阪神大震災の記録
わが家 の震災後24時間

 1) 1995年1月17日 5時46分

 2)揺れが止まった直後

3)情報,通信

4)ガス漏れ

5)被害調査

6)生活の確保

7)地震後の火災の恐怖

8)阪神大震災に思うこと

9)あとがき

写真集

1) 1995117日5時46分

「ゴーーー」という騒音で目を覚ました。深夜に暴走族のけたたましい騒音で目を覚ましたことは今までにも時々あった。この騒音を聴いた時は、まだ半眠り状態で初めの瞬間はまた暴走族が来たのかと思い布団の中で半睡眠の状態を続けていたが、大魔神のうなり声のような不気味な音を発して世の中全体が震えているようで「これは何か」と感じ始めた。

それも時間にすればほんのわずかで、次の瞬間、「ドドーン」という最初の強烈なショックが襲ってきた。机の上をたたくとピョンピョン飛び上がる紙相撲の如くと云えば可愛いが、遊園地で大きなハンマーで台をたたくと重りがビューンと飛び上がって頂点にあるゴングを鳴らす様な衝撃があった。この衝撃で自然にベッドの上でガバッと起きた。 その時はまだベッドランプのほのかな明かりの中で、家内の方向も見えたが、家内も同様にガバッと起きていた。 全く無意識で次の衝撃を利用した形になって、その反動の瞬間に家内をベッドとベッドの間に引きずり込んでいた。

この頃から、これらの衝撃と前後左右上下の組合わさった複雑な動きが始まった。三回目の 衝撃はもう何がなんだか分からない状態で起こった。わたしの記憶では結果として衝撃は三回あった。その後の動きは、時化の中を水上航行する潜水艦の中のあの強烈な動揺、 遊園地で部屋の中に入った後部屋がグルグル回るあの乗り物、小型の飛行機が乱気流の中に入って上下左右に激しく揺れる感じ、まあ何に例えても適切な言葉が見あたらないような、この世の終わりの中に入った感じであった。その時はすごく長く感じた。家がきしむ音、大小様々な物が落ちる音が地鳴りと混ざりあってこの世の物と思えないような状況になった。今何をすべきかという思考力は全くなかった。「次の振幅で家が倒壊するのではないか。」「まだ保っている。」「潰れる時は木がずれてきしむ様に初めに何か特別に変わった音がするので分かるのではないか。」「倒れるときはどの様になるのか。」この様な思いが走馬燈のように入り交じって瞬間ではあるが考えていた。上から額が落ちてきて手で払い、長刀のような天井の回しぶちが落ちてきて手で払っていた。その時は何が落ちて来たのか分からなかったが、後で明るい時に見て落ちてきた正体が分かった。とにかく、いつ真っ暗になったのかは覚えていないが、腰が立たないほど揺れていた。緊急マニュアルがあっても何もできないだろう。腰が抜けたとはこのようなことを云うのではないか。

真っ暗な中で目は見えず、身体を支えるのがやっとという状態で、揺れながら聞き耳を立て音だけが頼りだった。その為声を出すこともできなかった。この時はすでに眠気は吹っ飛んで、極度に興奮状態であった。たぶん血圧はかなり上昇していたと思う。後で聞けば揺れは20秒間程度であったと聞いたが、実感はもっと長いとも短いともどちらにも感じる。未体験ゾーンに入り込んで訳が分からぬ程興奮していたのではないかと思う。昔南海地震の経験や,8年間の東京在住の時に震度四程度の地震しか経験していなかった私にとって,今回の地震は全くイメージが違う別の定義が必要なものであった。今まで経験した地震は赤ん坊を寝かせる揺りかごのような物だと思った。

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2) 揺れが止まった直後

揺れが収まって、助かったと思った。状況を知った上で次ぎの行動を起こさないといけない思うが、最初に声を出したのは、姿勢はそのままで、「懐中電灯はどこだ!懐中電灯!懐中電灯!」と叫んでいた。真っ暗な中で家の中の状況が全く分からず、うかつに動けばまずいと思った。かなり前に災害用に大きなトランジスタラジオ付きの懐中電灯を買っていたがどこにあるのか思い出せない。懐中電灯はわが家に何本もあるはずだが全然思い出せない。その時息子の「お父さんお母さん、大丈夫か、履き物を履かないといかん、 何か暖かい物を着ないといかん」と云う声が聞こえた。この声で家内は電灯の在処を思いだし素早く行動を起こした。懐中電灯の明かりで、私も、パジャマの上からズボンをはき、セータを着て靴下をはきその上からスリッパを履いた。観音開きの収納扉が開いて中の物がほとんど外に飛び出し山をなしていた。ジャンパーを引っかけながら寝室から抜け出す為に、倒れてきたり、飛び出してきて積み重なった物の上を乗り越え、踏み越え、力任せに横へ押しのけて出た。

離れの母屋の祖母がどうなったか最初に気になり、台所から裏口に出ようと思った。廊下と階段は元々物を置いていなかったので歩きやすかったが、食堂の床は食堂にあった物と台所から飛散してきたガラスと陶器のかけらが一面散らばっており、足でそれを横へ払いながら台所の方を見てびっくりした。収納棚と流しの間に割れた食器等の山ができていた。良く見れば、電子レンジ、トースタ、ミキサーから、鍋、缶詰、包丁など台所用品が食器と重なり合って殆ど全部落ちているようであった。やむなく書籍などが散乱した応接間から裏庭に出て、懐中電灯の光を頼りに母屋に向かった。

庭には落下した瓦が散乱していた。上を見ると,屋根のひさし部分に半分迫り出しバランスして止まっている瓦が多数見られた。時折「ドドーン」と来る余震が続いており,瓦がいつ落ちてくるか判らなかったので気味悪かった。母屋に侵入するために息子が半分はずれかかっていた雨戸を外から外し、レールからはずれ鍵のかかっていたアルミサッシの扉を強引に外に引きはずして家の中に入った。一歩、歩く度にガラスの割れる音がした。倒れたタンス、テレビ、鏡台、 ガラスの割れた人形ケースの間のコタツの横で布団の中にうずくまっていた祖母を息子が発見し、その場で履き物を履かせて祖母を連れだした。後で明るくなってから良く見れば、祖母の居た僅かな場所だけを避けて大きな家具が倒れていた。掛け布団の上から そこら中に刀のような形の鏡やガラスの破片が散らばっており、又土壁が落ちて随所に土の塊の山ができており、怪我一つ無かったのは奇跡的だと思った。

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3) 情報,通信

 

次に思ったのは、同居していない親戚・知人の安否の確認であった。電話をかけようとしたが、うんともすんとも音が聞こえず何の反応もなかった。電源が切れている、既に停電になっていたのだ。留守録付きの最新の電話機は停電時には作動しない、何の役にも立たないことがわかった。古いダイヤル式の電話機が割合と簡単に見つかり出してきて接続し直した。短縮番号が使えない,電話帳がどこに行ったか分からないので記憶を頼りにかけ、こちらの安全を知らせ,先方の安否の確認電話を続けた。地震直後のまだ暗い内,電話は普段と変わらず直ぐにかかった。この電話で震災のひどい地域が大体想定できた。

一方現在の状況を正確に把握するために、携帯ラジオをかけようと、懐中電灯に仕組まれたラジオのスイッチを入れたがうんともすんとも音が出ない。電池が切れていた。  カーラジオなら鳴るだろうと思って、車に走った。車の上に瓦が落ちてきて,車の  ボディーはボコボコで,窓ガラスも割れていたが,幸い車の扉が開きラジオのスイッチ入れたが音が出ない。車のキーが入れていないことに気が付き、キーを探しに家の中に入った。キーを探して車に戻りやっとラジオが聞けた。次々と入る神戸の被害の状況。しかし、NHK放送は死者数十名と連呼していた。通りへ出て懐中電灯で照らし周りの状況を見て歩いた。見るに連れ、災害状況の放送がいかに現実とかけ離れているかが分かった。木造住宅の1階が横滑り倒壊しその二階が斜めに道路上に鎮座していた。同じような倒壊家屋が 何軒もあった。又すぐ横の鉄筋の中高層のアパートの1階が倒壊してその1階の駐車場の車のヘッドライトが前方の道路を照らしながらクラクションを鳴らし続けていた。 その音は車が発する断末魔のように聞こえた。ほんの十分と歩かぬうちに全壊の家屋をいくら見たか覚えていない。まともに建っている住宅の方が少ない。これは大惨事だと分かった。家に戻ってすぐに乾電池を探した。ロッカーの扉の前に落ちている物をのけて電池を出した。懐中電灯の中のラジオの電池入れに電池を入れた結果ラジオを歩きながら聞けるようになった。ラジオの放送を聴いても西宮・芦屋・東灘など東の方の情報しか入らない。暫くして灘・中央区と東の方から神戸市の状況が入るようになった。その内に兵庫区と長田区の火災の情報が入ってきた。この時程,情報の一極集中化が進んでしまっていることを身にしみて感じた事はなかった。即ち、東京から始まって、次に 大阪の方角からの情報しか入って来ていないことが分かった。情報メディアとはこのようなもであることが良く分かった。私の家の近辺は山陽電鉄線路付近から海よりの、 JR線路近辺の須磨区としては限られた地域ではあるが、この惨状は数日経ってからでないと情報として流れなかった。東から来たレポータは長田の火災で止まってしまい、すぐ隣接した我々の地域の情報は殆ど流されず、須磨区の情報と言えば北部山間地域の大した被害が無いという情報しか流れなかった。今回の地震は平地に集中し,数100m離れた 高台地区の被害は極端に少なかった。

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4) ガス漏れ

 

夜が明けるに従って、周りの人がガス臭いと騒ぎだした。確かに庭に出るとガス臭い。これは大変なことになった。ガス中毒を恐れるより、ガスに引火して火災が発生することを恐れた。すぐに表に出て、ガスの漏洩元を探した。道路上に鎮座した家から臭いが発していると分かった。ガスメータを見つければガスを止められると思い、ガス配管とガスメータを探した。良く見るとガスメータに繋がっているガス管が完全に引きちぎられて地中からの立ち上がり部と違うところにあった。家に戻って電話帳を探しガス会社の番号を調べてガス会社に電話したが気をつけて下さいとのことでどうしようもなかった。すぐにカレンダーの裏に、「ガス漏れ・火気厳禁」と赤いマジックで書いてガスの発生元近くの道路に面した見やすいところにガムテープで貼った。たまたま向こうからくわえ煙草で歩いてくる人が居たので掲示した注意書きを指さし大声で注意したところ、あわてて煙草を消してくれた。

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5) 被害調査

 

わが家の被害状況を調べて回ったが、屋根裏倉庫など、扉が開かない部屋、少し開いたところで物に当たって開かない部屋等調査には苦労したが、表面上大きな破壊はなかったようなのでとにかく安心することにした。故にわが家は余震が来ても大丈夫との判断をして、避難しないことにし、祖母をわが家に避難させることにした。通りでは、着の身着のままで避難所の方に避難していく人が多数居た。避難所に行く途中の道路に多くの家が迫り出して傾き、むしろじっとしている方が安全だと思えた。

この地域で方々で瓦礫の中に生き埋めになっているとの話を聞いて、とりあえず駆けつけては見たが、救急隊の人は一人もいなくて、近くの建設会社の人が、スコップや鋸などで救出活動を始めていた所もあった。私も何かしなければと思ったが何をどうしたらよいか分からず、変にさわればがさっと崩れるかも知れず、怖くて手出しどころか近寄りもできなかった。 集まった人の口情報から、阪神高速、鉄道の高架橋が倒壊、国際会館、新聞会館、そごう等三宮の有名な建物が大部分ダメだとの話も聞きました。昼頃になってもNHKのラジオでは被害状況をあまり伝えていなかったが、単車で見てきたらしく、須磨から西宮迄の地域が被害の中心で、死者は5,000人を越えると云っている人もいた。

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   6) 生活の確保

 

昼過ぎに腹が減ってきたのに気がついたが、食べ物、飲み物が何もない。電気、ガス、水道が完全に止まっていた。台所を片づければ何か出てくるはずなので、片づけにかかったが、積み重なって割れた食器類と、家電 製品,鍋台所用品が一緒になり,その上に,棚の上から落ちた砂糖、塩,醤油,小麦粉等が,又前夜のてんぷら鍋が落ちて、その油とがばらまかれ撹拌されており、とても 数時間で済む仕事ではなかったので一旦中止した。冷蔵庫の中にすぐ食える物があるはずだが、扉が開いて中の物は飛び出し盛り上がった攪拌物の中に混じっていた。他にも、明るい内に寝る場所を確保せねばとか、家の中で靴を履かなくてもよい区画を確保するなどすることは山ほどあった。

昼頃20分くらい電気がつき、ほっとしたのもつかの間、すぐ消えた。息子が早朝から勤務先の病院に行っていたが、昼過ぎににぎりと水のボトルを持って帰ってくれてほっとした。電気水道ガスが無く、食べ物、飲み物もなく暖房のないところで今夜どうするかを考えていたが焦点が合わない。自転車で近くのスーパや店屋を回ったがどこも閉まっていた。消防団の前の路上で、にぎりめしと水を配っていたので夕飯用にもらって帰った。夜は布団にくるまって寝るしかないと思った。

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 7) 地震後の火災の恐怖

 

午後に入って時間とともに、東の空が一面煙に覆われ、夕刻になると一段と勢いが強くなり、暗くなるに従って赤みを帯びた煙に変わってきた。家の周りに落下する灰が段々大きな物になってきた。庭は一面雪が積もったようになってきた。ラジオによれば、消火用水が無く消防隊が成すすべがないなど不安が募るばかりであった。折から東の風で暗くなるに従って、火勢が強くなり、火元が近づいてきた感じであった。残っていた人も避難を始めたとの話もあり、我々も避難すべきか考え始めていた。ラジオや噂は信用できないので、とにかく自分の目で現状を確認する必要があると思い、自転車で火災現場に向かった。意外に近いところで交通規制されていたが、横道からさらに現場に近づいた。炎から100m位まで近づいて消火活動の様子を調べた。消火ホースが数本引かれていたが、どれもぺしゃんこで水圧があるとは思えなかった。周りの人はただ呆然と炎を見ているだけだった。わが家との間には,JR 鷹取の操車場と、天井川があったので、近づくまでにはまだ相当の時間がかかると判断し、引き返した。

昼間は太陽が赤かったが、夜になって、真っ赤な大きな月が煙の間に見えかくれしていた。満月に近いしんしんと冷え込む夜であった。外では消防車か救命車のサイレンがひっきりなしに鳴っており、家族は一部屋に集まってローソクの明かりの中ラジオを聴いていた。私は時々表へ出て、東の空の変化の様子を見ていた。折から風向きが少しずつ変わり始めたこと,又他府県の消防車も到着して、消火活動が始まったと聴き、勝手口にあって壊れなかったビールを持ってきて飲んで一息ついた。いつでも飛び出せるように, ジャンパーを枕元に脱いで,服を着たまま厚い布団をかぶって寝た。

早朝5時頃扉をたたく音で目を覚ました。近所の人が,火災現場との中間にある須磨警察署が避難を始めたとの情報が入ったがどうすれば良いか,との話だったので,まだ外は暗かったが,私は又自分の目で現状を確認しようと思い,自転車に乗って火災現場に急行した。昨夜と同様街灯のない道路,家が歩道を乗り越え車道まで突き出た道路、冷たい風が頬を斬り凍てついた道路を必死になってペダルをこいだ。寝起きであったが何故かそれほど寒いとは感じなかった。

火災現場の方向に伸びる広い道路に出ると,赤い回転灯が無数に連なっている。近くに寄ってみれば,消防車の車体の側面に,広島県,奈良県などと大きな字で書かれていた。

火災現場に近づくにつれ,煙はまだ相当出ていたが,赤い火は部分的にしか見えなかった。消火用ホースはうどんをばらまいたように多数路上に這っていた。そのホースが全て パンパンに張っており,圧力を持って送水していることが判った。ある消防車の横で 若い消防士が片手に缶コーヒを持ってパンをかじっていた。既に消防隊が火災を制圧していると判断し,私は安心した。家族や近隣の人に伝えるべく,勢い良くペダルをこいで 一路帰途についた。

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        8) 阪神大震災に思うこと

       (1995年に思ったこと)