「悪霊」創作ノート3

2011年5月

4月に戻る 6月に進む
05/01
日曜日。昨日の土曜日に大学のイベントがあったので、この日曜日は貴重だ。震災の影響で夏休みを長くとるためにM大学では5月の連休も休まない。ということで、ゴールデンウィークというものは今年はない。さて、5月になった。すでに『新釈悪霊』の執筆はスタートしている。大学でのアキ時間などに仕事をしている。1章の長さをどの程度にするのかといったことはまだ決まっていない。1章が終わっていないからだ。この1章、冒頭にキリーロフとシャートフが出てくる。それからピョートルが現れ、次にニコライが登場する。ここで1章が終わるのではないかと思われる。ニコライのファーストショットが書ければ、大げさに言えばこの作品の半分くらいはできたようなものだ。いまこの瞬間が作品のカナメであるといえる。気持は昂まっている。というか、他のことは何も考えていない。大学の仕事とか、著作権の問題とか、妻が風邪で寝込んでいるとか、いろいろと雑事に取り巻かれてはいるのだが、頭の中にはペテルブルグの白夜と運河の街が展開している。『悪霊』の原典はモスクワの周辺にあると思われる地方都市が舞台だが、わたしの『新釈悪霊』はいわば原典の「前篇」を書く作業なので舞台はペテルブルグということになる。『罪と罰』も『白痴』もペテルブルグが舞台だった。わたし自身もすっかりこの街になじみができた。わが故郷といってもいいくらいだ。実際には3日間ほど滞在しただけだし、徒歩で歩き回ったのは数時間にすぎないのだが、頭の中にイメージができている。ベニスやアムステルダムにも行ったことがあるし、本当の故郷の大阪も運河の街であったから、運河というものはわが体に皮膚感覚のようなものとして染みついている。いまは世田谷区の三宿に住んでいて、北沢川、烏山川の緑道を散歩コースとしているのだが、散歩している時にも、頭の中にはペテルブルグの運河の街がうかんでいる。これから3ヵ月くらいはそういう状態が続くだろう。「前篇」だけでは原典を読んだことのない人にはわからないので、原典を圧縮したものを「後篇」としてくっつけ、わたしの作品とする。この圧縮の作業もたいへんだが、原典があるので道筋を見えている。「前篇」という未知の領域を進む前半の3ヵ月が勝負だと思っている。本日はひさしぶりに渋谷に散歩。それ以外は仕事ができたので、かなり進んだ。会話で状況を説明するのと同時に、登場人物のキャラクターも見せることができる。原典を読んでいない読者のために、人物のキャラクターを際立たせる必要があるが、原典を知っている読者はピョートルとかニコライといった名前だけで、ある種の先入観をもって人物を見ることになるだろう。その二重性に困難さはあるのだが、逆に仕掛けを作る面白さがある。読者の期待を裏切りながら魅力ある展開を引き出したい。

05/02
M大学。月曜日はリレー形式の授業がない日は、夕方の学科会との間に、アキ時間が4時間ほどある。集中して仕事ができた。自宅でフルに作業をしてもこれほどの集中は持続できない。主人公のニコライはまだ登場しないが、すでに噂話が読者に提出される。原典では主人公の登場の前に噂だけが膨大に展開されるのだが、わたしの作品はそういう思わせぶりな前置きを一切排除して、ストレートに叙述しようと心がけではいるのだが、それにしても小説としての面白さは必要なので、ほんの少しだが思わせぶりな前置きを置く。さらに原典を読んでいる人にも意外な展開が用意されている。わたしなりの謎解きがこれから始まる。いまわたしが取り組んでいくシリーズは、「小説によるドストエフスキー論」というのがコンセプトで、スタイルは小説だが、ドストエフスキー論であり、謎解きであり、解説書でもある。それがもう1つの小説を書くという形で展開される。何よりも小説としての面白さが原典を上回っていないといけないと思っている。原典ははっきり言って、面白くない。ピョートルの父親が出てくる前置きがあまりに長すぎ、あまりにも謎めいていて肝心のことがほとんど出てこない。その肝心のことを読者の目の前で展開させるというのがわたしの戦略である。問題は原典では削除されていた少女姦の部分をどこまで明らかにするか。時代順に叙述するというのがわたしの方法だが、それだと全体の半分くらいのところで真相を見せないといけない。視点となる人物を別に設定して、肝心のところは見えないようにして謎解きを後半まで引っぱらなければならないが、それにしても唐突な感じのする「スタヴローギンの告白」の場面の前に、伏線を充分にしかけておく必要がある。というようなことを考えながら、集中して仕事をしたあとの学科会。何かしら重要な会議のようだが、あまり頭に入らなかった。まあ、いい。少しずつではあるが、この大学のようすがわかってきた。何とかなるだろう。予定では明日から仕事場(静岡県)に移動するはずであったが、妻の風邪が長びいているので三宿ですごすことになりそうだ。M大学は震災のための電力不足に対応して夏休みを長くとるためにゴールデンウィークを休まない。予定では木曜日の子どもの日は新幹線で日帰りをするはずだったのだが、そういう労苦も必要なくなった。四日市の孫に会えないのは残念だが仕方がない。

05/03
仕事場に行く予定だったが三宿にいる。北沢川を散歩。ひたすら仕事。

05/04
妻とスーパーに行く。それだけ。何も書くことがないので原発のことでも書いてみようか。3月、わたしは「簡単な手術」(実は簡単ではなかった)の直前であったし、『道鏡』の構成と『実存から構造へ』の執筆と『新釈悪霊』の資料を読む作業を並行させていて、そのことで頭がいっぱいだった。そういうこともあって、自分のことしか考えていなかったように思う。震災後、被災地へ図書館の蔵書を臨時に画像として配信するシステムについて、必要な同意を得るためにメールを送ったりしたことはあったが、芸能人のように寄付やチャリティーをするほどのこともなく、野球の選手が野球をやるように、自分の仕事をしていただけだった。ドイツ気象局の情報はつねに見ていて、風向きによって東京に放射能が降る日はマスクをつけたりしたが、花粉症なのでいつもこの季節はマスクをつけているから、とりたてて何かをしたというわけではない。わたしは原発について一定の危惧をもっていたが、反対を表明したことはない。むしろ安全性に充分配慮しながら、硫酸を触媒とした水の熱分解によって水素ガスを得る方法を提唱したこともあった。「もんじゅ」は熱媒体としてナトリウムを用いているのだが、これは危険だ。熱媒体はアルゴンなどの気体を用いれば安全だとも考えていた。いずれにしても津波で壊れるとは予想していなかった。冷却装置の防御がこれほど手薄だったとは考えもしなかった。これは明らかに設計ミスだろう。わたしはむしろ、もっと明らかな人為的ミスで、地震も何もないのに突如として原発が暴走するといった事態をばくぜんと想定して、そうならなければいいがと思っていた。人間が造ったものには必ずミスの可能性がある。飛行機は落ちるし、スペースシャトルだって落ちた。原発の場合はミスによって大事故につながる可能性があるだけに、安全対策のための出費まで考慮に入れて効率を考えると石油や石炭の方が安上がりかもしれないと考えていた。温暖化対策はまた別の問題なので、ここでは考慮しない。石炭を粉塵にして気体のように爆発させるような技術を開発すべきかもしれない。いずれにしても、30キロ圏だけでなく、福島や郡山もいまのままでは年間30ミリくらいの被曝は避けられない。これら大都市の人間をすべて疎開させることが大変なので、政府は50ミリまでいいと言いだしたようだが、これは犯罪的行為だろう。もしも子どもに数人でも甲状腺ガンが発生したら、首相の責任は免れないだろう。心配をした小学校の先生方が、校庭の表土をはぎとったら放射能が半減した。ところが文部科学省が余計なことをしてはいけないという通達を出した。これも犯罪的行為だ。いま日本の政府は犯罪を犯しつつある。年間1ミリは日本の法律で決まっている。集団疎開が大変だという理由で政府が勝手に安全宣言することは許されない。ただ住民に充分説明した上で、疎開するか、放射能の危険を承知の上で残るかの選択を、住民自身が決断するということはあっていいだろう。広島で被曝しても元気に天寿を全うした人は存在する。1ミリを超えたら必ず発病するというものではない。レントゲン技師や航空機の乗務員は確実に数十ミリを超えているし、宇宙飛行士はもっと被曝している。それでもすぐに発病するわけではないのだから、強制疎開の地域内の人がそのまま残っても発病しないことも充分に考えられる。発病は確率の問題だからだ。だとしても、判断力のない乳幼児や小学生が1ミリ以上の放射能を浴びる事態を、文部科学省が容認するどころか、表土をはぎとってはいけないと命令することは許されない犯罪だ。通達を出した人はそのことを理解しているのだろうか。いまわたしが考えているのはその程度のことだが、これをどこかに訴えるということはしない。わたしは自分の仕事をするばかりだ。いまはドストエフスキーのことを考えている。それがわたしの仕事だからだ。

05/05
祝日だが大学がある。夏の電力不足に備えて夏休みを長期化するため。夏休みが長くなるのはありがたいので、歓迎であるが、世の中が休みなのに出勤するのも寂しい。しかし妻の体調不良で三ヶ日へ行かなかったので、新幹線で日帰りといった事態は避けられた。いつものように三宿から吉祥寺へ。このところ吉祥寺からバスに乗ることにしている。必要なものを研究室に運ぶため往路は荷物をもっていることが多いため。座布団とか、その程度のものなのだが。教室の変更。学生に伝わっていないといけないので、前の教室に出向いて黒板に指示を書く。行ってよかった。学生は全員、旧教室に来ていた。まだこの大学のシステムに慣れていない。アキ時間に仕事進む。1日3コマやると疲れる。妻の体調、ようやく戻ったようだ。夜中も仕事を進める。来週の水曜日に担当者と会う予定。それまでに第1章ができていると気持の上で落ち着いて話ができるのだが。

05/06
金曜日。連休中のような感じだが、世の中では出勤しているところもあるようだ。凸版印刷からメールが入る。来週火曜日の委員会の連絡。わたしが座長をつとめる外字異体字の委員会。去年の三省デジ懇でわたしが問題提起した時には誰も反応しなかったが、今年の1〜3月に最初の委員会が経済産業省の補助金で設定され1歩を踏み出した。今回は2歩目が踏み出せる。あとは技術者に任せれば具体的な提案が出せるだろう。凸版と大日本の協力が得られればこのプロジェクトは成功するとわたしは考えている。その方向に進みつつある。さて、この連休、M大学の授業があるのが想定外であるが、世の中は連休なので、木曜の授業のあとは月曜まで3連休だ。『新釈悪霊』を進めている。主人公のニコライが登場して、ついに主要4キャラクターが揃った。強烈な個性をもった4人なので、キャラクターの設定を終えた段階で、あとはオートマチックに人物たちが動き出す。作者はキャラクターが横道に逸れないように見張っていて、時に軽く手を添えるだけでストーリーが進行していく。これは原典となっているドストエフスキーの『悪霊』に到る前史を書く作業なので、目標は見えている。原典で思わせぶりに断片的に語られているエピソードを具体的に描写していくことになるのだが、あらすじはすでに準備されているので、あとはキャラクターがオートマチックに動いてくれれば作業は進んでいく。作者はほとんど何もしなくていい。ただ見守っているだけでいいのだ。7月末くらいまでの3ヵ月で、この作業を終えたい。8月からは原典を圧縮して前史につなげていく。前史として再現した部分は後篇ではカットできるし、ステパン先生に関する物語は大幅にカットできる。かったるいシーンは経緯だけを人の口で語らせればいい。山場となるスタヴローギンの告白の章なども前史の中に伏線として組みこまれているので、後篇ではチーホン僧正の反応を中心に書き込んでいく。チーホンという人物は原典では印象がうすい。もっと個性が必要だ。この部分ではドストエフスキーを超えるものを書かなければならない。というふうに考えると8月からの作業も大変だが、7月から9月まで大学が夏休みになるので、集中できるだろう。今年は妻がスペインに行くのでスペインの孫たちが来ることはない。彼らは正確な原発の知識をもっていて日本に来ることを恐れている。わたしが原発を恐れていないのは老い先が短いからだ。20年後にガンになってももはや寿命だ。子どもたちはそういうわけにはいかない。福島県の子どもたちは気の毒だと思う。疎開すべきだが親と離れて暮らすのも精神的にはマイナスだ。文部科学省は国民に真実を伝えずにこのまま放置するだろう。20年後に大人になったいまの子どもたちにどのような障害が生じるか、これは人類が初めて体験する壮大な人体実験だといってもいい。日本はひどい国だと改めて思う。いま書いている『新釈悪霊』の登場人物たちも国家に対する愛憎をかかえている。祖国であるから愛してはいるが、政府に対しては憎悪するしかない。そこで人間の内部が引き裂かれる。ロシアの場合はクリミア戦争での大敗であるが、原発先進国を自負していた日本の現状も想定外の大敗といってよい。状況が似ているのでわたしの作品には想定外のパワーがこめられるはずだ。

05/07
土曜日。わたしにとっては3連休の2日目。床屋に行く。それだけ。主人公ニコライの秘密の一端が明らかにされる。こんなに早くあばいてもいいかとも思われるが、すでにワープロで20ページ、原稿用紙にして60枚くらいは書き進んでいるので、このあたりでスリリングな要素を出してもいいだろう。それにしても作品が始まってから60枚書いても場面転換がない。ずっと酒場で人物たちが議論をしているだけの展開だ。しかし話の内容は充分にエキサイティングだと思う。この作品は議論小説になる。この第1章の終わりにネヴァ河の描写を入れるので、そこで読者はほっと息をつくことになる。この第1章の終わりが、作品の冒頭部の1つの山場になるはずだ。そして2章の冒頭部に、スリリングな展開が待っている。だいたいそのあたりのことまで頭の中で考えている。そこから先は何も考えていない。

05/08
日曜日。連休も終わり。大学が休みにならなかったが、他の公用がないので自分の仕事ができた。妻が体調を崩したので仕事場にも行かなかった。次男の一家は仕事場に来てSLを見に行くなど休日を楽しんだようだ。こちらはふだんの日常と変わらない生活が続いている。まあ、それでいい。

05/09
大学。非常勤の先生方との懇親会。去年は非常勤(客員だったが)の側だったが、今年は専任の側だ。気分はまだ客員なのだが。しかし終わったあと専任の先生方と二次会の飲み会。要するに飲み会に参加すると、仲間意識ができる。飲み会の回数に応じて共同体に参加できるということだろう。

05/10
凸版印刷にて、「外字異体字委員会」。というような正式名称ではないのだが、とにかくこういうテーマの委員会。昨年の三省デジ懇でわたしが強く提案したのに何の反応もなかったテーマだが、今年の一月になって急に経済産業省の予算が貰えて凸版印刷が請け負ってプロジェクトチームを作り、調査報告したことが認められて、今年度は年間の予算が貰えた。で、ほぼ同じメンバーで委員会を継続するとともに、より具体的なプロジェクトチームを作って対応することになった。わたしは座長なので、とりまとめをしなければならない。ふつうの会議だと小説のプランを思いつくとメモなどできるのだが、座長はそういうわけにはいかない。終わって道を歩いていると時にドッとプランがわいてきた。地下鉄の中でメモする。夜はメンデルスゾーン協会(わたしが理事長)が後援しているサロン・コンサートがあるので、1時間くらいのアキ時間。地下鉄に乗ってからどこで下りるか考えたのだが、銀座三越のテラスがいいかなと考えて銀座一丁目で下りた。ルノワールの看板が目についたのでここでひまをつぶすことにした。その1時間で膨大なメモを書いた。ついにドストエフスキーが憑依した。いくらでも書ける状態になった。この状態で半年すごせば、お筆先で作品が完成する。サロンコンサート。クラリネット、チェロ、ピアノのトリオ。よかった。あとの飲み会も楽しかった。ちょっと疲れた。

05/11
作品社の担当者と打ち合わせ。すでに執筆が始まっている『新釈悪霊』について。ドストエフスキーについてこんな会話をするのは贅沢な楽しみであるという点で意見が一致した。こんなものを書く作家も稀有だが、こんな本を出してくれる出版社も稀有だ。つまりは奇蹟のような本が出る。

05/12
大学。文学史を語る講座ではドストエフスキーについて語った。いまの学生たちがドストエフスキーのことをどう思っているかわからないが、その面白さは伝えたいと思っている。3年生のゼミは、まあ楽しく語れた。さらに3年生を対象として創作の講座がある。ここは人数が少ないので、学生たちと直接マンツーマンで語り合うことにした。ただ教えるというのではなく、学生たちの生の声を聞きたい思う。こちらが学ぶ。それが大学の先生のスタンスだと考えている。少し調子が出てきた感じがする。昼休みのあとにアキ時間が1コマある。昨日、担当者との打ち合わせに向かう途中で、歩いている時に不意にアイデアが閃いた。やっぱのネヴァ河の描写から始めたい。当初の第1プランでは、ネヴァ河の描写から始めた。それではゆるいと思い、いきなり居酒屋の喧騒から始まるというプランに変更したのだが、主人公の立ち位置が不明なままで喧騒が始まるのは混乱を招く。ネヴァ河の描写で風景を眺めている主体というイメージが出せる。ここで主人公のスタンスを明示しておきたい。そう思って、以前に書いたネヴァ河の描写を冒頭にコピペして、その続きを書こうとしていると、突然、ものすごいことが頭に浮かんできた。そのものすごいことというのは、まだ言葉でシンプルに語れる段階ではない。とにかくその新たなプランに沿って書き進むと、すごいものが書けそうだという感じがつかめた。いまのところ、そこまでだが、この感じで先に進んでいけば、だんだん本当にすごいものになっていくだろう。ということで、ランランランという感じで自宅に帰ったのだが、妻が何となく不機嫌。妻はわたしが大学の先生になることを快く思っていない。オーバーワークになることを心配しているのだろう。確かにアキ時間にものすごい集中力で仕事をしている。教室で教えること自体はそれほど疲れるものではないのだが、往復の移動などもあって、気持の切り換えに疲れるということはある。夜中、昼間のすごい閃きが本当に使い物になるか検証する。まだ、本物かどうか、結論は出ない。少しセンチメンタルになったかなと思うし、すでに100枚ほど書いた部分にうまくつながるかどうかもわからない。試行錯誤だ。何度も何度も文体を練り直して先に進んでいる。いまも最初から読み返している。先は見えないが、こうやって試行錯誤を続けているうちに文体が固まり、一気に流れができる。いままでもそうだったし、今回もそうなりそうな予感はある。

05/13
金曜日。今週はハードだったが、本日は公用がないので3連休。医者と歯医者に行く。ファーストショットの書き換えはうまくいったが、ここまで書いた100枚のすべてに影響するので読み直しの作業が必要だ。『星の王子さま』のハードカバー版の増刷が届いた。講談社青い鳥文庫に入れるために翻訳したのだが、文庫の装丁のまま少しサイズを大きくしてハードカバーにしたものも発売されている。たぶん図書館用だろう。順調に版を重ねている。わたしの訳は読みやすくしかも深い。サン=テグジュペリの原典よりもわかりやすく深くなっているところもある。大胆な意訳の部分もあるが、最大のくふうは目次をつけたこと。この目次を見ただけで作品の内容がわかるようになっている。その目次のところを引用しておこう。……「ヒツジの絵を描いて」と王子さまは言った/王子さまは花の美しさに胸がドキドキした/渡り鳥の助けをかりてふるさとを離れた/「地球へ行けばいい」と地理学者は答えた/ヘビが言った「人間のところだってさびしいぜ」/「秘密をひとつ教えよう」とキツネは言った/砂漠がきれいなのは井戸をかくしているからだ/すべての星がきみの友だちになる……どうですか。これを見ただけでどんな話なのかわかってしまうでしょう。

05/14
土曜日。散歩に出ただけ。ひたすら仕事。昨日から急に初夏の陽気になったが、わが自宅は温度変化が緩やかなので、まだひやっとしている。木曜日に大学にいる間にファーストショットを変更した。本日、再確認したが、いいオープニングになっている。これで文体が決まったといっていいだろう。すでに書いた100枚のうち、半分くらいを読み進んだが、わずかな手直しでオーケー。オープニングを変えて、主人公の立ち位置がはっきりしたし、4人の主要人物が一挙に集中する面白さのインパクトも強くなった。すべてがうまくいっている。当初は、さりげなく物語を始めようと思っていたのだが、こういういきなり集中型も、この物語にこそふさわしいと感じられる。ということで、このオープニングで先に進んでいけると確信した。

05/15
日曜日。早稲田の平岡篤頼先生の七回忌の追悼の会。先生は文壇バーで教え子たちに囲まれている席で亡くなられた。わたしもそういう死に方をしたいと思う。わたしは文芸専修ではないので直接、教えを受けたわけではない。作家になってから第8次早稲田文学の編集委員に加えていただき、月1回の編集会議に参加するようになった。若手評論家を集めた勉強会にも参加した。のちに早稲田の教員となってつきあいが深まった。さまざまな思い出がある。本日はかつての学生編集者であり、編集長でもあり、のちに作家となった重松清ら、懐かしい人々と酒を飲んだ。結局、午後5時から夜中まで飲んだ。

05/16
またウィークデーが始まった。月曜は大学。本日は1コマだけだが、夕方に教授会がある。自分の部屋で仕事をする。今日もちょっとすごいことを書いた。ドキドキする。4人の登場人物の個性がはっきりしてきた。いい感じで進んでいる。ところで、スペインにいる長男はわたしと妻のためにブログを作ってくれている。本日の記事で心が温まった。3人娘の長女がパリの子どものためのピアノのコンクールで1位(初心者の部)になったのだが、演奏を聴いていて心臓の鼓動が頂点に達したといったことが書いてあった。それは彼が子どもの頃、わたしと妻が体験したことだ。ようやくわかったか、親の気持ち。でもその可愛い子どもも、すぐに成長して、大人になってしまう。子どもがペットとして家庭にいる期間は、親の人生の中の、ほんのわずかな期間でしかないのだ。

05/17
文藝家協会総会。わたしにとって、1年で1番長い日。ふだん著作権関係で会っている人が、大挙して現れる。100人くらいの人と挨拶をしないといけない。まあ、とにかく終わった。

05/18
本日は休み。自分の仕事のみ。第1章完了。ここまで約100枚。全体の長さを1200枚と考えている。第1部、第2部、それぞれ600枚ずつ。およその目分量なのでどうなるかはわからない。この100枚でまだ数時間しか時間が経過していない。2章に入っても同じ日の深夜に議論が続いているだけで、まったく動きや展開がない。これでいいのかという疑問もあるが、これがドストエフスキー時間だと考えることもできる。いきなりドストエフスキーの神髄に迫りつつある。それでいいのだと割り切りたい。しかしどこかで時間を飛ばして話をスイスに移動させたい。あるいは全体を3部に分けるというプランもありえるだろう。ペテルブルグ・スイス・スクヴォレーシニキ村の3部に分けて、それぞれ400枚。それだと原典の部分が3分の1になってしまうが、それでいいのか。まだよくわからない。先が見えないまま暗中模索だが、いまのところ気分良く書いていることは確かなので、行けるところまで行ってみたい。

05/19
大学。アキ時間に重要な対話を仕上げる。5月10日に凸版印刷からメンデルスゾーン協会がらみの演奏会へ行くアキ時間に銀座ルノアールで書いたメモが、ようやくいま形になりつつある。進行が遅れているような、すごい勢いで進んでいるような、よくわからない状態で、手探りで前に進んでいる。不安というわけではない。確実に前に進んでいるので、トンネルの中をひたすら前進するだけだ。どこかでズバッと貫通して、視界がひらけるはずだ。

05/20
河出書房の担当者が『道鏡』の見本を10冊、もってきてくれた。今年に入って3冊目の本、『新釈白痴』は年末だったから、この半年に4冊出したことになる。今年はこれで打ち止め。いま書いている『新釈悪霊』はこれから半年かかるから、発行は来年になる。しかし昔書いた『清盛』が年内にPHP文庫になる。もうゲラができている。急がないのでしばらく放っておいたが、本日、手にとって1ページ目を見た。文庫なのでルビを増やすという方針らしい。この指示がたくさんあって大変だ。すべてお任せにしてもいいが、ルビが多すぎても読みにくいので、自分でチェックするしかない。妻が出発。本日は中部国際空港の近くのホテルに宿泊して明日スペインに出発する。四日市にいる次男の嫁さんも同行するので、中部国際発の便にした。成田よりもこちらの方が楽かもしれない。まだ日本にいるわけだが、わたしの前からいなくなったので、これから1ヶ月近い一人きりの生活になる。妻は義父母の世話のために時々実家に帰るが、これほど長く不在になるのは久し振り。スペインに3人目の孫が生まれた時に、上の2人の世話のために1ヶ月ほどスペインに行っていた。その時は、1ヶ月たってからわたしがスペインに出かけていっしょに帰ってきた。長く妻がいない生活が続いたあと、戸締まりをして自分も海外に行くというのは、かなりプレッシャーがあった。一人で飛行機に乗るのも初めての経験だったし、自宅を留守にする前の点検などにも、これでいいのかという不安があった。今回は、わたしはずっと自宅にいるので、何ら問題はない。妻が帰ってくる直前に、少し掃除などしないといけないだろうが、それまでは来客などもないので、まあ、ひたすら仕事だけしていればいいということだ。

05/21
土曜日。コーラスの練習の日だが、震災以来、練習場所の公民館が夜間の利用を断っている。で、今回は飲み会だけ。飲み会だけというのはいいね。ほぼ全員集まって楽しく飲んだ。妻は朝10時の便でセントレアからフランクフルトに向かった。次男の息子2人をつれているので大変だと思うが、無事を祈る。

05/22
日曜日。起きてメールを見ると、妻はようやく日本時間の早朝にバルセロナに到着したようだ。われわれが2人で行く時は、バルセロナかマドリッドに1泊するのだが、今回は幼児をつれているので長男が車で迎えに来ることになっていた。そこから車で3時間ほどかかるからまだ大変だが、運転するのは長男だから、車の中で寝てもいい。日本にいた頃の長男の運転では寝ることはできなかったが、スペインで暮らすようになって長男は運転がうまくなった。通勤で片道1時間を走っていたし、狭い路上駐車を上手にこなすようになった。妻のメールは長男と会った時点のものなので、もう安心だ。蒸し暑かったが散歩の途中で急に風が冷たくなった。寒冷前線が通過したのだろう。

05/23
月曜日。大学。時々ある1年生の授業が2コマ。しかしいつもの学科会は休みなので早く帰れる。といっても妻はスペインなので一人で暮らしている。帰りの電車の中で天啓が来た。主人公ニコライの幼女姦について、キリーロフが重要な暗示を与えることになる。原典にはない設定。この小説によるドストエフスキー論のシリーズはすでに2作書いているのだが、『罪と罰』は主人公を変えて原典の世界を描くというのが狙いだったので、原典のストーリーを大幅に書き換えるわけにはいかないった。『白痴』はドストエフスキーの創作ノートで廃棄されたプランの再現ということなので、原典とはまったく違ったストーリーを描くことになった。今回は原典の前史を書くということなのだが、前史を書くと後半に影響を与えるので、後半のストーリーが変わってしまう可能性がある。それでもいいと考えている。ドストエフスキーは当時の時代状況という制約の中で書いていたし、初期のプランが思い通りに書けなかったところもあるだろう。だからストーリーを少し変えた方がドストエフスキーのプランがよりクリアーに実現できると感じられたところについては、ストーリーを書き換えるしかないと考えている。この作品の山場は原典発表時には伏せられていたニコライの告白の場面だが、ここの視点をどうするかがわたしの作品における課題だった。キリーロフが同席するという設定が面白いのではないか。帰りの電車で天啓を受けたというのがこれ。こういうアイデアがひらめくと元気が出る。

05/24
歯医者。文藝家協会で打ち合わせ。夜はエディターの中村くんと三宿で飲む。仕事はまったくできないかった。

05/25
ペンクラブ総会。旧理事会→総会→新理事会→懇親会とぶっつづけの会議があって、本日も仕事はできず。ただ会議中に思いついたことがあるので内職でノートにメモ。まあ、少しは前進した。

05/26
大学。避難訓練。80人ほどの学生を率いてグラウンドに避難。大学生の避難訓練というのは初めての体験。ちゃんとみんな避難してくれた。いい子たちだ。妻といっしょにスペインに行っている次男の嫁さんから研究室にメールが届いた。ホームページに写真を出したとのこと。昼休みにのんびりと写真を見る。幼児2人が飛行機で旅行するようすなどが克明にわかる。長男の自宅には広大な庭がある。そこで遊ぶ孫5人。すばらしい光景だ。自分もスペインに行きたかったと一瞬思うが、孫は遠きにありて思うものだ。

05/27
午前中は文化庁、午後は点字図書館。それで一日がつぶれる。文化庁の会議は時々午前に設定される。以前は夜型だったので、この午前の会議は起きるのが大変だったが、起きてしまえば一日が長かった。だが今シーズンは朝型になっているのでふつうに起きて会議に出かける。楽ではあるのだが一日が長いということはない。

05/28
土曜日。今週はスケジュールがハードであった。ようやく週末となった。台風が近づいているせいか朝から雨。公用が忙しく会議の合間にメモはとるものの、全体の流れが見えなくなってしまった。最初からもう一度読み返して流れをつかむ。出だしはほぼ完璧だと思う。ただ議論だけが続く展開に少し疑問を覚える。ただ長大な作品なので、出だしに動きをつけるなどといった小細工をしても仕方がない。堂々と議論ばっかりの小説だよという感じでスタートしてもいいのではないか。とにかくしばらくはこのオープニングを前提として話を進めていきたい。妻はスペインで体調を崩していたようだが、やや回復したとのこと。子どもたちは元気。日曜日に今回の訪西の最大のイベントのコムニオンがある。地球の裏側から盛会であることを祈る。

05/29
日曜日。雨。散歩に出ようと思っていたら雨が激しくなったので散歩は休み。妻がいないので備蓄された食べ物でしのぐしかない。『悪霊』と並行して『清盛』のゲラを読んでいる。この作品をいつ書いたのだろうと思って、このホームページの過去の創作ノートのリストを見ると、2000年1月〜7月ということになっている。ずいぶん時間がかかっているのは、本格的な歴史小説を書くのは初めてだったので調べ物に時間がかかったのと、早稲田の専任をやっていた時期だし、著作権の仕事も始めたばかりだったし、何より長男がスペインの女性と結婚することになって、先方の両親と会いに行ったり(中間地点で2人が知り合ったブリュッセルで会った)、いろいろと多忙だったからだ。これは途中までは「評伝」という意識があったので小説としては充分に展開していないのだが、それだけに史実に基づいて書かれている。来年のNHKの大河ドラマは『清盛』ということだが、とくに原作はないようだ。わたしとしては、『西行月に恋する』と『阿修羅の西行』で扱った世界で、そこにも清盛が登場する。とはいえ、『清盛』というタイトルの本は、この時代の歴史に興味をもった読者には最良のガイドブックだと思う。ということで、PHP文芸文庫に入れてもらうことにした。いま2章の半ばを読んでいるのだが、前置きの歴史的な説明が長すぎる。これは「評伝」という意識が働いているからだし、まだ書き慣れていないということもある。しかし物語が動き出せば、この時代は登場する人物像がクリアーなので、大河ドラマ向きではないかと思う。

05/30
月曜日。ウィークデーが始まった。今週は水曜日が公用なしの日なのでゆとりがある。大学。1年生の授業があるので3コマやってから会議。この会議が長く疲れた。授業そのものはまったく疲れない。今シーズンはマイクを使わないようにしている。立って腹式呼吸で大声を出した方が疲れが少ないことが判明した。全身が活性化するからだろう。散歩をした方が疲れが少ないのと同じだ。会議も黙って聞いているよりも大声で発言した方が疲れが少ない。大声を出すとたまっていたものが発散され、気分的には楽になるからだろう。だが大学の会議は、まだ新参者なので意見を述べる機会が少なくかえって疲れる。発言できない会議はストレスがたまる。
帰途、吉祥寺の駅で福島県の野菜を売っていた。複雑な気分になる。原発被災地の野菜が売れないのは風評被害ではない。基準値を下回っていても微量の放射線があることは事実で、その基準値が国際水準よりもはるかに高いものだから、けっして安全ではない。しかも今後30年経っても放射能はやっと半分になるにすぎない。福島原発ではメルトダウンによって原子炉の中身の放射性物質が漏れたところで水素爆発が起こり、放射性物質が福島県全域に飛散した。飛散した放射性物質は、ヨウ素が放射線を出して無害かしたほかは、セシウムもストロンチウムもプルトニウムも、福島県全域の地表上に降り積もったままだ。これが風によって舞い上がり、さらに広範囲に拡がっていく。地中にしみこんで地下水で移動する。今後1年、2年経ったくらいでは、放射能は減らないどころか、増えるおそれさえある。魚や海草が水揚げされるからだ。セシウムは消化吸収されないから無害だという学者がいるが、明らかにトンマな言説だ。排泄物は下水に流れ、川を流れる。それよりも魚の一部はゴミとなって焼却され灰が飛散する。残り物の一部はブタやニワトリのエサになる。そのようにして放射性物質が無限に循環することになる。わたしは還暦を過ぎているので、放射性物質によって発癌する前に死んでしまうだろう。だから自分にとってはどうでもいいことなのだが、子どもや、これから子どもを生む若い女性が放射性物質にさらされるというのは、あってはならないことだ。日本は何という呪われた国だろう。ヒロシマ、ナガサキに続いて、今度はフクシマと、3度も被曝した国、それもアメリカが原爆を落とすなどということは「想定外」であった、あるいは日本がアメリカに負けるなんて「想定外」であったという、集団愚行による自業自得である。こういう日本国に生まれ、日本語で語り、日本語で本を書いているわたしとしては、日本という国について、日本人という民族について、もう1度、根底から考え直さなければならないと考えている。

05/31
月末。本日は午後、著作権と言論の自由委員会。1時間ほどアキ時間があったので、銀座のルノワールでひたすらメモをとる。今日1日分の仕事をした。夜、中学校の同窓会。7人集まったのだが、ほぼ全員、45年ぶりくらいの再開。え、みんなリタイアしてるの、という感じ。一流企業に就職した人々は60歳できっちり定年になって悠々自適という感じになっている。今年、専任になって就職したわたしは何をしているのか。一人だけ、ワーカホリックから抜け出してない感じて、忙しいことを誇りに思っていたりするのだが、それってヘンなことなのた。でも、作家には定年がないから、死ぬまで書き続けるしかないと思っている。


次のノート(6月)に進む 4月へ戻る

ホームページに戻る