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東京の花売り娘
作詞 佐々 詩生
作曲 上原げんと
唄  岡  晴夫
1.青い芽をふく 柳の辻に
  花を召しませ 召しませ花を
  どこか淋しい 愁いをふくむ
  瞳いじらし あのえくぼ
  あゝ東京の 花売り娘

2.夢を見るよに 花かご抱いて
  花を召しませ 召しませ花を
  小首かしげりゃ 広重(ひろしげ)えがく
  月もあらたな 春の宵
  あゝ東京の 花売り娘
3.ジャズが流れる ホールの灯(ほ)かげ
  花を召しませ 召しませ花を
  粋なジャンパー アメリカ兵の
  影を追うよな 甘い風
  あゝ東京の 花売り娘






1946年(昭和21年)

 進駐軍の駐留から半年余りのちの21年4月、銀座通連合会によって銀座復興祭が開催された。この頃、銀座通りには木造の簡易長屋風の商店180軒が軒を並べていた。外観を整えるために間口、奥行きをそろえた商店街である。終戦直後の9月に商店街建設計画に乗り出した素早い対応と、他の盛り場と違って要所を進駐軍に接収されたため大きなヤミ市がなかったことも幸いした。
 祭りにあわせて『花咲く銀座』(作詩・西条八十 作曲・中山晋平 歌・霧島昇/松原操)が作られた。銀座を歌った戦後初めての曲だった。 (なびく平和の 紫がすみ 意気も新たに 立ちあがる 花の東京は どこから開く 芽吹柳の銀座から)・・・・・・他のどこよりも早い復興の意気を高らかに謳いあげたこの曲は、占領下の重い現実にそぐわなかったのか、祭りとともに消えている。

 代わって多くの人の心をとらえたのが軽快なブギのリズムに乗った『東京の花売り娘』(作詩・佐々詩生 作曲・上原げんと 歌・岡晴夫)であった。

 日々の食糧にも事欠く時代に、日本人には花を手にするゆとりはない。この年の末に、人気女優原節子とカーネーションを配した色刷りポスターを資生堂が戦後初めて出したが、その花も「夜の銀座で進駐軍に名の売れていた自称ジョージから入手したと伝えられている」(資生堂ものがたり)というほどの貴重品。花を手に入れることもできず、売れるはずもない。花売り娘もいなかった。しかし、その後社会が落ち着くにつれて花売り娘が出始め、24年ころには80人ほどになり、大半が小学生だったという。27年には児童福祉法の改正施行に伴って警視庁築地署が約50人を補導したと報じられている。
(「銀座50年の物語」より引用 http://www.funfan.jp/avenue/ginza/ginza20_03.html)