遊びについての断章

JRAのCMのために書いた原稿。
実際に使われたものはこれからの抜粋である。
このCMのなかでの寺山は得意の肩かけコートで町をあるき、府中のスタンドをバックにたたずむ。
その後ろであの独特の語り口でこの断片を朗読していた。

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かもめは飛びながら歌をおぼえ

人生は遊びながら年老いてゆく

 

遊びはもうひとつの人生である

そこにはめぐり逢いも別れもある

人は遊びのなかであることを思い出し、あることを忘れ、そしてあることを捨てる

 

人はだれでも

遊びという名の劇場をもつことができる

 

悲劇 喜劇 活劇 メロドラマ

そこで人は主役になり、同時に観客になることもできる

 

ぼくは人力飛行にあこがれていました

飛行機はただの道具にすぎなかったが、飛ぶことは思想でした

ぼくあ大空を見あげて思いました

プライバシーなんかいらない

フライバシーがほしい、と

 

遊ぶことは 冒険することであり、

ためすことであり、知ることだったのです

 

ぼくは「運の悪い女」がきらいです

なぜなら「運の悪い女」には、人生が一つしかないからです

遊びは、不運な人たちにも

「もう一つの人生」があることを教えてくれるのです

だからぼくは、いつでも自分に掛ける

 

どういうものか「誰が故郷を思わざる」という歌をうたうと、ツキがまわってくるんです

はじめて競馬場へ行ったとき

はじめて玉突きを覚えたとき

はじめて女を口説いたとき

 

だからぼくは

皆で一度、一緒に唄ってみたらいいんじゃないかと思っているんです

政治の悪い時代には、「誰が故郷を思わざる」でも唄ってみる

そういうもんじゃないのかな、遊びなんて

 

人生が終わると、遊びも終わってしまう

 

しかし、遊びが終わっても人生は終わらない

 

遊びは何べんでも終わることができるから、何べんでもやり直しができる

 

出会いと別れのくり返し

 

そこが遊びのいいところなんだね

 

人生では敗けられないが、遊びなら敗けられる

 

そして敗けを知ったものだけが味わえる風景というものがある

 

「誰が故郷を思わざる」なんて唄は

競馬をやったことのある者にしか、味わうことができない唄ではないだろうか

 

 

人生が、いつばん安上がりの遊びである

 

死が、いちばん高くつく遊びである

 

 

遊びは、人生の時刻表である

 

人はそこに立ち止まり、自分の乗る汽車をえらぶ

 

人生は汽車である

旅をしながら年老いてゆく

 

 

遊びは不幸な人間の第二の人生である

 

遊びは不幸な人間の第二の魂である

 

人は誰でも、もう一つの人生をもつことができる

それは遊びである

ドストエフスキーは言っている

「一杯の茶のために、世界など滅びていい」

 

夢の中で無くしたものを

 

目がさめてからさがしたって見つかる訳はない

 

現実で失くしたものを、夢の中でさがしたって見つかる訳はない

 

人は誰でも二つの人生をもつことができる

 

遊びは、そのことを教えてくれるのです