御台所「日野富子」のお墓
  
 “石蓮寺みんなの森”からの帰路、熊山町役場方向に車を走らせておりますと、「足利義政公供養塔・御台所“富子”の墓」の案内 板が眼に入りまして、“なんで、この地に日野富子のお墓が…”と想いながらも立ち寄ってみました。

 標識に従って進んで行きますと、“小川山自性院”と言う古刹の客殿の裏に確かに存在しました。
 何故、日野富子のお墓がこの熊山の地に有りますのか、歴史に疎いGONsanにはよく分かりませんでしたが、お墓の側の表示板に眼を通しましてヤッと理 解が出来ました。

 都を追われました“日野富子”は、この熊山の地で静かに余生を送られましたようですネ。
 遠い昔の室町期に想いを馳せ、何となく感慨深い気持ちになってしまいました。

 熊山町は、歴史に詳しい方々にとられましてはなかなか興味深い地であるようですねぇ〜

 
 日 野 富子

 今で言うバリバリのキャリアウー マン、応仁 の乱のきっかけをつくり、そして終わらせたそのスケールはとてつもなく大きい。戦乱の世にあって、強くたくましく、そして華やかに生き抜いた日野富子の生 涯に比して、今に伝わる史跡は少なく、今日その栄華を偲ぶことは実に難しい。
 
 宝亀11年(1440)〜承和3 年(1496)。九代将軍足利義尚の母。1455年、室町幕府8代将軍足利義政と結婚。富子にははじめ子供が授からなかったので、義政は自分の弟を還俗さ せ 将軍職を継がせようとした。

 しかしその後富子は義尚を生み、我が子を将 軍に立てようとしたことが応仁の乱の一因となった。政治的混乱のなかで、夫の義政が政界から逃避し、内面的生活に没頭していくのに対して、利殖の才に長け た富子は、京の七口に新関を立てて関銭を徴収し、米相場にも介入して利益を上げ、しかもそれらをもって高利貸的営為によって蓄財、「有徳の仁」といわれ た。
 
 1440〜96(永享12〜明応 5)日野政光の娘で室町8代将軍足利義政の正室、9代将軍義尚の母。法号を妙善院。1455年(康正1)、兄勝光のはからいで16歳にて義政の正室とな り、女子二人を生むが男子はなく、そのため義政は弟義視をもって後継者と定めたが、その直後、富子は義尚を生み、彼の将軍就任を画して山名宗全を頼ったため、幕閣は義視派と義尚派に分かれて応仁の乱勃発の 直接 的契機となった。

 夫義政の現実逃避的生活とは対照的に活発な行動力によって兄勝光とともに政治に深く関与し、なかでも銭貨の流通に鋭い目をむけて、利殖に 才を示した。京都諸口に新関を設けた関銭の徴収、米相場への介入、武将への融資などがそれで、「有徳の仁」などと呼ばれた。しかし義政との不和はよく知ら れ、また子義尚には先立たれるなど家庭的には恵まれなかった。

 なお没後、彼女の遺体は葬儀費調達の理由をもって20余日、室内に放置されたという。京都宝 鏡寺に木像がある。

“日野富子”のお墓です 左端が足利義政公の供養塔です 撮っておりませんで申し訳ないのですが…

沢原宝篋印塔二基(町指定)

 小川山自性院と言う古刹の客殿の裏に、三坪程度の墓地があります。左が(写っていませんが)足利義政公供養塔で、右が富子の墓です。室町期の 作風をとどめています。

 


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