作詞 宮川哲夫 作曲 吉田 正 唄 鶴田浩二 |
1 ロイド眼鏡に 燕尾服 泣いたら燕が 笑うだろ 涙出た時ゃ 空を見る サンドイッチマン サンドイッチマン 俺らは街の お道化者 とぼけ笑顔で 今日も行く 2 嘆きは誰でも 知っている この世は悲哀の 海だもの 泣いちゃいけない 男だよ サンドイッチマン サンドイッチマン 俺らは街の お道化者 今日もプラカード 抱いてゆく |
3 あかるい舗道に 肩を振り 笑ってゆこうよ 影法師 夢をなくすりゃ それまでよ サンドイッチマン サンドイッチマン 俺らは街の お道化者 胸にそよ風 抱いてゆく |
1953年(昭和28年)
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この歌は次のようないきさつから生まれました。
昭和24年(1949)、銀座で働く1人のサンドイッチマンのことが話題になりました。人品骨柄が上流紳士のようで、とてもサンドイッチマンをするような人物には見えない、というのです。 サンドイッチマンとは、体の前後に広告看板をつけて歩く街頭宣伝マンのことで、看板のほかにプラカードを持っている場合もありました。古代カルタゴですでに利用されていたという記録がありますが、欧米で文献や絵に登場するようになったのは、19世紀に入ってからです。 日本では、大正に入ってから広まり始め、昭和初期の不景気の時代には、これを職業とする人びとが増えました。 人目を引くために、丹下左膳やチャップリンなどの仮装をしたり、パントマイムを演じたりして、盛り場の風物になりました。しかし、ほかにたずきの道がない場合にやむを得ず行うような仕事でしたから、当然収入はかぎられていました。 そのような仕事に人品賤しからぬ中年の紳士が携わっているというので、銀座を行き交う人びとの間で話題になったわけです。 好奇心を刺激されたある新聞記者が調べたところ、旧海軍で連合艦隊司令長官まで務めた高橋三吉海軍大将の子息・健二とわかりました。 高橋三吉は、まれに見るハンサムで、東京の花柳界では抜群にもてたと伝えられています。芝白金の洋館に住み、絵画や書にすぐれ、悠揚として迫らない性格だったといいますから、そういった人柄が子息・健二にも受け継がれていたのかもしれません。 このころ、斜陽族という言葉が流行っていました。 戦前の日本には、華族という貴族階級が存在し、華族令という法律によって多くの社会的・政治的・経済的特権が認められていました。 敗戦後の昭和22年(1947)5月3日、新憲法の施行に伴って華族令が廃止されると、生活に窮する華族が増えてきました。 生活を維持するために、なりふり構わず商売をする元華族も少なくありませんでした。たとえば、公家の名門・中園子爵は、中央線吉祥寺駅前の狭い土間に佃煮や干物などを並べて売る食料品屋を開きました。 鳥尾子爵夫人・鶴代は、生活力ゼロの夫に替わって、生活の資を得るために土建会社の渉外係になりました。渉外係といっても、宴席の取りもちがおもな仕事で、それを通じて、GHQ(占領軍総司令部)の大物・ケーディス大佐との不倫に走りますが、それはまた別の話です。 太宰治はこうした風俗を背景に、昭和22年に小説『斜陽』を発表しました。小説はベストセラーになり、零落した華族や財閥、高級軍人たちは「斜陽族」と呼ばれるようになりました。 軍人も華族並みに扱われたのかと不思議に思う人もいるかもしれませんが、戦前における高級軍人、とくに将官や元帥の社会的地位は、今では想像できないほど高かったのです。 明治憲法下では、陸海軍は天皇に直属しており、その意味で政府と同等でした。軍部と政府との関係が法律に明記されていなかったこともあって、軍部はその気になれば、好きなように行動できました。中国大陸における関東軍の暴走が、その一例です。
戦前における稲垣浩監督の名作『無法松の一生』のなかに、吉岡陸軍大尉未亡人・良子への思慕が象徴的に表現された場面がありましたが、それが軍の検閲によってバッサリ切られてしまいました。理由は、車夫風情が帝国軍人の未亡人に懸想するとはけしからん、ということでした。 そのような軍部高官の令息が、生活のためにサンドイッチマンになったという事実を目の当たりにして、人びとは時代の冷厳な急転換をあらためて実感したのでした。 作詞家・宮川哲夫がこの話に感動して作ったのが、この歌詞です。歌詞には、サンドイッチマンに対する宮川の暖かい共感の気持ちが何カ所にも表れています。 【二木紘三のうた物語「街のサンドイッチマン」(http://duarbo.air-nifty.com/songs/2008/03/post_dd77.html)による】 |