作詞 カルロス・セサル・レンシ(Carlos Cesar Lenzi)
訳詞 新町 實 作曲 エドワルド・ドナト(Edgardo Donato) |
1.誰も知らない 狭い路地裏 三日月様さえ 覗きはしない 僕ら二人の 小さいアパート 色褪せた屋根 崩れた壁でも それは素敵な 二人だけの 楽しい天国よ 黄昏時 流れてくる 想い出誘う 甘いタンゴ あの窓にも この窓にも 今宵も点るよ 愛の火が 2.雨が降ろうと 風が吹こうと 風見の鳥さえ 見向きはしない 僕ら二人の 小さいアパート 壊れた椅子や 古いピアノでも それは素敵な 二人だけの 楽しい天国よ 黄昏時 流れてくる 想い出誘う 甘いタンゴ あの窓にも この窓にも 今宵も点るよ 愛の火が |
Corrientes tres - cuatro - ocho segundo piso, ascensor No hay porteros, ni vecinos, Adentro cóctel y amor Pisito que puso Maple, piano, estera y velador, un telefón que contesta, una vitrola ( fonola ) que llora viejos tangos de mi flor y un gato de porcelana pa' que no maúlle al amor. Y todo a media luz, a media luz los dos A media luz los besos a media luz los dos. Y todo a media luz, que brujo es el amor A media luz los besos a media luz los dos. Y todo a media luz, que es un brujo el amoro, a media luz los besos, a media luz los dos Y todo a media luz crepúsculo interior. Que suave terciopelo la media luz de amor! Juncal 12, 24 Telefonea sin temor. De tarde, té con masitas; de noche, tango y cantar. Los domingos, tés danzantes; los lunes, desolación, Hay de todo en la casita: almohadones y divanes; como en botica, cocó; alfombras que no hacen ruido y mesa puesta al amor |
1925年(大正14年)
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コリエンテス街愛好協会というのがあり、街角に著名なタンゴ作詞家、
作曲家の記念板がある。 「淡き光」はコリエンテス街348番地にかってはあった
高級売春マンションを歌ったタンゴの名曲である。
このタンゴは 1925年に発表されてから 既に90年近くたって いる。 現代のアルゼンチン人もほとんどの人がこの歌の意味を誤解して いる。コリエント街348番地に裕福な人が住んでいて、そこでパーティーをする と解釈している人、またコリエント街348番地には高級ナイト・クラブが あったと解釈している人。いずれも 間違いである。 コリエント街348番地にあったのは 個人営業の高級売春マンションであった。 el segundo piso というのは三階であるが ”二階”という誤訳が 見受けられる。 三階の方が二階より秘密がより守られる。 アルゼンチン、その他中南米の多くの国では planta baja 一階、 el primer piso 二階、 el segundo piso 三階 日本のマンションに相当する言葉はスペインではpiso であり、中南米では apartamento, departamento であるが、ここでは piso の縮小辞である pisito という言葉が 使われている。piso というのは ある階のフロアー全体 を占めるマンションのことである。つまり 三階のフロアー全体を占めている。 三階には他の住民は住んでいない。秘密は完璧に守られる。誰も部屋 には来ないから安心しなさい。部屋の雰囲気は最高ですよ、ロマンチックな 照明、音響設備も整っています。昼も営業しています。交通至便(地下鉄の 駅に近い)という宣伝のコマーシャル・ソングみたいなものであった。 当時(大正時代)、アルゼンチンは世界有数の経済先進国であった。地下鉄 の最初の路線はすでに東京に先んじて1913年に開通していた。 フンカル1224番というのは 高級売春マンションの電話番号である。現在の ように自動でつながらず 交換手が接続していた。アメリカ製の蓄音機もあり、 タンゴのレコードが発売されていたことが歌の歌詞からわかる。ビルには すでに エレベーターがあった。 第一次大戦後は、アルゼンチンはヨーロッパ人にとって夢のような豊かな国 であった。「 母のたずねて三千里 」はイタリアのジェノバからアルゼンチン に出稼ぎに行った行方不明の母をたずねて、アルゼンチンをさまよい歩く 少年マルコの物語である。 国民的タンゴ歌手であったカルロス・ガルデルの母はフランスからの移民で 貧しい未婚の母であった。20世紀初頭には こういう実話がたくさんあった。 「 母のたずねて三千里 」の作者のエドモンド・ダ・アミチは実話に基づいて この作品を書いたのであろう。 コリエンテス街348番地 : この番地は 現在存在しない。この番地のあった ところに記念のプレートがかけてあるだけである。 【http://www.geocities.jp/general_sasaki/cancion-amedialuz-ni.htmlによる。また、原詩の忠実な訳もここには紹介されており、上記説明が十分に理解できよう。】 |