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好きだった
作詞 宮川哲夫
作曲 吉田  正
唄  鶴田浩二
1.好きだった 好きだった
  嘘じゃなかった 好きだった
  こんな一言あの時に
  言えばよかった
  胸にすがって泣きじゃくる
  肩のふるえを ぬくもりを
  忘れられずにいるのなら

2.好きだった 好きだった
  俺は死ぬ程好きだった
  云っちゃならない「さよなら」を
  云ったあの日よ
  笑うつもりが笑えずに
  顔をそむけた悲しみを
  今も捨てずにいるくせに
3 好きだった 好きだった
  口にゃ出さぬが好きだった
  夢にまで見たせつなさを
  知っていたやら
  馬鹿な男の強がりを
  せめて恨まずいておくれ
  逢える明日はないけれど








1956年(昭和31年)


 鶴田浩二は「歌う映画スター」のなかでも、歌のうまさには定評があり、哀愁を帯びた甘い声で多くのファンを獲得してきた。ほかに『街のサンドイッチマン』『赤と黒のブルース』『傷だらけの人生』などのヒット曲がある。
 大正13年(1924)、東京大田区で生まれたが、母親は、父親の実家の反対で入籍することができなかったため、母方の祖母の手で育てられた。たまに母親が会いに来るのが楽しみだったそうである。母親はその後、別の男性と正式に結婚、浩二は、祖母の死後、母親の嫁ぎ先に引き取られた。
 大戦中は学徒出陣兵として横須賀第二海兵団に入団、特攻攻撃に向かう多くの仲間を地上で見送るという辛い経験をしたという。彼がもつ独特の陰翳は、こうした生育歴や経験から生まれたものかもしれない。
 高田浩吉の付き人を経て松竹入社。松竹時代に、同じ松竹の岸恵子と激しい恋に落ちたが、彼がすでに結婚していたうえ、当時は会社の方針で、スター同士の結婚は御法度だったため、二人が結ばれることはなかった。
 岸恵子は、この恋を清算するためパリに移住、映画監督のイブ・シャンピと結婚した(のちに離婚)。  鶴田浩二の死後、岸恵子は「心の奥に癒しがたい哀しみを抱えている人という感じがして、そこに惹かれました」と語っている。
【二木紘三のうた物語(http://duarbo.air-nifty.com/songs/2007/08/post_7731.html)による】