大杉 栄

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生は永久の闘いである。自然との闘い、社会との闘い、他の生との闘い、永久に解決のない闘いである。(「むだ花」1914)

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主人に喜ばれる、主人に盲従する、主人を崇拝する。これが全社会組織の暴力と恐怖との上に築かれた、原始時代からホンの近代に至までの、ほとんど唯一の大道徳律であったのである。

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征服の事実がその頂上に達した今日においては、諧調はもはや美ではない。美はただ乱調にある。

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自由と創造とは、これを将来にのみわれわれが憧憬すべき理想ではない。われわれはまずこれを現実の中に捕捉しなければならぬ。われわれ自身の中に獲なければならぬ。

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20001.1.1

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アナーキスト、パンクロックを聞いたことのある人なら、馴染み深い「イスト」の一つだろう。パンクとアナーキストの連想は一時期よりも薄れているし、直接は関係がないのが、1976年あたりのイギリスの若者の、特に労働者階級の若者のがもっていた空虚な過激性をイメージとしてよく伝えるものである。しかしアナーキストって一体なんなんだ。

日本にも有名なアナーキストがいた。前世紀のはじめに世間を騒がし、関東大震災の混乱のなかで、かの甘粕雅彦に虐殺されたと語られている無政府主義者=アナーキスト、大杉栄である。日本史の教科書にはおそらくは今も載っているだろう。いや載っていないかもしれない。必ず載っているはずことと関連づければ、「大逆事件」で死刑となった平民社の幸徳秋水が弟として接した人物である。

私が大杉を知るのは、小学生の時に読んだ本からだった。なだいなだか誰かの本であった。どんな内容だったか忘れたが、その無政府主義にエラク感動したのだった。真の自由があると思った。なんとなく息苦しさを感じはじめていた社会に対して、こんなにも切れ味鋭く斬り付ける思想があるのかと感動したのだった。その感動を素直に父に話したら、困った顔をしてしまった。その後、彼は私が本を読んでなにかを言う度にいらだつようになっていった。まあそんなことはどうでもいい。

大杉のことをまたここで考えて見ることは、俺的にすごく意味のあることだと思い立ったわけで、彼の著作をめくりかえしてすかっとするような言葉をならべてみたい。

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運動には方向はある。しかしいわゆる最後の目的はない。(「生の創造」1914)

久しく主人と奴隷との社会にあった人類は、主人のいない、奴隷のない社会を想像することが出来なかった。人の上の人の権威を排除して、我みずから我を主宰する事が、生の拡充の至上の手段であることに想い至らなかった。

彼らがただ主人を選んだ。主人の名前を変えた。そしてついに根本の征服の事実そのものに斧を触れることをあえてしなかった。これが人類の歴史の最大誤謬である。(中略)

われわれの生の執念深い要請を満足させる、唯一の最も有効なる活動として、まずかの征服の事実に対する反逆が現れた。またかの征服の事実から生ずる、そしてわれわれの生の拡充を障碍する、一切の事物に対する破壊が現れた。

そして生の拡充の中に生の至上の美を見る僕は、この反逆とこの破壊との中にのみ、今日の生の至上の美を見る。征服の事実がその頂点に達した今日においては、諧調はもはや美ではない。美はただ乱調にある。諧調は偽りである。真はただ乱調にある。

今や生の拡充はただ反逆によってのみ達せられる。新生活の創造、新社会の創造はtだ反逆によるのみである。(「生の拡充」1913)

僕の生のこの充実は、また同時に僕の生の拡張である。そしてまた同時に、人類の生の拡充である。僕は僕の生の活動の中に、人類の拡充を見る。(「生の拡充」1913)

僕は今、日本のボルシェヴィキの連中を、たとえば山川(均)にしろ、堺(利彦)にしろ、伊井敬にしろ、荒畑(寒村)にしろ、皆ゴマのハイのような奴らだと心得ている。コマのハイなどとの共同は真っ平ごめんこうむる。が、ここにまだ付け加えていっておきたいのは、奴らが本当に資本家階級と闘うときには、僕だってやはり、奴らと同じ戦線の上にたっって、協同の敵と戦う事を辞するものではない事だ。

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