読後感:
・3代にわたり事業を成功裏に続けるということは、至難の業であろう。ましてや戦争という個人ではどうしようもない事情がはいってきた日には。
初代の楡基一郎が楡病院を創立し、発展できたのは、ひとえに本人の才能に依っていたことは違いないが、それを支えている人々があったことは言うまでもない。
そして、徹吉という人物を見出し、それを育てて二代目に抜擢するまでの筋書きは、まあ出来なくはなかったと思う。しかし、それからが問題であろう。
子供達がどんな人間に育つかが実に大きくものをいう。
ちなみに、先の佐藤愛子の「血脈」を読んだ後のこと、やはり「楡家の人びと」でも二代目、三代目には大きな問題が見られた。
・それにしても、三部の最後の方で、故国は徹底的に戦いに敗れ、そして老いさらばえた自分の人生ももう終わりと、徹吉が若い頃を振り返る。
養父基一郎に「徹吉、おまえは偉い、一つ金時計をくれてやろう」という言葉がすぐ近くで聞こえたような気がした。
わが子、俊一、藍子、周二よ、おまえ達にとって良い父親ではなかった。何もかまってやれず、むしろお前たちを不幸に陥れた。決してお前たちを愛さなかったというのではない。だが、何かが、自分の生まれつきが、性格が、なにか諸々のものが、ある宿命のようなものが、物事をこのように運んでいったのだ。
愚かであった。だが、愚かなら愚かなりにもつと別の生き方もできはしなかったか?
少しは妻もなごみ、子供たちをも慈(いつくし)み、せめて今の意識をもう少し早く持つことが出来たら!それにしても、自分は何と奥底まで疲れ、気弱になってしまったことだろう。 には、何だか人生を振り返る自分のことのような、しんみりとした感傷に陥ってしまった。
・一部、二部では楡家に関係の人物が中心に物語が展開していたのが、三部になって、欧州の友達の城木達紀(たつのり)が話の中心で、戦争場面が展開され、あれっと思った。後でどうしてかが理解できたが、三部全体が太平洋戦争の状況が克明に展開され、以前読んだ、半藤一利著の「昭和史」、石川達三著の「風にそよぐ葦(あし)」のことが頭をよぎった。
特に石川達三著の「風にそよぐ葦(あし)」の小説の戦争描写でうける印象が、こんなに違うのかと。(「楡家の人びと」の場合、戦争場面だけでなく、なにか傍観者的というか、第三者的な表現に感じられ、切迫感とか、悲壮感というものを受けないですんでいる。これは作者の意図したものなのか)
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