「ウェスカの結婚式」創作ノート1

2001年3月〜

3月4月


02/28
まだ3月になっていないが、ここからこのノートをスタートする。
「ウェスカの結婚式」を書き始める。このタイトルから読者は何を連想するだろうか。よほどスペインに詳しい人でなければ、ウェスカという町のことは知らないだろう。わたしも知らなかった。まったくの偶然から、ウェスカ出身の女の子と、わたしの長男が結婚することになった。それで、実際に昨年の9月、そのウェスカで結婚式が行われた。この作品はその模様を書くだけのことで、私小説といってもいいし、エッセーといってもいい。わたしはべつに悪いことをしたわけでもないし、貧乏自慢の話でもないから、告白型の私小説ではない。志賀直哉ふうのストイックな私小説でもない。少し志賀直哉が入ったユーモアエッセーという乗りでスタートしたい。
わたしはこれまでに、『パパは塾長さん』『吾輩はハスキーである』というユーモアエッセーを出しているが、その延長でもあるし、もう少し文学的な『トマトケチャップの青春』の二十数年後の世界と考えてもいい。なぜこの作品を書くかは、書きたいから書くとしか言いようがない。わたしは五十歳以後の「晩年」を歴史小説にあてる覚悟を固めているが、わたしの歴史小説はすべて、「僕って何」の延長上にある。「僕って何」は同時代を描いたわけだが、同じことを、道鏡でやったり、聖徳太子でやったり、清盛でやるということだ。いまは菅原道真を書き終えた直後だが、久方ぶりに、自分のことを書きたくなった。それで書く。
作家としてのわたしの日常は、ひたすら書く、というのが基本だが、去年までは大学の先生もしていたし、いまでも作家としての役割を果たしている。文芸家協会で著作権問題の責任者をしているし、その仕事の一貫で文化庁の著作権分科会の委員もしている。それから、家庭の中では、父親としての役割も果たしてきた。だが、いまは妻と二人きりの生活なので、自分が父親であるということは、ふだんは忘れている。しかし結婚式ともなれば、父親を演じなければならない。すると、ふだんは忘れているだけに、父親であることが負担に感じられて「僕って何」状況になる、というわけだ。
この本が、読者にとって面白いかどうかはわからないが、とりあえず外国の話なので、軽い旅行記という感じで読んでもらってもいい。それから、これまでの家庭エッセーの読者にとっては、続編を読むというモチーフも生じるだろう。主人公の長男は名作(?)『いちご同盟』のモデルなので、あの暗い少年がどんなふうに結婚したかという興味もあるのではないかと思う。というふうに作者の方はいちおう戦略を立ててはいるのだが、結局のところ、自分のいまを確認したいという、書き手の側の欲求が中心である。書きたいものを書くのが文学だという原理主義に立てば、まさに純文学といってもいい。
ということで、これから2カ月くらいは、この作品に没頭することになるだろう。なお、前作『天神』は完成したものの、事情があって編集者にはまだ渡していない。この作品がどうなるのかということも、このノートの中に、展開があれば書き込むつもりだ。

03/01
出だしのところの修正に時間を費やしている。文体が定まらない。純文学にするつもりはないが、軽すぎてもいけない。『パパは塾長さん』は中学受験の話であり、冗談として書かないとまずいという状況だった。『吾輩はハスキーである』は犬の話である。それゆえにやや軽い文体で書いた。今回は長男の結婚式の話なのでふざけるわけにはいかないが、重すぎてもいけない。
昨日、河出書房の編集者と電話で話して、4月末に渡すという約束をした。書き下ろしだから、締め切りはあってなきがごとしだが、いちおうの目安とする。自分にとって大切な作品ではあるが、『天神』のように史実にもとずいたものではないから、必ずこう書かねばならぬということはない。私小説だから、描くべき事実はあるが、そのとおりに書く必要はないし、モデル問題が生じてもいけないから、切り取り方に技術が必要だ。事実との間に距離を取らないといけない。事実と切断せよと、柳美里の裁判の判決も述べている。登場人物は家族と友人だけだが、まあ、ある程度、距離をとるということを考えないといけない。距離は文体が決定する。最初が肝心だ。

03/03
元河出書房新社編集者、飯田貴司氏の通夜に参列。飯田氏はわたしの最初の単行本、「僕って何」の担当者。学生時代、河出書房の『文藝』編集部に原稿を持ち込んでいた頃からの知人。『文藝』の担当者は金田太郎氏であった。金田氏も3年ばかり前に亡くなられた。奇しくも同じお寺で葬儀があった。金田氏の場合はまさに急死といえたが、飯田氏は療養中であった。治療のためにメキシコに渡られるという話を、2日前に河出の担当編集者から聞いたばかりだったので、昨日、訃報が届いた時は、驚いた。これで「僕って何」の担当者が二人ともいなくなった。
いまは完成原稿を担当者に渡す(フロッピーをつけて)だけだが、「僕って何」は原稿の段階で3回くらい書き直しをした。単行本の時にもチェックをした。書き直しをする場合は、担当編集者のアドバイスを受けるので、共同作業といっていい。「僕って何」はわたしのデビュー作であり、永遠のテーマともいえる。最近書いた「天神」も、菅原道真という人物が「自分とは何か」という問いに悩むところが作品のテーマとなっている。「清盛」だって、「清盛って何」という小説なのだ。その意味で、「僕って何」を書き上げる現場に立ち合ってくれた編集者が2人ともいなくなったのは寂しい。
さて、「ウェスカの結婚式」だが、まだ出だしのところで逡巡している。このところ歴史小説ばかり書いてきた。歴史小説の場合は、起こった出来事を年表ふうに順番に書いていけばいい。しかし息子の結婚を書く場合、結婚式の式次第を追うだけでは作品にならない。息子が生まれてから今日まで、という物語と、息子から聞いたフィアンセとの出会いの物語、それから半年前の、わたしがフィアンセおよび両親と初めて会った時の話、といったいくつかの物語が時間軸を無視して錯綜することになる。さらに、わたしの青春時代を振り返る必要もあるのだろう。この作品は長男の結婚を描いてはいるが、主人公はわたしである。要するに「私小説」なのだ。自分を見つめる。つまり、「僕って何」というのがテーマだ。
本日のお通夜で、作家の宮内勝典氏に会った。「僕って何の続編、やってますか」と言われて、一瞬、何のことかわからなかった。以前にあった時に、これは新たな「僕って何」の物語だ、といったことを、わたし自身が宮内氏に話したらしい。そのことをすっかり忘れていた。「法華経」とか「天神」とかを書くと、限られた脳のキャパシティーがいっぱいになるので、私小説的な世界のことを忘れてしまう。「天神」が終わり、メモリーを初期化して、ようやく、「ウェスカ」がスタートしたことになる。
というわけで、息子について語る前に、まず自分について語らなければならない。少し暗くなるか。ユーモアエッセーという装丁で本を出したい(私小説では売れない)。文体でもちこたえたい。センチメンタルになることを抑制して、突き放し、笑うか、少なくとも冷静に見守るというスタンスが必要だ。私小説を書くのは難しい。でも、作家なのだから、文体で押し切らないといけない。

03/08
このところ雑用で忙しくて仕事が進んでいない。雑用があっても集中力があれば仕事は進むので、集中力がないということだろう。文体が定まっていないということと、必要な材料を提出する、順番、段取りが見えてこない。ウェスカへの旅行に沿って話を進めていく時間の流れに、必要事項を織り込んでいかないといけない。必要事項というのは、読者に対する情報だ。私小説の場合、私(主人公)、および書き手は、私の過去を知っている。志賀直哉みたいな大物なら、それで充分なのだが、わたし(三田誠広)の場合は、読者がわたしについてどれほど知っているかは、わからない。わたしもこれまでに、いろいろとプライベートな素材で本を出してはいるのだが、いちおうまったく新規の読者にもわかるだけの準備として、作品の最初に、私についての概況を示しておく必要がある。しかし概況だけをいきなり語るのも退屈なので、旅行の流れに従って小出しに概況を語っていく必要がある。その段取りがなかなかに難しい。
全然関係ないのだが、ペンクラブや文芸家協会の会合に出席すると、インターネットや流通に関する諸問題を議論することになる。自分のささやかな作品が、ごく親しい読者に届けばいいと思っているわたしとしては、流通などといったことは大きな問題ではないのだが、しかし文芸家、文学者全体の将来を考えた場合は、流通や著作権の問題は重要である。へたをすると出版文化、文学、表現芸術といったものが危機を迎えることになる。というわけで、雑用ではあるけれども、やらなければならないことがたくさんある。疲れるが、これは書き手の義務のようなものだ。

03/11
ようやく第一章30枚が完成した。ずいぶん時間がかかったが、まだ充分ではない。最初から読み返してチェックする。私小説は子供の作文のようなもので、とりあえず起こった出来事と感想を書いていけばいいのだが、読者はわたしについて何も知らないので、いきなり自分について語り始めても状況がわからない。起こった出来事は、まず犬を預けて、空港へ行って、ベルギー経由でバルセロナへ行き、そこからウェスカへ、そして結婚式、ということになる。しかし、それに先立つ状況設定がある。
結婚式は夏だが、わたしと妻は春にもブリュッセルを訪れている。そこでフィアンセと初めて会い、さらに両親とも顔合わせをした。両親とヘントやブリュージュを観光したことで、お互いが親しくなれた。その後、両親を帰してから、エレーナ(フィアンセ)とともにベニスへ行った。この旅行で、エレーナとも充分に親しくなれた。そういうところを前提として、物語がスタートする。この物語に先立つ状況をどのように読者に伝えるかが難しい。
第一章は、ブリュッセルまでの旅を描きながら、少しずつ状況を明らかにしていくプロセスである。まだすべてを明らかにするわけではないが、とりあえず最低限の状況設定を描くと同時に、結婚式への旅という現在のプロセスを描きながら、随時、過去にさかのぼっていくというこの小説のスタイルを読者に提示する。過去の説明は少なすぎると状況が不明になり、多すぎると現在の流れがスムーズでなくなる。そのバランスがとれているかは、読み返してみるしかない。
とりあえず状況設定の第一章がまとまった段階で、第二章は、春のフィアンセ、および両親との出会いだけで展開することになる。あまり頻繁に過去がフラッシュバックするのも、読者としてき疲れるだろう。第二章は、いったん春の旅に時間を戻したら、そこからは一定の時間の流れに沿って語っていくことにする。このあたりから、執筆のスピードを上げたい。

03/14
まだ1章の文体をチェックしている。半月かかって文体が定まらないというのは困る。しかし文体というものはそれほど大切なもので、文体が決まればこの作品は半分完成したようなものだ。当初のプランでは、軽いユーモアエッセーの文体で、ほんの少しだけわさびのように、ほろりとする部分を入れる、といったものを想定していた。しかしいまは世の中全体が少し暗いムードになっているし、わたし自身の状況はやや暗いので(老齢になったということのほかに悩みはないのだが)、底抜けに明るく書くというのもつらいので、やや暗めになっている。
逆に暗すぎないように、なるべくテンポよく語ることをこころがけなければならない。この本を誰が読むかということは、あまり考えていない。単なる旅行記と思って読んでもらってもいいし、家族の問題として受け止めてもらっていもいい。「いちご同盟」の読者は、主人公の少年がその後どうなったかという興味をもつかもしれない。わたしがなぜ書くかといえば、自分について語りたいからだ。たぶんそれ以外の目的で本を書いたことはないといっていい。たとえば「アインシュタインの謎を解く」という本を出したが、これは相対性理論の解説書ではない。アインシュタインというもの(人物だけでなく彼が考えたことのすべても含めて)の存在に感動した、そのわたし自身の感動について語りたいから本を書いたのだ。
わたしは13年間、大学の教員をしていたが、何かを教えるということはしなかった。わたしの感動を学生に伝えるということだけで、語り続けてきたのだ。感動を伝えるということでなければ、語るのもつまらないし、聞く方も面白くなかったと思う。本を書く場合も同様である。自分で面白いと思ったことを書けば、読者も面白いと感じてくれるはずだ。ただしそこには書く技術が必要だが、30年以上書き続けてきたのだから、その程度の技術はある。
ウェスカでの結婚式は感動的だった。だからその感動を読者に伝えたい。それだけのことだ。わたしはいま、歴史小説にとりくんでいる。本来なら、「天神」を書き終えた直後に、「頼朝」さらに「崇神天皇」というふうに、書くべきテーマを準備して、構想も練っているのだが、そういう作業を一時中断してプライヴェートな素材に取り組むのは、どうしても書きたい、この思いを伝えたいという、強いモチーフがあるからだ。だから、この作品は必ず読者の胸を打つと信じている。

03/21
文化庁の文化審議会著作権分科会に出席。といってもふつうの人には何のことかわからないだろう。文化審議会というものがありこれが「親」の組織である。そこに30人くらい委員がいる。その30人がいくつかのグループに分かれて分科会を作る。著作権分科会には歌舞伎の市川団十郎氏をはじめ、5人の委員が下りてきて、著作権の専門家や利害関係の団体の代表者を合わせて、30人で分科会を形成する。つまり5人の委員のほかに、25人の臨時委員がいる。わたしはその臨時委員の一人である。さらにこの臨時委員がいくつかのグループに分かれて、小委員会を作る。そこにはさらに専門委員と呼ばれる専門家が加わる。今度の省庁再編で文部省は文部科学省になったが、その下にある文化庁は文化庁のままだが、以前著作権審議会と呼ばれていた組織が上記のように名称変更になった。わたしはマルチメディア小委員会というものに属していたのだが、これが情報小委員会に変わったらしい。というようになことが、今日、分科会に出席して初めてわかった。2時間の会議でわかったのはそれだけ。いったい何をしているのだ、と思ったが、まあ、仕方がない。
このところ花粉症の薬を飲んでいるので頭がぼやっとしている。それに妻が実家に帰っていた。べつに妻に嫌われたわけではない。老いた両親の様子を見にいったのだ。わたしの両親は父は亡くなり、母は主に結婚していない役者をやっている姉がめんどうをみて、わたしの妻が補助的に芝居に連れていったりしている。たまには自分の両親を見に行くのもいいだろう。二人の息子は、長男はベルギー留学、次男も就職して企業の独身寮にいるので、子供にメシを食わせる必要はない。しかしメシを食う犬がいる。この犬さえいなければどんなにラクかと思うが、犬がいなければわたしは孤独になる。それで何となく犬に追い立てられるように生きている。頭がぼうっとしているせいか、集中力がない。「ウェスカの結婚式」は、犬を動物病院に預けるところから話が始まる。そしてまずベルギーへ、それからスペインに向かうわけで、まだ1章が終わった段階だから、作品の主人公の「わたし」(私小説だから作者のこのわたしのことだが)はまだベルギーにいる。いずれにしても、ベルギーにもスペインにも犬は同行していない。それなのに、仕事をしているわたしの足もとに犬が寝ているというのは何だか奇妙だ。これが清盛とか天神さまの話を書いているのなら犬などどうでもいいのだが、私小説を書いていて、作品のなかにいないはずの犬が目の前にいるというのは、なんかヘンだ。でも、妻がようやく昨日帰ってきた。本日は文化庁の会議があったが、明日からは集中できるだろう。
文化庁からの帰りに、久しぶりに大学に行ってみた。非常勤9年、客員教授4年を務めた早稲田大学を今月末で退任する。研究室の片づけに行ったのだが、ごみを捨てると、もって帰るべきものはスリッパと、研究費で買った「哲学事典」一冊。べつに研究することもないのでこの部屋はあまり使わなかった。小人数の授業を一つ担当していたので週に一回ここで授業をした。研究室は8階にあって眺めがいい。この窓から下界を眺めるのもこれが最後かと思うと、感慨があるかなと思っていたのだが、会議のあとで疲れていたのでゆっくり窓の外を眺める気にもなれなかった。
教員ロビーのメイルボックス(電子メールではなくほんとの郵便物や連絡の紙が入っているところ)の中に事務室からの連絡があり、パソコンを返せと書いてある。4年前、客員教授になった時に貸してくれた東芝のノートパソコンだが、何と何と、ウインドウズ3.1が入っているという前世紀の遺物だ。プログラムマネージャーにアイコンが並んでいるあの懐かしいレイアウト。実はこれを去年の秋まで、仕事に使っていた。去年、東芝バイオを買った時に、よほど捨てようと思ったのだが、捨てなくてよかった。必要なフアイルは新しいパソコンに移したので問題ないが、やばい原稿を消去しても痕跡は残ってしまうだろう。まあ、税金対策か何かで、確実に廃棄処分にする必要があり、古いパソコンを証拠として大学で確認しなければならないのだろう。4年近く、わたしの仕事を支えてきたパソコンだから、手離すのは少し惜しい。

03/25
上記のように4年ほど使ったパソコンを大学に返さないといけないので、ハードディスクのファイルを消去する。何しろウィンドウズ3.1だから、ごみ箱がない。どうやって消去するのか、などと考える。そもそも半年ほど使っていなかったので、立ち上げ方も忘れていた。ふたを開けるとすぐに動くはずだったのに作動しない。リジュームエラーという状態になっていたらしい。しかし何とか動いてくれた。すべてのファイルを消していく。何となく胸が痛んだ。書いた原稿はプリントする時に、デスクトップのパソコンに移しているし、メールにはりつけて送ったものはメールソフトの中にも残っている。書きかけのままのものなどは、いま使っているパソコンに移してあるから、すべて不要なファイルではあるが、何もかもを消去してしまうのは寂しい。
さて、「ウェスカの結婚式」は2章までが終わった。まず、ブリュッセルへ行くところまでが1章。それから半年前のフィアンセの両親との出会いだけで2章が終わった。それぞれ60枚ずつ。いい感じで進んでいる。3章では、いよいよウェスカへの旅が始まる。ウェスカに着くところまででちょうど3章が終わってくれればと思う。

03/29
3章も半分くらいのところに来た。ようやくバルセロナに着いた。ここからウエスカに向かう風景が、作品の一つの山場になる。ピレネーの向こうはアフリカだ、という言い方がフランスにあるらしいが、確かに、ウエスカの周囲は砂漠なのだ。本物の砂漠を見たことがないからいいかげんだが、とにかく日本にはない乾燥した風景がひろがっているのでびっくりした。そのことを書きたい。
並行して、「頼朝」の資料を読み始めた。「頼朝」については、頭の中がからっぽである。去年の春から夏にかけて、「清盛」を書いていた。清盛が死ぬところまで書いたから、そこまでの歴史はわかっている。十三歳の頼朝も登場している。しかし頼朝がそれからどうなったのか、わたしは知らない。何年か前に「沙那王伝説」というのを書いた。これは義経と弁慶の話だ。その時にいちおう、その時代の歴史は頭に入れたはずだが、それか義経の側から見た歴史だから、頼朝の方がどうなっていたのか、まったく知らない。
そもそも関東武者とは何なのか。要するに、地方豪族ということだろう。基本的には平氏が多い。高望王の子孫が坂東八平氏というものを作っている。とはいえ、王族が武力で坂東を支配したということではない。左遷されて遠国に来た元皇族やその子孫を、田舎の豪族たちがありがたがって、婿養子にしたということだ。当時は、婿取り婚だから、男は女の親の厄介になる。しかし氏姓は父系で伝えられるから、坂東の豪族がみんな平氏になってしまった。従って、平氏を名乗っていても、同族意識はまったくない。地方ごとのまったく利害を異にする豪族集団である。
そこにぽつんと、流人の頼朝がいる。そこから頼朝の戦略が始まることになる。参謀はいるのか。いちおう、「清盛」の最後の方に登場した大江広元が参謀ではあるが、広元はぎりぎりまで京にいたので、旗揚げの時点で参謀だったのは、比企の尼の婿三人と、北条政子の父の北条時政くらいのものだろう。あとはこの頃には忍者みたいなものもいたのかもしれない。これから一ヶ月は、「ウェスカ」を仕上げながら、「頼朝」の構想も練っていかないといけない。

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