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里の秋

作詞 斎藤信夫
作曲 海沼 實
唄  川田正子
1.静かな静かな 里の秋
  お背戸に木の実の 落ちる夜は
  ああ かあさんとただ二人
  栗の実 煮てます 囲炉裏端

2.明るい明るい 星の空
  鳴き鳴き夜鴨の 渡る夜は
  ああ 父さんのあの笑顔
  栗の実 食べては 思い出す
3.さよならさよなら 椰子の島
  お船に揺られて 帰られる
  おお 父さんよご無事でと
  今夜も 母さんと 祈ります





1945年(昭和20年)

●日本がポツダム宣言を受諾した昭和20年暮れのNHKラジオは,戦地から日本に帰国=当時の用語では復員してくる将兵を励ます ために「外地引揚同胞激励の午后」を放送した。昭和20年12月24日午後1時45分のことである。
「音羽ゆりかご会」の童謡歌手川田正子が,番組のなかで新曲を歌った。戦災の焼け跡に,家代わりの防空壕に,闇市の雑踏にその メロディが流れた。
可憐な少女の優しく澄んだ静かな歌声にたくさんの人々が思わず聴きいり,そして熱い共感に心満たされた。歌い終わるやNHKの 電話は鳴り続け「いい曲だった」「もう一度歌ってほしい」というリクエストが殺到した.「番組中にもう一度歌ったような気がします」 と川田正子は回想している。その歌詞は

しずかなしずかな里の秋/お背戸に木の実の落ちる夜は/ああ母さんとただ二人/栗の実煮てますいろりばた
明るい明るい星の夜/鳴き鳴き夜鴨の渡る夜は/ああ父さんのあの笑顔/栗の実食べては想いだす

●この歌が生れたのは実は四年前,大東亜戦争が勃発した日のことだった。
千葉県船橋市の小学校に斉藤信夫という教師がいた。斎藤は詩人であり,学校の校歌も幾つか作詞していた. 軍艦行進曲の勇壮な調べにのって「帝国陸海軍は本八日未明,西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」という臨時ニュースが 電撃のように流れた日から,斎藤は「異常な興奮」に「身体全体を」包まれ「その時の思いを一気に作詞」した。
12月下旬に完成した「星月夜」の詩の三番と四番は次のようなものだった。

きれいなきれいな椰子の島/しっかり護って下さいと/ああ父さんのご武運を/今夜も一人で祈ります
大きく大きくなったなら/兵隊さんだようれしいな/ねえ母さんよ僕だって/必ずお国を護ります

斎藤はこの歌詞を知人で合唱団「音羽ゆりかご会」を運営していた作曲家の海沼実に送る。
それから四年,きれいな椰子の島でたくさんの父さんが屍となって朽ちていき、星月夜が人々に歌われることはなかった。

●敗戦後斎藤信夫は教師として子供たちに間違った教育をしてきた過ちを悔いて教壇を去る。千葉の実家でぶらぶらしていた斎藤に, 海沼実から「スグオイデコフ」という電報が届いた。上京した斎藤は、海沼に忘れていた「星月夜」を見せられ、 三番の修正を依頼される。NHKで放送するために復員兵を迎える歌詞にして欲しいという内容であった。
番組開始直前に新しい歌詞を持ってNHKに駆けつけた斎藤信男を待っていたのは海沼実と川田正子だった。ここに 名作「里の秋」が誕生したのである。

さよならさよなら椰子の島/お船に揺られて帰られる/ああ父さんよご無事でと/今夜も母さんと祈ります

この修正された三番の歌詞ほどにさまざまな思いを重層して内在させた「さよなら」を私は知らない。 それはきれいな椰子の島へのさよならだけではなく,ともに暮らした島の人々への、亡くなった戦友への、忌まわしい戦場の記憶への、 厳しかった軍律の日々への、近代日本がたどった悲痛な宿命への、そして大東亜共栄圏という虚妄に終わった概念への 「さよなら」でもあったのだと思える。「里の秋」は近代化日本の礎となった200万英霊の御魂と時代に,さよならを告げたのでは なかったか。
それは同時に、大東亜戦争勃発と同時に生まれながら世に出ることの無かった「星月夜」3,4番の「椰子の島を護れなかった父さん」 と「お国を護れなかった僕」の存在を否定する隠された「さよなら」でもあったであろう。
(http://www.aa.cyberhome.ne.jp/~museum/3000Lied-Foto/010030Lied.htmによる)