作詞 山崎 正 作曲 渡久地政信 唄 春日 八郎 |
1 粋な黒塀 見越しの松に 仇な姿の 洗い髪 死んだ筈だよ お富さん 生きていたとは お釈迦さまでも 知らぬ仏の お富さん エーサオー 玄治店(げんやだな) 2 過ぎた昔を 恨むじゃないが 風も沁みるよ 傷の跡 久しぶりだな お富さん 今じゃ呼び名も 切られの与三(よさ)よ これで一分じゃ お富さん エーサオー すまされめえ |
3 かけちゃいけない 他人の花に 情かけたが 身のさだめ 愚痴はよそうぜ お富さん せめて今夜は さしつさされつ 飲んで明かそよ お富さん エーサオー 茶わん酒 4 逢えばなつかし 語るも夢さ 誰が弾くやら 明烏(あけがらす) ついてくる気か お富さん 命みじかく 渡る浮世は 雨もつらいぜ お富さん エーサオー 地獄雨 |
1954年(昭和29年)
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春日八郎の歌で1954年(昭和29年)に大ヒットしたこの『お富さん』の歌詞には、歌舞伎ファンなら誰でも知っているというほど有名なせりふの一部、「与話情浮名横櫛(よわなさけうきなのよこぐし)」源氏店(げんやだな)の場の台詞を大量に取り入れている。
『与話情浮名横櫛』(よわなさけうきなのよこぐし)は、歌舞伎世話物の名作の一つである。別名を『源氏店切られ与三』(げんじだな きられよさ)、『お富与三郎』とも。木更津で起きた長唄の師匠四代目芳村伊三郎の実際の事件を元にした一立斎文車(乾坤坊良斎とも)の講談が原作。 切られ与三郎と異名をとる"与三郎(よさぶろう)"がチンピラ仲間の"蝙蝠安(こうもりやす)"に連れられて小銭を強請(ゆすり)に入った妾宅に、かって自分の女だった"お富"が誰かの囲われ者として暮らしているのを見た"与三郎"が"お富"に向かって言うせりふである。妾宅の造りも歌にある通りの「粋な黒塀、見越しの松」のある「玄冶店」。 "お富"はといえば風呂上がりの、まさに「婀娜(あだ)な姿の洗い髪」。鏡に向かって化粧をするお富からは、中年増の色気がたっぷりと発散される場面である。与三郎の体には全部で34ケ所の切り傷があるのですが、この傷ももとはと言えば、3年前、当時やくざの親分の妾だったお富と、人目を盗んで契りを結んだことがバレて切り刻まれたことによるものなのだ。 (与三郎)もし、御新造さんえ、おかみさんえ、----お富さんえ、イヤサお富、久しぶりだなあ。 (お富)そういうお前は。 (与三郎)与三郎だ。 (お富)えっ。 (与三郎)おぬしァ俺を見忘れたか。 (お富)え、------。 (与三郎)しがねえ恋の情けが仇、命の綱の切れたのを、どう取りとめてか木更津から、めぐる月日も三年(みとせ)越し、江戸の親にゃァ勘当受け、よんどころなく鎌倉の、谷七郷(やつしちごう)は食い詰めても、面(つら)に受けたる看板の、疵(きず)がもっけの幸いに、切られ与三(よそう)と異名(いみょう)を取り、押し借り強請(ゆすり)も習おうより、慣れた時代の源氏店(げんやだな)、その白化(しらばけ)か黒塀の、格子作りの囲いもの、死んだと思ったお富たァ、お釈迦様でも気が付くめえ。よくまァおぬしは達者でいたなァ----。 『お富さん』を作曲した渡久地は歌舞伎の事を知らず、最新の音楽であったブギウギのリズムを基にした曲を書いた。だが、この軽快なメロディーは大当たりとなり、「粋な黒塀」、「見越の松」、「他人の花」といったあだっぽい名詞句を何も知らない子供までもが盛んに歌った。「お富さん」は、はじめ、キングのスター歌手であった岡晴夫が歌う予定であったが、岡晴夫がコロムビアに移籍したため、急きょ若手歌手であった春日八郎に歌わせ、春日の出世作となった。 【歌舞伎のおはなし 第14話 玄冶店(http://www2.rosenet.ne.jp/~spa/kabuki/html/ess/ess147.html)】および【フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)与話情浮名横櫛』】による。 |