劉備、関羽、張飛)で義兄弟の盟約を誓った(桃園の義盟)関羽が、 曹操との戦で、劉備も行方知れず、劉備夫人の家族を守るために、曹操の幕下に入ることにした。その時、3つの条件を出した。
3つの条件とは、
(1) 恭順は漢室に対してのみであり、曹公に対してではない。
(2) 劉皇叔(劉備に対し、献帝よりそう呼ばれた。)の家族に対して一指も触れぬ。
(3) 劉皇叔の生存と所在が明らかになり次第、家族共々馳せ参ずることを認める。
その後曹操の元で手厚く扱われ、恩義を感じる関羽。
官渡の一戦で、袁紹の軍中第一の顔良を切り、曹操に対して義理を果たした関羽は、覇陵橋で曹操に決別し、劉備の元にもどった。
曹操、呉と劉備の共同戦にまれに見る大敗北をきっして襄陽に落ち延びるさい、待ち伏せていた関羽と出会す。
曹操、一世一代の危機を、義侠の人関羽に、ここで自分が死ねば天下は再び大動乱に引き込まれるであろうと義と侠を説き、関羽は曹操を見逃した。
2.曹操の帷幄荀ケ(ジュンイク)の死
曹操は能力が在れば泥棒でも採用するといわれるほど人材が豊富であった。 その中でも曹操の知恵袋ともいわれる帷幄(イアク=補佐役)に荀ケがいた。
漢室を守るため、実質の支配をしていた董卓を討つため義兵で大きな功労のあった家臣に、天子が与える九錫(キュウシャク=車馬、衣服、住宅、兵、武器など九品目について特別なものの使用が認められる。)を授与する件で、献帝が尚書令である荀ケに諮問した。 その時の荀ケの返事は、功績は大であっても、義兵を起こしたのは、朝廷を救い、国家を安定させるため士丈夫たるもの利益を求めてはならず、謙虚であるべき。 従って特典与える必要なしというものであった。
曹操軍が呉の孫権との対峙で決着がつかない状態にあったので、対呉献策のため、曹操が荀ケを呼び寄せた時、あいにく荀ケが道中食あたりで動けず遅れた。 その際曹操から空の食器を送られた。
荀ケは「九錫に反対するなら死ねばよい」と解し、自害した。
そのことを聞いた曹操は、空の食事を送ったのは「若い頃から同じ釜の飯を食ってきた中だったのに、どうして公的な奏上文で反対したのか、もう同じ釜の飯を食う気はないのか」「我々の仲なら私信で、おやめなさいと忠告してくれたらよかったじゃないかといいたかっただけ。」 曹操自身、自分が老境に入りつつあること自覚せずにはいられなかった。 董卓のもとを去って挙兵したのは35才。 栄爵や利益を求めたわけではなかった。 それから二十数星霜、その志に変わりはないが、人は誰しもおのれの働きを認められたら嬉しいもの。 曹操にしてみればただそれだけのこと。
|