鎌 倉(かまくら)


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鎌 倉(かまくら)
尋常小学読本唱歌(6年)
作詞 芳賀矢一
作曲 不  詳
1.七里ケ浜(しちりがはま)の 磯伝い(いそづたい)
  稲村ケ崎(いなむらがさき) 名将(めいしょう)の
  剣投ぜし(つるぎとうぜし) 古戦場

2.極楽寺坂(ごくらくじざか) 越え行けば
  長谷観音(はせかんのん)の 堂(どう)近く
  露座の大仏(ろざのだいぶつ) おわします

3.由比の浜辺(ゆいがはまべ)を 右に見て
  雪の下村(したむら) 過ぎ行けば
  八幡宮(はちまんぐう)の 御社(おんやしろ)

4.上るや(のぼるや)石の 階(きざはし)の
  左に高き 大銀杏(おおいちょう)
  問わばや遠き 世々の(よよの)跡
5.若宮堂(わかみやどう)の 舞の袖(まいのそで)
  しずのおだまき くりかえし
  かえせし人を 偲(しの)びつつ

6.鎌倉宮(かまくらぐう)に 詣(もう)でては
  尽きせぬ親王(みこ)の み恨みに
  悲憤(ひふん)の涙 わきぬべし

7.歴史は長き 七百年(しちひゃくねん)
  興亡(こうぼう)すべて 夢に似て
  英雄墓は 苔むしぬ

8.建長(けんちょう)円覚(えんかく) 古寺(ふるでら)の
  山門高き 松風に
  昔の音や 籠もるらん 
1910年(明治43年 )

 「七里ケ浜の磯づたい稲村ケ崎名将の剣投ぜし古戦場」と「鎌倉」に歌われた稲村ケ崎は、何といっても1333(元弘3)年の新田義貞の鎌倉攻めで名高い。http://www.kanagawa-np.co.jp/miraiisan/isan020.html

芳賀矢一(はがやいち 慶応3年(1867)〜昭和元年(1926)、福井県出身)
 明治22年(1889)第一高等中学校、同25年に帝国大学文科大学(現在の東京大学文学部)国文学科を卒業した。  大学院卒業後、明治31年(1898)には32歳で東京帝国大学助教授、翌年、東京高等師範学校教授を兼務、2年後、ドイツへ文学史研究のため留学し、明治35年(1902)に帰国すると東大教授になる。その翌年、37歳で文学博士、大正4年(1915)には帝国学士院会員となる。この間「国民性十論」を出版している。
 大正7年(1918)に国学院大学学長に就任、東宮職御用掛を拝命、東大名誉教授になり、我が国国文学の第一人者といわれるようになる。
 昭和元年(1926)、61歳のとき、宮内庁御用掛となり、大正天皇御大葬奉悼歌の作詞を命じられ、完成した。  奇しくも、大正天皇大葬前日の2月6日に、心臓性喘息で急死した。
 芳賀矢一は、国語、国文学について、熱烈な国家愛で新生面を開き、ヨーロッパの文献学にならって「新しい国学」を建設しようとした。また、国語教科書に改良を加え、新しく形容動詞という言葉を発明するなどの努力を尽くした。現在、国学院大学には彼の業績を讃えて銅像が建てられている。小学唱歌では「三才女」および「鎌倉」の作詞者としても知られる。
http://www.city.fukui.fukui.jp/rekisi/gaido/jinbutsu/haga/haga.html