作詞 清水かつら 作曲 弘田龍太郎 1.叱られて 叱られて あの子は町まで お使いに この子は坊やを ねんねしな 夕べさみしい 村はずれ こんときつねが なきゃせぬか 2.叱られて 叱られて 口には出さねど 眼(め)になみだ 二人のお里は あの山を 越(こ)えてあなたの 花のむら ほんに花見は いつのこと
1920年(大正9年)
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詞は、少女雑誌「少女号」の編集に携わっていた清水かつら(1898〜1951)が同誌で発表した。作曲は弘田龍太郎(1892〜1952)。2人は「靴がなる」「雀の学校」など、歌い継がれる名曲を数多く生み出している。
【「こころうた」の風景(http://www.mainichi.co.jp/osaka/kokoro/012/001.html)による。】 また作詞者「清水かつら」については次のサイトが実に詳しい【「ふるさとを愛した童謡詩人 清水かつら」(http://www.sky.sannet.ne.jp/katura/)】。 |
弘田龍太郎
明治25年(1892)6月30日、安芸郡土居村(安芸市土居)で、父正郎(せいろう)、母総野(ふさの)の長男として生まれた。父は、政治家・教育者として知られている。母は一絃琴の名手で、龍太郎の音楽的センスはこの母から受け継いだといわれる。 父の転任に従って3才の時高知を離れ、千葉師範学校附属小学校、三重県立第一中学校を卒業。同43年、東京音楽学校(現東京芸術大学)器学部ピアノ科に入学した。在学中に歌曲「昼」を作曲。大正3年卒業、11月高安ゆり子(詩人、高安月郊の長女)と結婚する。卒業と同時に母校の助手を勤めていたが、同6年に作曲部が新設されるや再入学。修了後は、同校講師、助教授となる。 本格的な作曲活動は、同6年頃から始まる。宮城道雄を中心とした新日本音楽運動に参加。琴・三味線を主体とした当時の舞踊会に洋風の伴奏を取り入れた。また、舞踊家の若柳良し三郎(初代)に「柳」「姨捨山」「雪の幻想」や歌舞伎の尾上菊五郎(六代目)に「生贄」「刺客」を作曲、振り付けまでも指導し、大好評を博した。 その後、北原白秋を中心とした童謡運動「赤い鳥運動」にも参加。「靴が鳴る」「浜千鳥」「叱られて」「雀の学校」「春よ来い」などの名曲を次々と発表し、童謡・歌曲作家としての地位を確立した。昭和3年、文部省在外研究員としてドイツに留学し、帰国後、母校の教授に任じられたが、2ヶ月で辞任する。その後は作曲に専任し、歌曲「千曲川旅情のうた」や仏教音楽「仏陀三部作」、オペラ「西浦の神」などを発表し、高く評価された。 晩年は幼児教育に携わり、放送や講習会、リズム遊びの指導にあたる。昭和27年(1952)11月17日、東京本郷弥生町の自宅で永眠、時に60才。 なお、安芸市は曲の碑作りにも力を入れており、この曲を含め9個の碑が市内に作られている。【安芸市のホームページ「童謡の里づくり」(http://www.city.aki.kochi.jp/main/kakuka/17gakushu/doyo/00.htm)による。】 |