島の船唄
作詞 清水みのる 作曲 倉若 晴生 唄 田端 義夫 |
1.小島離れりゃ 船唄で 今日も暮れるか 海の上 いつもおいらは 波まくら ひとり船頭で 暮らすのさ 2.何が恋しゅて 浜千鳥 小松がくれに 呼ぶのかよ 星もきれいな 夜じゃないか なまじ見せるな 未練気(みれんぎ)を | 3.板子(いたこ)いのちの 俺だとて 時雨(しぐれ)ふる夜は 身も細る たのむ狭霧(さぎり)よ 海面(うみづら)に 月を浮かして みせてくれ 4.明日(あす)は明日(あした)の 風が吹く 波の浮き世に 一人もの ならば千鳥よ この俺と 唄を仲間に くらそうよ |
1938年(昭和13年)
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田端義夫(大正8年(1919)- ) 三重出身の大阪育ち。夜逃げが15回、食事は粥に紅生姜という貧苦の中に育つ。男5人女5人兄妹の9番目、人力車夫の父は3歳の時に事故死、姉は芸者に出、大阪の長兄は蒸発したという。生活苦から医療費が払えず、右目をトラホームで失明するが、この障害については本人が表立って語らないために一般には全く知られていない。名古屋の薬屋やパン屋、鉄工所などで奉公したあと、姉がすすめた新愛知新聞社主催のアマチュア歌謡コンクールで優勝したことをきっかけに上京し、職工をしながらポリドールの社員となり、昭和13年に『島の船唄』でデビュー。 昭和14年の「大利根月夜」は戦後もリメイクされ、山谷地区などで今でも愛唱される。「バタヤン」の愛称で、ギター片手に「オッス」のかけ声がトレードマーク。15年の「別れ船」は、あまりに抒情的な内容に軍部からクレームがついた。21年「かえり船」が大ヒット。その後は「玄海ブルース」、戦時中に御前崎灯台を舞台に清水みのるが作詞した「ふるさとの燈台」などをヒットさせた。30年の「親子船唄」以降は低迷したが、37年に「島育ち」で第一線に奇跡のカムバック。50年にも「十九の春」を出すなど、息の長い歌手活動を続ける。54年8/27にはラスベガスで29万ドルを引き当てた。平成に入ってからも、持ち歌のセンスや歌唱法などから、懐メロ歌手というより演歌歌手に近い存在で活躍。好きな作家は柴田錬三郎で、剣豪小説のファンであるという。平成1年に勲四等瑞宝章受章。 昭和13年 島の船唄 昭和14年 大利根月夜 昭和15年 別れ船 昭和21年 かえり船 昭和24年 玄海ブルース 昭和27年 大利根月夜(リバイバル) 昭和28年 ふるさとの燈台 昭和37年 島育ち 《「流行歌の時代〜歌手名鑑」(http://www.geocities.jp/showahistory/music/singera04.html)による》 |