長崎のお蝶さん


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長崎のお蝶さん
作詞 藤浦  洸
作曲 竹岡 信幸
唄  渡辺はま子
1.ナガサキ 長崎 南の町よ
  丸にやの字の マリヤぶね
  むかしおひげの バテレンを
  待った丸山 いしだたみ
  赤い提灯 灯がついて
  今は涙の お蝶さん

2.ナガサキ 長崎 港の町よ
  みなとそよそよ 南風
  風にたよりが ないゆえに
  いとしかわいい あですがた
  沖を眺めて 背のぴする
  誰を待つのか お蝶さん
3.ナガサキ 長崎 情けの町よ
  なさけひとすじ 立つけむり
  あれはメリケン いくさぶね
  待ったお方は 釆たけれど
  死ぬほどつらい 人連れて
  さてもかなしい お蝶さん







1939年(昭和14年)
(注)「丸にやの字」
 丸屋は「沖に見ゆるは丸屋の船か、丸にやの字の帆が見ゆる」とうたわれた豪商。宝永年中、江戸大伝馬町丸屋の主人がその家で伽羅の名香をたいていたところ、偶然将軍一行がこの店の前を通りかかり、香をききとがめ豪奢を糾問して家人を遠流にした。《http://8608.teacup.com/noyorintaiga/bbsによる》* 宝永(ほうえい)は、日本の元号の一つ。元禄の後、正徳の前。1704年から1710年までの期間を指す。
 また、竹久夢二の「路地のほそみち」と言う作品の中に

	平戸小瀬戸から船が三艘見える
	丸にやの字の帆が見える
と言う文句があるのをたまたま見つけた。
《竹久夢二文学館第2詩集U「露地のほそみち」(http://www.j-texts.com/taisho/rojinoah.html)》


お蝶夫人をテーマにした歌

 歌謡界で「お蝶夫人」がクローズアップするのは昭和8年(1933)である。同年、アメリカ映画「マダム・バタフライ」が公開され、“お蝶夫人ブーム”を招く。長崎では榎津町の中座と昭映座(当時の本古川町)で上映、人気を集める。前後して演劇、音楽分野にも続々、お蝶夫人ものが登場。特にミス・コロムビアの「お蝶夫人の唄」が話題になり、淡谷のり子も「マダム・バタフライの唄」を歌った。芸者歌手・小唄勝太郎も10年に「蝶々さんの子守唄」を、東海林太郎も11年に「お蝶夫人の唄」を発表するなど、各社がお蝶夫人ものを競った。
 レコードはそれぞれに話題を集めたが、戦中から戦後にかけて人気を持続したのが昭和14年に出た渡辺はま子の「長崎のお蝶さん」である。作詞は平戸出身の藤浦洸。“長崎という地名だけでも歌になる”と評価していた作詞家らしく、冒頭から「ナガサキ長崎」とリフレーン、長崎を強く印象づけている。
 当時は国民徴用令公布、物価統制令実施などで、国内は次第に戦争気分が燃え上がった時期だったが、耐乏生活を強いられていた国民の耳に、日本離れしたメロディー(竹岡信幸・作曲)がインパクトを与え、ヒットした。
 昭和32年には美空ひばりの「長崎の蝶々さん」がヒットして、舞台となったグラバー邸には観光客が押し寄せる。同年、創業100周年を迎えた三菱長崎造船所がグラバー邸を長崎市に寄贈。長崎市は長崎の明治村として整備拡充、グラバー園は長崎観光のメッカとなる。
 お蝶夫人をテーマにした歌は22曲あるが、前奏や間奏にそのフレーズを取り入れた歌は数知れない。
《「長崎のお蝶さん」(http://www.pref.nagasaki.jp/bunka/hyakusen/bungaku/008.html)》