「罪と罰」創作ノート1

2008年12月

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12月に入る前に
いまはまだ11月の半ばだが、物理学の話とドストエフスキーの話が混在するのはややこしいので、ドストエフスキーの話はこちらのノートに書くことにする。まず最初にこの作品のコンセプトについて書いておく。ドストエフスキー論をやりたいという思いは学生時代からあった。シェストフと小林秀雄を読んで、自分もいつかドストエフスキー論を書くのだと思っていた。しかし評論を書くというのは小説家にとっては、時間もとれないし、その種の依頼もなかったので、今日まで果たせなかった。ただ大学の授業ではドストエフスキーの話をしたこともあるし、いつかは書きたいという思いはあった。今回、いよいよ書くことになるのだが、ただの評論では面白くない。そこで趣向を考えた。ふつうの評論にすると、単なる解説書みたいなものになりがちなので、そういうものにはしたくない。そこで、毎回、切り口を変えて、ドストエフスキーの神髄に迫っていきたい。いちおう、『罪と罰』『白痴』『悪霊』『カラマーゾフの兄弟』の4篇につてい論を書くのだが、論文ではなく、小説という形式で書く。小説についての小説である。趣向というのは、毎回切り口を変えて、新しい小説を書くということだ。で、どういう切り口にするかもすでに考えているのだが、それはここには書かない。とりあえず、第1弾の『罪と罰』につていは、主人公を変えて新しい小説を書くということだ。
この作品が『刑事コロンボ』に似ているということは、大学の講義などでも語ってきた。というか、『刑事コロンボ』の方が真似をしたのだろう。通常の推理小説は犯人がわからない。しかし『刑事コロンボ』の場合は、犯人は最初からわかっている。だが証拠がない。その犯人をコロンボは心理的に追い詰めていって、ボロが出て動かぬ証拠をさらけだしたり、本人が自白してしまうように仕向けるのだ。『罪と罰』の予審判事ポルフィーリーも、主人公ラスコーリニコフを精神的に追い詰めて、結局のところ自首するように仕向ける。これをポルフィーリーを主人公にして、ラスコーリニコフを批判的に描けば、まったく違い趣向の小説になると同時に、一種のドストエフスキー論になるだろうというのが、今回のモチーフである。
だが、よーく考えてみると、ポルフィーリーは作品のちょうど真ん中あたりから登場するので、ポルフィーリーを追うだけでは作品の全容を異なる角度から見ることができない。そこでもとの作品では些末な脇役にすぎないのだが、地区警察署の事務官ザミョートフを主人公にすることにした。この人物は作品の早い段階から登場し、しかもかなりラスコーリニコフと密接に関わっている。途中から出番がなくなるのだが、そこは新たにプロットを作って、ザミョートフがラスコーリニコフには見えないところで暗躍するという設定にする。
ただしザミョートフが主人公というわけではない。もとの『罪と罰』もラスコーリニコフが主人公のように見えて、本当の主人公は、これも作品の半分くらいのところから登場するスヴィドリガイロフだ。なぜかといえば、この人物はドストエフスキーの父親をモデルにしているからで、その証拠に、父親の領地があったザライスクに領地をもつ人物と設定されているし、好色でしかも幼女姦の前科をもっている点でも、ドストエフスキーがかかえているトラウマを象徴する人物なのだ。従って、今回のわたしの作品では、狂言回しのザミョートフが、スヴィドリガイロフと関わっていくことになる。そのあたりのプロットをうまく組み立てる必要があるが、それだけに楽しみがある。前に『新約聖書』を組み替えた『地に火を放つ者』を書いた経験があるが、それと同じようなものだ。経験があるので不安はない。楽しみだ。
さて、14日(金)に『アトムへの不思議な旅』の草稿が完了したので、試しに作品の冒頭部を書いてみた。ザミョートフが登場するのは、ラスコーリニコフが殺人の予行演習をする第1日、標的の金貸し老婆と同居する小間使いのリザベータが明日は不在になることを偶然知る第2日、殺人を決行する第3日に続いて、借金返済督促の召喚状を受けてラスコーリニコフが地区警察署に出頭する第4日から、事務官のザミョートフが登場することになる。『罪と罰』という作品は13日間の物語だが、その第4日目から、今回の作品は始まることになる。ラスコーリニコフが殺人を犯す最もスリリングな場面が出てこないことになるのだが、この作品は批評なので、そういう場面で読者を引っぱる必要はない。『罪と罰』をすでに読んでいる読者にとっては、まったく異なる視点で作品を振り返るという楽しい体験ができるはずだし、『罪と罰』を読んでいない読者には、この本を読むだけで『罪と罰』の本質的な部分が読み取れる魅惑的な小説として読んでもらえるように、小説そのものの面白さを展開したい。

11/19
12月の日記なのだがもうドストエフスキーは始まっている。第1章は地区警察署の喧騒の中から始まる。本編の13日の物語では第4日にあたる。ラスコーリニコフの犯行の翌日にあたる。本編では殺人を犯したショックと恐怖で寝込んでいるラスコーリニコフに庭番が警察からの召喚状をもってくる。そこで警察署に行くと、事務官ザミョートフが書類を受けとる。わたしの作品はザミョートフが主人公なので、そこから話が始まるのだ。つまりわたしの作品は殺人現場という、本編では最もスリリングなところが語られない。小説としてはいちばんおいしいところがない。きわめて不利な条件を敢えて自分に課しているのはこれがただの小説ではなく、「ドストエフスキー論」だからだ。つまり小説の小説なので、おいしいところはあえてカッとしてある。しかし犯行現場が描かれていないことで、かえって通常の推理小説に近くなった。推理小説では犯行現場は描かれない。読者は探偵に導かれるままに自ら推理するしかないのだ。

11/23
第1章は終わって第2章。翌日である。ここでラズーミヒン登場。重要人物である。ラスコーリニコフが陰とするとラズーミヒンは陽。その対象としても重要だが、ラズーミヒンは法学部の学生なので事件に興味をもって推理をする。話の展開を示す上でも重要な人物だ。ここで本編ではないストーリーを入れる。ザミョートフが最初にポルフィーリーを訪ねるシーン。本編ではポルフィーリーは全体の半分くらいのところから登場するのだが、早めにイメージを読者に見せておきたい。

11/27
第2章の終わり。ここまではうまくいっている。第1章は本編の第2章にあたる部分を視点を変えて書くというだけだったが、こちらの第2章は本編にはない部分。つまり何をしようとしているかというと、『罪と罰』という作品は一人称ではないけれども、作者は基本的に主人公ラスコーリニコフを追いかけている。スヴィドリガイロフがソーニャを追いかける場面などわずかな例外を除いてはつねにラスコーリニコフがいて、ラスコーリニコフの視点で眺めている。わたしの試みは、地区警察署事務官ザミョートフの視点で作品を読み直すということで、第1章はラスコーリニコフとザミョートフが出会う場面だから、本編のラスコーリニコフの視点で書かれている部分をザミョートフの視点で読み直すことになる。台詞などはそのままなのだが、全体の分量を短縮するてめにカットできるところは省略している。第2章にはラスコーリニコフが登場しない。ザミョートフがラズーミヒンに会う場面と、ポルフィーリーに会う部分で、ラスコーリニコフがいない場面は本編にはない。まったくのオリジナルの部分といえるのだが、実はラズーミヒンとザミョートフの出会いは、ラズーミヒンがラスコーリニコフに語る台詞の中に出てくるのですべてがオリジナルではない。後半のポルフィーリーが出てくる部分は完全なオリジナルだ。ここで事件の本質が簡略に語られる。小説のスタイルをとって評論というコンセプトなので、その評論にあたる部分はポルフィーリーとザミョートフに語らせる。同時に予審判事ポルフィーリーという個性的な人物をここでしっかりと描いておく。本編ではポルフィーリーは作品の後半からしか登場しないのだが、わたしの作品では第2章から登場することになる。というようなことをやっているのだが、この試みが面白いかどうかはわからない。ドストエフスキーを読み込んだ読者には面白いのではないかと思うのだが、そういう読者が何人いるかはわからない。本を出す以上、もっと多くの読者に惹きつける面白さが必要だ。できれば「刑事コロンボ」のような事件物として楽しめるものにしたい。

11/28
すでに第3章に入っている。ここは熱病に冒されたラスコーリニコフが譫言(うわごと)を言う場面。本編ではラズーミヒンによって断片的に語られるだけのところを、わたしの作品ではリアルタイムで描く。前半の山といっていもいい場面だ。集中力が必要だ。

11/30
第3章完了。1つの章が40枚ほどなので、もう120枚ほど書いたことになる。まだ主人公のスヴィドリガイロフが登場していない。まあ仕方がない。本編(原典)でもスヴィドリガイロフは作品のちょうど半分のところで初めて登場する。わたしの作品ではなるべく早く登場させたい。明日から本当の12月のノートが始まる。

12/01
朝の図書館との協議会は欠席。夕方の講義。夜はメンデ協会の運営委員会。夜中、ジャイアンツ対レッドスキンズを見ながら仕事。イーライ・マニングは昨年とは別人のような貫禄がある。兄のペイトンを上回っているのではないか。そのペイトンのコルツもようやく調子が出てきて8勝4敗。これでワイルドカード圏内に入った。さて、昨日の3勝の終わりにスヴィドリガイロフの名前だけでも出しておきたかったのだが、うまく入らなかった。それでラズーミヒンとザミョートフの酒場での会話を増やすことにした。ザライスクで起こったことを手短に提示することができた。全体の量をなるべくコンパクトにしたいので、これはいい流れだ。

12/02
第4章。翌日の朝から話を始めるはずだったが、ここでソーニャを出しておきたいという誘惑に駆られた。ザミョートフはソーニャは本編(原作)では交流がない。ここから先はまったくのフィクションということになる。著作権の切れた作品だからできることだ。作者の没後100年以上経過しているのだからそういうことも許されるだろう。

12/03
文藝家協会。通常は常務理事会と理事会だけだが、今回は2時から公益法人制度改革検討委員会というものが始まった。会議の3連続は疲れたが、副理事長の篠さんは常務理事会の前に経理委員会が挟まって4連続だった。夜中、ソーニャの登場。未知の領域に踏み込んでいく。どきどきする。

12/04
これから週末まで本当はいくつか用があったのだが、すべてキャンセル。四日市の次男が来る。というか、孫の日本男児が来る。次男が仕事を終えてから新幹線で来るのでかなり遅い時間だが、東京駅まで迎えに行く。荷物があるというのでホームまで行く。窓越しにこちらを見た孫は、わたしの顔を見て笑ってくれた。憶えていたわけではないだろうが、好意的な人物と判断したようだ。ホームから丸ノ内の丸ビルの前まで、ベビーカーを押していけるコースは熟知している。エレベーター3回、斜面の通路2箇所が頭の中にインプットされている。妻の車に乗りこんで自宅へ。やれやれ。孫は人見知りしないのですぐにわたしにも妻にも愛嬌を振りまく。夏にいたころには寝返りも打てなかったのだが、いまはつかまり立ちする。どこへでも這っていけるので危険だ。昼間は来年の著作権講義の要項の入力。来年二月に出る児童文学の表紙がファクスで送られてきた。いい感じだ。児童文学の挿絵との共同作業だ。いい感じの本になりそうだ。堺屋太一伝の最終インタビューのテープ起こしも届いた。何しろ4つの作業がまだ進行中なのだが、いまはドストエフスキーがメインの仕事だ。ザミョートフがソーニャと出会う場面、可能な限りセンチメンタルにやりたい。全体が抑制気味(小説のスタイルをとってはいるが「ドストエフスキー論」なので批評的に展開している)なので、センチメンタルに書ける場面は少し甘めに書いてみたい。本日、担当編集者に最初のメールを送った。出版のスケジュールもあるので、とりあえず執筆をスタートしたことを告げた。あまり期待をもたせてもいけない。締切に追われたくないので、いつ完成するかはわからないというスタンスで前進したいのだが、ある程度、いい感じで進んでいくようであれば、むしろ編集者の期待はこちらの励みになる。

12/05
本日も孫がいる。ずいぶん長い時間、孫と遊んだ。とても疲れた。

12/06
土曜日。孫をつれて立川の母のところへ。曾孫を見て母がとても喜んだ。ついでに昭和記念公演のイルミネーションを見て帰る。4章完了。『いちご同盟』の45版届く。ハードカバーと文庫で50万部を超えるロングセラーになっている。しかしいまは『罪と罰』だ。これはなかなか楽しい作品になる。

12/07
日曜日。まだ孫がいる。次男新幹線で四日市へ。

12/08
孫は嫁さんの実家に向かった。今度会えるのは年末かな。堺屋太一伝の追加インタビューのテープ起こしが届いているので作業を進めなければならない。昼間はこちらの作業を進め、夜中はドストエフスキー論を続けることにした。本日は著作権講義に出向く日。夕方の授業なので出かけるまで堺屋太一伝。帰ってからはドストエフスキー論。うーん、疲れる。

12/09
火曜日。『マルクスの謎』の担当者と三宿で飲む。本になるのは少し先になる。とにかくいまは進行中のドストエフスキー論のほかに4本の作品が作業途上にある。ドストエフスキーに集中したいところなので、本の出版が先に伸びるのはかえってありがたい。すると堺屋太一伝の作業が終わればドストエフスキーに集中できることになる。あとの2本は挿絵との関連を確認するだけでいいので大きな問題はないはずだ。とにかく並行して作業を進めるのは大変だ。まあ、これで年始年末の見通しができた。

12/10
「小説堺屋太一」完成。すでに草稿はできていたのだが、追加取材となった最終インタビューの情報を草稿に加える作業が完了した。これでとりあえず手が離れた。当初は来週半ばくらいを目途に作業を進めていたのだが、担当編集者によるテープ起こしの原稿がよくできているので、そのままコピペで行ける部分が多く、本日完成した。最初は、明日には渡せるということで編集者にメールを出したのだが、そのあとで今日の夕方渡せるとわかって追加メールを出してから散歩、その間にまたアイデアがわいたので、編集者が到着する5分前にようやくすべての作業が終わった。実にあわただしい状況だが、このように期限を決めて集中した方がいいものになることもある。しかし来週にはゲラが出るとのことで、手が離れたわけでもないのだが、とにかくこの週末はドストエフスキーに集中できる。そのドストエフスキーは、原典にはないエピソードを書き込んでいる。これは面白い小説になる。書いていてわくわくする。

12/11
ドストエフスキー論に集中できるようになった。この作品はさまざまな仕掛けをもっているが、『罪と罰』のダイジェスト版という意味合いもある。文庫本で3冊の原典を、1冊に圧縮する。もちろん視点が違うのでまったく違う作品になるのだが、読みやすい文体で一気に読めるようにする。はっきり言って原典は冗長で現代の水準からすればかったるい。これを現代の推理小説のようなテンポのよい文体で事件を追っていく。ただし風景描写を的確に折り込んでリアリティーを演出したい。

12/12
羽沢ガーデンを守る会の講演会。わたしが講演するわけではない。講演のあとで短いコメントを述べただけ。大勢の人が集まっていた。羽沢ガーデンは夏目漱石の親友だった満鉄総裁の中村是公の邸宅。和洋折衷の邸宅と自然と融合した庭という、明治から大正にかけての建築文化の貴重な資料として、保存して国民に提供しなければならない。さて、自分の仕事。5章完了。1章が40枚弱なので、200枚近くになっているのだが、まだ主人公のスヴィドリガイロフが登場しない。全体を500枚と想定したい。もしかしたら600枚になるかもしれない。長すぎては困るのだが、長さを恐れていては何もできない。

12/13
土曜日。ひたすら仕事。6章。主人公(事務官ザミョートフ)がペテルブルグの街を歩く。といっても昔の街がどんなふうかはわからない。ただ運河の流れそのものは変わらないし、建物の感じもそれほど変わるものではないだろう。車ではなく馬車が走っていたのだろうが。「西行」では850年ほど前の京都を描いた。まあ、似たようなものだ。
ところで昨日、突然、腕時計が死んだ。まさに死んだとしか言いようのない状態になった。ソーラーの電波時計だから死ぬことはないし狂うこともないと信じていたのに、アナログの針が0時0分に戻って死んでいる。0時0分に戻ったということは、パソコンでいえば正規に終了して再起動に備えているということだろう。電池が0になる前に終了してわずかな電気を残して情報は保存されているということだ。それで今朝は寝る前に時計を窓際に置いてエサをやることにした。妻の話では昼過ぎに見たら元に戻っていたとのこと。しまった。0時0分から針が動くところを見たかった。冬だから時計が袖の中に隠れていたことと、暗い部屋に長く放置したことが原因だろう。これからはちゃんとエサをやるようにしたい。

12/14
日曜日。主人公がクリスタルパレスという建物に入るところまで書いて散歩。そこでラズーミヒンと会話することになっているのだが、会話の内容は何も書いていなかった。しかし散歩中にアイデアがわいてきた。登場人物が自分の手の中に完全に入っている。ここまで来れば楽だ。あとは登場人物が一人で動いてくれる。もともとドストエフスキーが造形した人物だが、そのままでは動かない。自分でキャラクターを一人ずつ作り直している。それがようなく生きて動くようになってきた。

12/15
月曜日。講義。出かける前に年賀状の整理。まず何枚必要が確認しないといけない。無駄な慣習かもしれないが、止めるわけにもいかない。

12/16
午前中の会議。文藝家協会で教材関係の人々と打ち合わせ。いったん自宅に帰って少し仕事。夕方また文藝家協会に赴いてわたしが理事長をしているNPOのスタッフと打ち合わせ。そのまま忘年会へ。4人でワイン3本飲む。1名はひたすらソフトドリンクだったので1人1本飲んだことになる。これで著作権関係の仕事は今年は打ち止め。夜中、少し酔いをさましたところで少し仕事。

12/17
もう200枚になっているのだが、スヴィドリガイロフはまだ登場せず、ラスコーリニコフもあまり出番がない。それなのに何で200枚も進んでしまったのか疑問が浮かんだ。そこで最初から読み返してみることにした。どんどん先に進むことも必要だが、チェックをして軌道修正することも必要だ。前進する勢いが削がれることは残念だが、ここはじっくりと検討したい。

12/18
妻が自由が丘へ行くというのでついていく。三宿のバス停から田園調布行きのバスに乗る。わたしはふだん北沢川か烏山川緑道を散歩することが多いのだが、自由が丘は駅のすぐそばに両側が商店になった憩いの緑道がある。久品仏川というらしい。妻が店に入っている間、緑道のベンチでぼんやりする。快晴で風がなく穏やかな日だ。自由が丘は東横線は高架だが、大井町線は平地を走っている。平地の駅にそのまま入れるというのは昔の駅みたいで楽しい。とくに用はないのだが大井町線で二子玉川に向かう。駅に着くとちょうど日没。多摩川の向こうの山に沈む夕陽をしばらく見ていた。妻に夕陽が山の端にくっついてから沈むまでに4分ほどかかると説明するとびっくりしていた。厳密に言うと4分きっちりではないが、およそ4分といっていいだろう。さて、前日からの読み直しの作業は終わった。ここまでラスコーリニコフはほとんど登場しない(原典では2日ほど昏睡しているので)のだが、それでも充分にスリリリングだ。成功したオープニングになっている。これでラスコーリニコフが動きだせばもっと面白くなるはずだから、手応えは充分だ。

12/19
今日も妻と散歩。皇居前のイルミネーションを見て、ベルギービールを飲んで帰ってきた。仕事は進んでいる。ラスコーリニコフの論文について。原典ではラスコーリニコフとポルフィーリーの議論によって展開されるのだが、わたしの作品ではザミョートフが主人公だから、議論の二日ほど前に読んで、ポルフィーリーと語り合うことになる。わたしの作品を「論」と呼ぶ理由はこういうところにある。主人公のラスコーリニコフ抜きで、この論文について客観的に語るところが評論的だということになる。ただスタイルは小説なので理屈っぽくならないようにシンプルに展開させたい。小説の読者が退屈しないように、コンパクトに論理を展開しなければならない。

12/20
土曜日。コーラスの練習。飲み会。夕方までは仕事ができた。ここまできっちりとストーリーが展開できている。だがまだオープニングという感じがする。ラスコーリニコフがまったく動いていない。スヴィドリガイロフもまだ登場していない。まずスヴィドリガイロフを登場させておく必要がある。

12/21
日曜日。世田谷代田まで散歩。さて、ようやくスヴィドリガイロフが登場するプロットを試みてみたが、時間があまりない。わたしの書く時間がないということではなく、ラスコーリニコフを中心とした表のストーリー(ドストエフスキーの原典ということ)の隙間に、ザミョートフとスヴィドリガイロフが出会う場面を挿入したのだが、すぐに別のプロットがあるので、ゆっくり話している時間がないということ。それに動きのない議論の場面はなるべく避けたいのでここはコンパクトに展開したい。

12/22
著作権講義。今年はこれで終わり。昨夜、スヴィドリガイロフの初登場の場面を書いたのだが、これは予想以上にうまく書けたのではないかという気がする。スヴィドリガイロフはこの作品の主人公だ。ドストエフスキーの原典でも主人公だとわたしは考えている。しかし原典では全体の半分くらいのところで唐突に登場するので出番が少ない。予審判事ポルフィーリーも実は半分の少し手前のところで出てくる。わたしの作品ではかなり早い段階でポルフィーリーを出した。スヴィドリガイロフも何とか早く出したいということでかなり無理をして出番を作った。原典と綿密に比べるとやや無理があるのだが、時間の経過が少し窮屈だということで、シークエンスとしては矛盾はない。とにかくスヴィドリガイロフが出てきたので、ようやく作品の焦点が見えてきた感じがする。

12/23
本日は休日らしい。仕事に集中したいところだが年賀状のリミットだ。住所録の修正で半日かかった。上福岡市がふじみ野市になったとこか、どうでもいい修正があるし、引っ越しもいやに多い。社宅に住んでいた人が定年で社宅から追い出されるとか、定年で田舎に帰るとか、わたしの知人の多くが人生の節目を迎えているらしい。さて「罪と罰」。丸二日昏睡していたラスコーリニコフが目を覚ました。ここからわたしの作品では主役となるザミョートフが、水晶宮で犯人ラスコーリニコフと対決する名場面になる。これは原典でもエキサイティングなバル面なのだが、原典ではラスコーリニコフが主人公でザミョートフは嫌みな探偵といった趣になっている。ここを逆転した視点で描くことが本書の狙いでもあるのだが、年賀状のプリンターが作動している横で作業をしているので集中力がそがれる。時々ハガキを補充する必要があるからだ。
ところで重大な欠陥に気づいた。このままで重要登場人物のマルメラードフが、一度も登場しないまま死んでしまう。わたしの作品はザミョートフの視点で描いているので、ザミョートフの目の前に出てこないとマルメラードフは描けない。しかし水晶宮の対決の直後にラスコーリニコフはマルメラードフが馬車に轢かれた現場に行き合わせることになるので、そのラスコーリニコフのあとを尾行しているザミョートフの目の前に、死体となったマルメラードフが出てくるのが、このユニークな人物との初対面ということになってしまう。これではいけない。1日でも2日でも話を戻して、マルメラードフとの対面の場面を設定しないといけない。

12/24
クリマスイブ。こんな日に会議をやるのかよ、という感じで国会図書館での協議会。何かものすごく紛糾したが、結局はどうということのない結論に。説明がアイマイなのでこういうことになる。アイマイなままですりぬけようとする安易な発想が逆効果になっている。そういうところはお役所仕事的だが、お役所なのだから仕方がない。さて、前半の最大の山場といってもいい水晶宮でのザミョートフとラスコーリニコフの対決。いよいよ始まった。原典でも面白いところだが、視点が反対になっているのでより面白くなるはず。

12/25
渋谷まで散歩。妻の年賀状を作る。しまった。ハガキが5枚足りない。明日郵便局に行く必要がある。「海の王子」のゲラ届く。校正者のチェックが入ったもの。自分用の修正は済ましてあるので、書き写す必要があるが、直しはわずかだ。「小説堺屋太一」のゲラが明日届くらしい。うまく受け取れるか。PDFデータは受け取っているのでこれで見てもいいが。年末であわただしい。「罪と罰」も進んでいる。前半の山場に差しかかっている。

12/26
早稲田の同窓会。今年は職場の忘年会とぶつかった人が多く、8名だけの参加だが、飲みながら話すにはちょうどいい人数だった。カラオケにも参加したが記憶はぼやけている。

12/27
仕事場に移動。夏に孫たちと過ごして以来使っていない。寒い。とにかく掃除などをして使えるようにする。

12/28
日曜日。昨日、あまりに寒いので、半分物置になっている書斎を捜すと、次男のものと想われる電気カーペットがあった。ここは次男の自宅から近いので不要なものを運んでくるのだ。次男は日当たりのいいマンションに引っ越したのでカーペットが不要になったのだろう。ありがたく使わせてもらう。カーペットがあると快適だが、二畳用だとあまりに小さいので、もう一つ二畳用のものを買うことにした。百円ショップや靴屋でも買い物をする。ふだんは買い物などしないので、こういう休暇を有効に使う。この年末年始はゲラを2本かかえている。まず簡単な方から。「小説堺屋太一」。最初に書いた原稿は何度も読み返しているので問題ない。最後のインタビューで追加したところだけ念入りに見る。ここはつながりのよくないところがいろいろとあってチェックの必要がある。テープ起こしをそのまま挿入したところも多く、自分の文章になりきっていないので修正する。けっこう手がかかる。気持が切れるといけないのでドストエフスキーも少し作業を進める。仕事場に来ているので集中力はあるのだが、夜は割合早く寝る。ここで犬がいた時と同じように朝方になる。

12/29
月曜日。いつも月曜日は起きてすぐにNFLの結果をチェックする。アメリカン・フットボール。今期リーグの最終戦。わたしが応援するジャイアンツはすでに地区優勝とリーグ最高勝率が決まっている。これでプレーオフのトーナメントの2試合は地元で戦える。同リーグのライバルの動勢が気にかかる。カージナルス、パンサーズ、ファルコンズはすでにプレーオフ出場が決まっている。バイキングスは相手がジャイアンツなので負けるだろうと思っていたのだが、たぶん最高勝率が決まっていたジャイアンツが手を抜いたようで、バイキングスが勝ち決定。残り一つはカウボーイズ、バッカニアーズ、イーグルスの順番で権利があったのだが、上位2チームが負けて何とイーグルスが奇跡のプレーオフ出場になった。もう一つのリーグはタイタンズが最高勝率、他にスティーラーズ、コルツが決まっていたが、ドルフィンズとレイブンズがすべりこんだ。ペイトリオッツとジェッツは及ばず。あと1チームは月曜のプロンコス対チャージャーズの勝者。勝てば地区優勝だが、負けると勝率が低いのでワイルドカードには出られ理ないという、トーナメントのような試合になる。さて、スーパーボウルの予想。片方はジャイアンツで決定。もう一方はペイトリオッツがQBの怪我でプレーオフに出られなかったので混戦。最高勝率はタイタンズだが、ここはQBが弱い。ロスリスバーガーのいるスティーラーズか、ペイトン・マニングのいるコルツだろう。コルツなら、マニング兄弟の対決になる。これは楽しみだが、今シーズンのコルツはディフェンスが弱く、オフェンスラインも弱そうで、マニング兄に切れ味が見られない。総合力でスティーラーズが優位だと予想しておく。このチームはディフェンスが強く、ポラマルという攻撃的なラインバックの超人的な守備が見ものだ。ジャイアンツ対スティーラーズ。これだなあ。さて、「小説堺屋太一」のゲラチェックは終わった。次は児童文学だが、ドストエフスキーにも集中したい。

12/30
地元の銀行へ行く。定期が満期になったのを普通預金に入れるため。水道料金などがここから落ちる。プロパンガスの料金を払いに米屋へ。農協スーパーで必要なものを買う。コメリで灯油を買う。プロパンとか灯油とかふだん縁のないものだが仕事場で必需品だ。四日市の次男は明日来るとのこと。ドストエフスキーに集中している。どんどん書けるが、まだ先は長い。先の長さを考えると絶望的になる。

12/31
今年も大晦日になった。浜松の料亭に頼んだおせちをとりにいく。ここの主人はわたしの読者なので、何となくわたしがとりにいかないといけない感じになっている。仕事場に帰りつくと四日市の次男も到着。孫とは今月のはじめにも会ったので久しぶりというわけではない。また会った、というくらいのもの。しかし半月前にはつかまり立ちの状態から座ることができず、その度にバタンと倒れるので、ずっとそばについていないといけなかったのが、今回はちゃんと自分で座れるようになった。長足の進歩だ。


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