百間川散策マップ
 
 
 
@AB
@祇園大樋:祇園大樋は旭川下流の左岸平野をうるおす古田樋尻川用水、新田用水、後楽園用水の五双からなる分水樋門の総称。元禄5年(1962)、津田永忠が沖新田を開発したとき、氾濫用水の確保を図るため築造したものとされている。樋門はたびたび改修されて来たが、古田樋尻川用水の西樋も一部については築造以来まったく改修の手が加えられておらず、築造にあたった石工の技術水準の高さを示していると言えるだろぅ。

A一の荒手:宇喜田秀家は岡山城防備のために城を囲むように旭川の流れを迂回させる大改修を行った。しかし、その結果、城下はたびたび大洪水に見舞われ、時の藩主池田光政は、城下を洪水から守るために熊沢藩山の「川除けの法」に基づき津田永忠に命じて百間川築造に着手。その手法は、三段の荒手の設置によって遊水池と放水路を巧みに組み合わせて流速を抑え、土砂を流れにくくして、下流の被害を軽減し、重層的に洪水調節をしようというものだった。一の荒手はその第一の荒手で、旭川との分岐点にあたる。

B百間川緑地:昭和63年から供用開始した緑地。現在公開されているのは、10.77f。一の荒手わきに整備された石造りの水路がある。散歩コースに適している。

CDE
C二の荒手:一の荒手築堤後の貞享3年(1686)、荒手を大改造して三段方式に築き直し、これが現在に至っている。旭川の流入口に一の荒手、百間川の分流口にあたる中島と竹田の間に二の荒手、さらにその奧に三の荒手(現在はない)が設けられた。これにより旭川の水量が増すと、一の荒手が切れ、一の荒手と二の荒手の間に貯蔵され、土砂を沈殿させ、さらに増水すると二の荒手、三の荒手が土砂の流出を抑制しながら百間川に流入する方式となっている。かっては、川の中を道が走っていた。

D親水公園:原尾島橋上流にある多自然型川づくりの考え方を基に造られた公園。祇園用水の石を使ってできたオブジェもある。水路を造り水に触れられるようにしている。

E原尾島遺跡:原尾島から国道2号線百間川橋の一帯を原尾島遺跡という。竪穴住居や倉庫跡、井戸の跡などが見つかり、その周辺には水田跡が広がっている。弥生時代最期(約1800年前)を中心とした竪穴住居跡が約120軒も重なり合って見つかっているのが特徴。昭和49年(1974)から改修工事が進められ、その過程で遺跡のある事が分かった。これらの遺跡は縄文時代の後期から弥生時代、古墳時代、鎌倉〜室町時代までの生活の跡が折り重なるように残っている。

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F沢田遺跡:古墳時代の竪穴住居が数十件見つかり、住居の側には倉庫や井戸、土器などの生活道具がたくさん出土した。当時、この地域の中心は、沢田地域から原尾島に移っていったと考えられている。また弥生時代の水田跡も残っており全国的にも注目を集めている。

G兼基・今谷遺跡:兼基・今谷遺跡では直径が1bもある穴が沢山発見され、この穴は長方形に並んでいることから、建物の柱を立てた跡だと推測されている。竪穴住居が多い普通の村と違っており、遺跡からはガラスが多く発見することから、ガラス作りに関係した人々の住居跡とも考えられている。

H米田遺跡:米田遺跡では奈良時代(1200年前)から室町時代(500年前)にかけての川の跡があり、川岸や川の中から堤防状の護岸(奈良時代)、堤防(平安時代末)、橋(室町時代)などの構造物が発見された。これらのうち橋の遺跡(写真参照)は、長さが約40b、幅2.3bに及ぶ大規模なもので、捨て石や木枠などの橋の基礎が見つかり、当時の土木技術を考える上で大変貴重なものとされている。

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I笄の井戸:操山山塊の東端に位置する柾木城が、宇喜多直家に攻め込まれた時、内室玉尾は姫を抱きこの井戸に身を投げたという。命日に最明寺の和尚が供養したところ水面に笄(女性の髪飾り)が浮かび上がったという伝説が残っている。直径約2bの石積みの井戸。中川端上流の河原にある。

J庄内川水門:大正時代に建造された水門で、現役。海吉橋北側の田んぼの中にある。昭和51年9月の17号台風の豪雨で百間川に合流する庄内川流域の3503戸が浸水被害を被った。これを契機に同流域は河川激甚災害対策特別緊急事業に採択され河道のショートカットと共に合流点に水門と排水機場が建設された。工事は昭和53年に始まり、55年に完成した。

K百間川築造300年記念碑:築造以来300年にわたる水との闘いに一生を打ち込んだ幾多の先人の功績をたたえ、百間川及びその周辺の山々を模して配している記念碑。万成石を素材とし前長野県知事の揮ごうによる記念碑。昭和61年10月28日の記念式典で除幕された。

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L沖田神社と開墾遺跡碑:沖新田に入植した人達の氏神様として元禄7年(1694年)、現在の社殿がある所から約1`南に造営され、宝永6年(1709)現在の場所に移された。岡山藩では、人口増加に伴う耕地不足から新田開発を計画。この事業に着手した津田永忠は、まず松崎新田、金岡新田を手掛け、延宝7年(1679)には鎌倉三新田、元禄9年(1696)には沖新田を完成させた。沖田神社境内にあるこの記念碑は、明治24年4月、開墾200年を記念して建てられた。新田開発の偉業をたたえている。

O雄町の冷泉:旭川の伏流水がわき出したもので、江戸時代は池田藩の御用水井戸として知られ、番所と水奉行を置いて監視していたほどである。水は深みのある柔らかい口当たりでよく透き通っており、茶会などにも重宝されていたという。昭和61年には環境庁が全国の名水百選を指定したとき第一次に指定された。

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M河口水門と水門碑:戦後一時中断されていた百間川の改修事業は、昭和38年の百間川河口水門工事を契機に始まり、昭和40年度からは第二次治水5ヶ年計画として本格的に再開した。河口水門は全長147b、海岸堤防895bで、昭和42年度に完成。児島湾に面しており、水門の上は車での通行が可能。水門碑は、百間川河口水門東端に河口水門の完成を祝い明治25年に建てられたものである。

N沖新田干拓三百年記念碑:耕地不足を解消するために岡山藩では明暦3年(1657)に新田開発計画を立て新田開発に着手した。そのなかでもっとも大規模だったのが沖新田(1500f)だった。完成したのは元禄9年(1696)だった。その沖新田の干拓事業300年を記念して建てられた記念碑で、水を生かした公園として市民にも親しまれている。また、併設してテニスコートもある。


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