かなりや


Return to the List

かなりや

作詞 西条八十
作曲 成田為三
1.唄を忘れたかなりやは
  後の山に棄てましょか 
  いえ いえ それはなりませぬ 

2.唄を忘れたかなりやは
  背戸の小薮に埋めましょか 
  いえ いえ それはなりませぬ 
3.唄を忘れたかなりやは
  柳の鞭でぶちましょか 
  いえ いえ それはかわいそう 

4.唄を忘れたかなりやは
  象牙の船に銀の櫂 
  月夜の海に浮かべれば 
  忘れた唄をおもいだす
1918年(大正 7年)


「カナリヤ」と西条八十
 東京帝大の国文科と早大の英文科に籍を置いていた八十が、突然の兄の放蕩から一家没落の悲運に見舞われ、 しかも学生の身で老母と弟妹を抱えている苦しさから帝大は2年までで断念し、早大は試験だけを受けて どうやら卒業だけはしたものの働くすべとてなく、闇雲に兜町通いをはじめ・・・その焦慮が少し落ち着くと しばらく中絶していた文学への愛情が激しく燃え上がって来・・・・たある朝、意外な客が彼を訪れた。
 それが鈴木三重吉本人で、雑誌「赤い鳥」に新しい童謡を書くよう依頼に来たのだった。(後になってわかったことだが、 これはマーテルリンクの「私の犬」などを翻訳した灰野庄平の紹介だったそうだ。)

 「カナリヤ」は八十が「赤い鳥」に書いた2番目の童謡である。これについて彼はこう回想している
「・・・この歌詞のモーティフは、幼いとき誰かに連れられていった・・麹町のある教会のクリスマスの夜の光景から 生まれた。・・・その会堂内の電灯は残らず華やかに灯されていたが、そのうちにただ1個、ちょうど私の頭の真上にある のだけが・・ぽつんと消えていた。それが幼い私に、百鳥が揃って楽しげにさえずっている中に、ただ1羽だけ さえずることを忘れた小鳥・・・のような印象を与えた。その遠い回想から偶然に筆を起こしてこの童謡を書き進めるうち に、私はいつしか自分自身がその「唄を忘れたかなりや」であるような感じがしみじみとしてきた。そうではないか。 詩人たらんと志し・・・たわたしは・・・兜町通いをしたり・・している・・・まさに歌を忘れたかなりやである・・ ・・・わたしは幼児のための童謡を書こうとして、いつの間にか自分の現在の生活の苦悶を滲ませていた。そうして、 この歌の末尾の聯は、当時、わたしの心に夜明けていたかすかな希望であった。・・・・・わたしをその象牙の船に のせて静かな海に浮かべ、もう一度詩人の本道に連れ戻してくれた恩人は鈴木三重吉氏と解すべきか、それよりももっと大きな 運命の手と解すべきか、わたしは知らない。しかし、・・・この歌がひろく津々浦々にうたわれると同時に、 わたしの詩人としての行く道がはっきりしてきたことは事実であった。
 後年、・・・ある小学校へ童謡の講演をしに出かけたことがあり、講演の後で、可愛い子供たちが揃って「かなりや」の 歌を合唱してくれた。それを聴いているうちに・・・なんともいえぬ感傷的な気持ちになっていつか涙がポロポロこぼれてきた。」
(西条八十著「唄の自叙伝」日本図書センター刊による)


成田為三(なりた・ためぞう 明治26年(1893年)12月15日生−昭和20年(1945年)10月29日没 秋田県出身)【作曲家】
  「浜辺の歌」「かなりや」「雨」などの作品で知られる作曲家。秋田県北秋田郡森吉町に生まれる。
 1914(大正3)年、上野音楽学校に入学し作曲を学ぶ。その当時に作られ、のちに彼の代表的な1曲となる作品が 「浜辺の歌」である。同校卒業後、白秋ら雑誌『赤い鳥』の主要メンバーと交流がはじまり、「かなりや」 「赤い鳥 小鳥」などの作品を残した。
 その後ドイツに留学、帰国後は国立音楽学校や東洋音楽学校で教鞭をとった。  著書に『作曲の基礎』『楽器編成法』などがある。
  - 作品 -
 「浜辺の歌」 作詞 林古渓/
 「かなりや」 作詞 西條八十/
 「赤い鳥小鳥」 作詞 北原白秋/
 「りすりす小栗鼠」 作詞 北原白秋/
 「ちんちん千鳥」 作詞 北原白秋/
 「雀のお宿」 作詞 北原白秋/
 「舌切雀」 作詞 北原白秋/
 「雨」 作詞 北原白秋/
(http://www.d-score.com/pg/A02020408-1.htmlによる)