寺山修司の83年のクラシック

そしてミスターシービーはダービーを制した

1983年5月4日 午後12時5分 から14年です。
ちょっと思い出すことにします。

1997年5月4日

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寺山修司の競馬好きは有名で、そのエピソードは事欠かきません。なにか一癖ある馬や騎手が好きで、予想も住所ひっかけたり電話番号、あるいは単純に馬名から、または”8面サイコロ”なるものまで独自開発し転がしてみたり。競馬はやってみると、そういう予想で大穴あけるのは、予想紙を見てそのとおり買う場合より、回収率はにはきわめて不利ということがわかる。寺山流馬券を素直に受け入れ競馬を始めた私は、馬券の予想というより、寺山だったらどの馬が好きだろう、という予想して馬券を購入していたので大損ばかりしていた。

駆け出しの私には一見叙情的な馬券予想が、実は調教タイムや馬場状況を踏まえた予想が多いことに気付かずにいた。山口瞳いわく「彼の6点買いは考えてみれば日本の競馬予想の中でもっとも有効かもしれない」要するに4頭の有力馬を選びだし、それらの組み合わせをすべて買うと6点になる。ちなみに3点なら有力馬を3頭選んで、それらの組み合わせをすべて買うと6点になりる。寺山の時代には馬連はありませんでしたから、すべての連勝複式馬券をを買っても48通り、そのうちの6点だからどのレースでも当たる確率は8分の1です。オッズにより購入金額さえ気をつければ損はせず、まあまあの確率で的中し、大穴、中穴も当てることができたようだ。だじゃれのように見えて、実はきっちり予想したあとでそれにあわせてネタを考えていたということに私が気付くのは、一通り競馬でを体験してからだった。

でも住所予想がコンスタントに的中するわけはなく、それを揶揄するようにこう尋ねたといいう。「結局、平均すれば負けているでしょう」。それに対してこう切り返したそうです。「なぜ平均する必要があるのか。あんたの人生は平均すると笑ってますか、泣いてますか」と。

最後まで連載を続けていた報知新聞の予想コラムでの最後の予想はさつき賞だった。内容的にはミスターシービーが勝つとなんらコメントをつけず、さらっといってのけ、2着探しをしている。今年はミスターシービー時代になるかもしれない、としめている。最後の最後にスシ屋の政が顔をちらっと覗かせているが。

このミスターシービーは結果的に3冠馬になり、シンザン以来約20年ぶりの快挙をやってのけ、ジョッキーの吉永に初のクラッシック制覇をもたらしました。寺山の吉永に対する気持ちを知っているものは、この姿をみせてあげたかったと思ったに違いない。

吉永は追い込みを得意の戦法にしていた。いわゆる直線一気というやつだ。直線に勝負をするので、それまでの道中はなるべく馬群で周りに壁のできないところを選び、ひたすら自分のペースになるまでじっとしている。必然的に後ろの方で競馬をするので、その馬の馬券を持つことは、わかっていてもひやひやしながら見守ることを意味する。最近の競馬はスローで流れることが多く、このような流れでは追い込みしかできない馬は勝ち切れない場合が多く、また騎手も追い込みはよほど馬に自信がある場合にしか用いないのは寂しいが。(でも今年の春の天皇賞はひさびさ凄い快感でしたが)

でもこの追い込み馬の魅力はたまらないものがある。なにせ最後のほんの10数秒でそれまで後ろにいた馬が、まとめて追い抜きものすごい勢いでゴールを駆け抜けるわけで、その馬の馬券をもっている者のカタルシスはそれでいくら儲かるかなどということがどうでもよくなってしまうほどではないだろうか。

吉永とシービーも追い込みを戦法としていた。スターとは他馬より2テンポくらいおくれてでて、馬群から1頭おくれてぽつんとしたところで出番をまつ。3コーナーすぎたあたりで馬群にくらいつき始め、4コーナーの終わりで先頭に並びかける勢い、直線ののこり200ぐらいで他馬を圧倒し、わずかの差ができたところでゴール。馬とジョッキーの呼吸が一体となっているからできることで、どの馬もできるわけではない。

寺山は吉永が大きなレースにでてるると迷わず吉永を買っていた。寺山は吉永がについて次のように述べている。

「(中略)吉永の乗るうまはいつもポツンと遅れて一頭だけで走っていた。出遅れたのでも、あおったのでもないのに、スタートするとすぐ、ズルズルと下がって行き、他馬の群れから十馬身以上離れて、一頭だけで走って行くのである。それは「はるか群衆を離れて」という映画のタイトルを思わせる、ひどく孤独なレース運びなのである。だが、吉永は直線でこの遅れを一気に取り戻し追い込んでくる。稲妻のような切れ味を見せられたことあるファンは、いつのまにか吉永の”最後強襲戦法”を好きになり、遅れて行く吉永に不満を述べなくなった。要するに吉永に”まかせる”のである。」「直線でも決して内いっぱいに馬ごみを割ってくるのではなく、いつも大外からやってくる吉永である。ただのレース展開などではなく、ほとんど宿命といっていいほど、吉永の身についた孤独の性格のあらわれではないだろうか?」「私の考えだけを言えば、吉永正人は当代随一の名騎手である。(中略)馬主各位。調教師各位。もっと吉永に乗るチャンスを与えてやってください。人生で一番大切なものを失った男は、きっとレースで何かを取り戻すはずである。」

ことわっておくが、吉永は追い込みしかできないジョッキーではなかった。スタートはうまく馬によっては先行もできる。初めて天皇賞を制したモンテプリンスは先行だった。

シービーが皐月賞にでる前の年、モンテプリンスで天皇賞に臨んだ吉永は、それまでいわゆる四大タイトル、クラシックに縁が無かった。連続敗戦記録を伸ばしていた。モンテプリンスは追い込みではなかった。先頭から5、6番手で道中すすみ直線で早めに仕掛ける。85回の天皇賞の予想を寺山はこう綴った。「今日は吉永正人が男になる日だ。」と。その期待に応え、モンテプリンスは前年の有馬記念馬のアンバーシャダイに1と4分の1馬身差をつけて、見事悲願のG1を制し、吉永を男にしたのだった。その後モンテプリンスは宝塚記念も勝ち、6歳にしてようやく才能を開花させた。やっと記録として自分の名前を残せたのは吉永も同じだった。

そのモンテプリンスは4歳時、皐月賞に出走したが雨にたたられ4着に敗れた。一転馬場に恵まれたダービーでは惜敗の2着。菊花賞でもノーガストの2着とあと一歩のところでとどかなかった。そして巡り会った、ミスターシービー。残り少ない命を自ら公表した寺山にとって最後の春になるかもしれない年に、吉永が追い込みを得意とする馬で、それも順調にクラシックロードを歩んでいる。春がなかなか訪れなかった男が待ちづけた栄冠に突き進んでいる。自分の長年の願いも現実のものになろうとしているなか、死が間近に迫っている。寺山はどう思ったのだろう。このことについてどう思ったのだろう。死に行く自分とシービーと吉永でどんな夢を描いたのだろう。

83年4月17日、皐月賞は雨が降りしきり、不良馬場という試練の場を若駒たちに与えているようなコンディションで行われた。どろどろの馬場の中、人間たちのいろいろな夢の力で育てれられてきた21頭のなかで、シービーは単勝2.4倍の一番人気。いつものように後方からゆっくり追走する。前の馬がはからずも蹴り上げて行く泥をまともにかぶり、またたくまに勝負服の緑と白を汚してゆく。第4コーナー手前で、前にはまだ10頭以上、ただ1頭の黄色い帽子が躍動しはじめる。ゴール前200メートルで先頭に立ち、2着メジロモンスニーを半馬身抑えてゴールまで駆け抜けた。寺山はこの日、皐月賞の行われた中山競馬場まで脚を運び、この瞬間を直接みている。「強いねえ。いや、強いねえ」とうなった伝えられている。この日から5日後に寺山は倒れ、そのまま5月4日の午後12時を迎えるのだった。

ミスターシービーと吉永は5月の末に行われたダービーも、今度は良馬場の中で再びメジロモンスニーを豪快に負かし、2冠馬になった。秋になりトライラルで追い込み馬の難しいところをみせ一度はやぶれたものの、本番の菊花賞を2着に3馬身をつけて快勝し、19年ぶりの3冠馬となり、この年の年度代表馬に選出された。

寺山の死について、私は未だに納得できていない感じがある。一つの理由として、シービーが勝った皐月賞についての感想を読んでいないからかもしれない。「墓場まで何マイル?」とうそぶいた詩人に何か釈然としないざらっとしたものを感じる。生に未練はなかったのか。死は怖くなかったのか。自分の影はもっと自由を欲しがたりしまかったのか。

亡霊となって這い出してきたみたいに、寺山が読まれたり語られたりするのを目のあたりにするとき、墓場まで60年代を抱えていったみたいな評価しかないような気がして、何となくさびしい。やはり現代においては、そういう使われ方しかしないのかと思うと、死んだら終わりだなとも思う。

私にとってすくなくとも言えることは、夢を買える競馬の楽しみかたを教えてくれたのは寺山修司だった。「(100万人のファンの幻想の中で100万のちがったレース展開をもつダービーが行われたときにこそ)、幸運は1つの時代に明るい光の矢となって降りそそぐことになるであろう」「必勝を獲得し、偶然を排したとき、人は『幸運』に見捨てられ、美に捨てられる」負ける楽しみだけはこの14年でわかったような気がしますよ、寺山さん。

1997.5.4
Smash It Up

参考文献

宝島社刊 競馬場で逢おうシリーズ

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