作詞 藤田まさと 作曲 大村 能章 唄 東海林太郎 |
1.「徐洲徐洲と人馬は進む 徐洲居良いか住み良いか」 洒落た文句に振り返りゃ お国訛りのおけさ節 ひげが微笑む 麦畑 2.戦友(とも)を背にして道なき道を 往けば戦野は夜の雨 「済まぬ済まぬ」を背中に聞けば 「馬鹿を言うな」とまた進む 兵の歩みの 頼もしさ 3.腕を叩いて遥かな空を 仰ぐ瞳に雲が飛ぶ 遠く祖国を離れ来て しみじみ知った祖国愛 戦友(とも)よ来て見よ あの雲を | 4.眼(まなこ)開けば砲煙万里 鉄の火焔(ほのお)の狂う中 夕陽ゆらゆら身に浴びて 独り平和の色染める 麦の静けさ 逞(たくま)しさ 5.往けど進めど麦また麦の 波の深さよ夜の寒さ 声を殺して黙々と 影を落として粛々(しゅくしゅく)と 兵は徐洲へ 前線へ |
1938年(昭和13年12月) |
「麦と兵隊」の原作は火野葦平(本名 玉井勝則(1906-1960・明治39年-昭和35年)、福岡県北九州市若松区出身)によって著されたが、これは言うまでもなく徐州攻略作戦を舞台にした作品である。昭和13年5月19日、日本軍は中国軍との激戦の末、徐州城西門に突入、「1年はかかる」と海外の軍事専門家が分析していた徐州攻略戦は1週間で終わり、占領後の徐州城内は先刻までの激戦が嘘のように平静で、早くも瓦礫の山の中で市民の日常生活は再開していた。 火野葦平は、徐州会戦に軍報道部員として従軍し、その戦場記録として『麦と兵隊』を発表、それがベストセラーとなり、その後『土と兵隊』『花と兵隊』を書いて兵隊作家として一世を風靡する。これら兵隊三部作は、世界各国で翻訳された。『麦と兵隊』は、1938年8月「改造」に発表、9月に単行本(改造社)が刊行され、1939年12月、『新日本文学全集』(改造社)に「我が戦記」として『土と兵隊』『花と兵隊』とあわせて収録される。 葦平は、『麦と兵隊』「前書」で、戦場を去った後でなければ「この偉大なる現実について、何事も語るべき適切な言葉を持たない」と書いていたが、そこには、理解を越えた戦争の現実に直面してそれを言語化する困難と、軍の検閲による表現の制約と二重の困難があったとみられる。 実は「麦と兵隊」の歌い出しが、もともとは「ああ生きていた生きていた生きていましたお母さん……」であったのに、陸軍報道部の横やりで替えられてしまった。作詞者藤田まさとは『麦と兵隊』の「……時間は何時頃なのか全く判らなかった。右のポケットに入れてあった懐中時計は、何処でぶつかったのか,ガラスがめちゃめちゃに壊れて,短針が飛び、5時14分で止まっていた。これは小林秀雄君が杭州まで持ってきてくれた時計である。一緒に下がって来た兵隊の居る先刻の家に来てみると、部屋は満員で、鼾が聞こえ、もう皆眠っていた。かすかな血の匂いがあった。土の壁にろなわで張った寝台が立てかけてあったので、私はそれを担ぎ出した。それを近くにいくつもあった箱の上に倒して、私はその上に寝ころんだ。久ぶりに横になったような気がした。冷たい風がすうっと来て頬を流れた。お父さん、お母さん、生きていました、生きました、ありがとうございました、といってみた……」(164ページ)の部分に感動して「ああ生きていた……」と作詞したのであった |
「麦と兵隊」のヒットで兵隊シリーズものが相次いで作られたが、「土と兵隊」「花と兵隊」も同じ昭和14年に作られ、「兵隊三部作」と呼ばれていたようだ。また昭和16年には「梅と兵隊」というのも作られた。なお、「花と兵隊」については、歌詞・曲ともにこれまでのところ探し出せないで居る。
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