作詞 犬 童 球 渓 作曲 J.P.オードウエイ |
1.更けゆく秋の夜 旅の空の わびしき思ひに ひとりなやむ 恋しやふるさと なつかし父母 夢路にたどるは 故郷(さと)の家路 (合唱) 更けゆく秋の夜 旅の空の わびしき思ひに ひとりなやむ |
2.窓うつ嵐に 夢もやぶれ 遙けき彼方に こころ迷ふ 恋しやふるさと なつかし父母 思ひに浮かぶは 杜のこずえ (合唱) 窓うつ嵐に 夢もやぶれ 遙けき彼方に こころ迷ふ |
1907年(明治40年) |
「更けゆく秋の夜…」。林芙美子の「放浪記」の冒頭に、この歌が引用されている。宿命的な放浪者と自らを呼ぶ彼女が、母親と
各地を転々とした幼い頃の思い出をこの歌詞に重ねて回想する場面である。旅の空から故郷を思うこの歌。ふるさとと呼べる場所が
ない彼女は、どんな思いでこの歌を口ずさんだのであろうか。 この美しいメロディの原曲はアメリカの作曲家オードウェイの「Dreaming of Home and Mother」(夢にもみる家庭と母)で、 明治40年に発行された「中等教育唱歌集」が初出。この中等教育唱歌集には、33曲が収められ、すべてが外国のメロディという ユニークなものであった。球渓のもう1つの代表作、「故郷の廃家」 (『冬の星座』のヘイス作曲)も初めて掲載されたのが、この本であった。以降、明治から大正にかけて、全国的に愛唱され、 今ではすっかり日本の歌として定着した。 球渓は、時代的には滝廉太郎と中山晋平との間に位置する。熊本県人吉市出身。1879年(明治12年)〜1943年(昭和18年)。本名は信蔵といい、ペンネームは、球磨川渓谷からとったのだそうである。高等小学校卒業後、小学校の代用教員をしていた頃は、赴任した学校のオルガンを直して弾いてみせ、「熊本のベートーベン」と呼ばれたこともあった。のちに兄の薦めで、東京の音楽学校に入学するも、入学のたった4ヶ月後、兄が急逝してしまい、苦学して音楽学校を卒業する。最初の赴任校は兵庫県の柏原中学だったが、日露戦争の勝報に国中がわいていた時期で、血気盛んな若者たちは若い新任教師を「西洋音楽は軟弱だ」といって標的にし、1年足らずでこの学校を辞め、新潟の女学校へ。以来2年間この学校で教鞭をとり、その間に生まれたのが、「旅愁」と「故郷の廃家」であった。はじめての赴任校で挫折感を味わい、故郷熊本から離れたこの遠い東北の地に向かう時の思いが、「旅愁」の詞に結晶したと言われている。人一倍、故郷に対する思いが強かった球渓は、のちに熊本の女学校、そしてふるさとの人吉の女学校に勤務し、合計で200曲以上の曲を作曲した。 球渓は、「音楽でも、言葉を大切にしなさい」というのが口癖だったそうで、その言葉へのこだわりが、詩情ある歌詞に生きている ようである。故郷の人吉城址で毎年秋に開かれる「顕彰音楽祭」は「旅愁」の大合唱で始まり、「故郷の廃家」で終わる。 ( http://plaza26.mbn.or.jp/~ikebe/raum/monthsong/200010.htmlによる。) |