方丈記はその出だし部分の言葉でよく知られているし、印象もそんなところであったが、今回取り上げてみて鴨長明が生きていた時代が、平家物語の世界と密接に関係していることに、そういうことだったのかと新たな発見というか、知ったことが方丈記を身近なものに感じさせてくれた。
また、以前下鴨神社に行ったことがあり、いつか「方丈記」を読もうと思っていたので、いい機会であった。読んでみて、こんなに短いものであったのかと、初めて気づく。 以下にこの本から関心の高いところを抜粋して覚え書き風に纏めてみた。
鴨長明は久寿2年(1155)ごろ、京都の下鴨神社の正禰宜(ねぎ)惣官(そうかん)鴨長継の次男として生まれた。(母については全く記されていることなく、不詳である。)当時、父親の長継は下鴨神社の摂社、河合社の禰宜を経て、下鴨神社全体の禰宜の要職にまでのぼりつめて、かなりの権勢をふるっていたらしい。しかも年齢は17才前後という若さであったらしい。 下鴨神社は8世紀前半ごろから、すでにその存在が確認されているが、平安京へ奠都(てんと)以後はことさら、王城鎮護の神として尊崇され、山城国一の宮として社格も高く、行事など、伊勢神宮にすべて準ぜられていた。有力な官弊社の禰宜長継の次男として、長明は誕生、鴨の里で少年時代を過ごしたわけで、名は鴨長明といったらしい。 長明誕生の翌年、保元元年(1156)京都市中で市街戦が勃発、保元の乱である。さらに3年後、平治元年(1159)、またまた京都市中で内乱、平治の乱が引き起こされ、歴史の前途に暗雲が立ちこめ、何となくもの騒がしい、不穏な時代の到来である。
父長継34〜35才という働き盛りで亡くなる。 突如、父を失った長明は、鴨一族の中で孤立への道を深めていったようだ。 鴨長明は、健保4年(1216)閏6月10日ごろ、62年の生涯を閉じる。 <五代災厄について>
世情:加賀の僧徒、比叡山の大衆とともに御輿をふりかざし、内裏突入をはかるが、守護により撃退される流血の惨事。
安元の大火の三年後の同じ頃、台風が京都の市街を襲う。
世情:この台風の二週間後、後白河法皇の第二皇子以仁王(もちひとおう)と、源頼政の平家打倒の叛乱が勃発し、以仁王と源頼政ら敗死。
平清盛、都を福原に遷都(6月)。京都が都になって四百年余りを経てきて、特別な理由もなく都が簡単に移り変わったことに、世の中の人の不安、困惑をあおり、衝撃がはしった。
そして11月再び京都に戻す。源平の全国的争乱が始まる。
震源地は琵琶湖北。余震は三ヶ月ほど続く。
世情:清盛の死後、寿永二年(1183)5月、平家軍は木曽義仲軍に大敗、7月、平家は京都を放棄、都落ちする。翌年の元暦二年(1185)2月四国屋島で、3月壇ノ浦で最後をむかえる。そうした衝撃の中で京都を襲った大地震。