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紀元節の歌
作詞 高崎正風
作曲 伊沢修二
1.雲に聳(そび)ゆる 高千穂の 
    高根おろしに 草も木も 
  なびきふしけん 大御世(おおみよ)を 
  仰ぐ今日こそ 楽しけれ
 
2.海原なせる 埴安(はにやす)の 
  池の面(おも)より なおひろき 
  恵みの波に 浴(あ)みし世を 
  仰ぐ今日こそ 楽しけれ
3.天津日嗣(あまつひつぎ)の 高みくら 
  千代万代(ちよよろずよ)に 動きなき
  もとい定めし そのかみを
  仰ぐ今日こそ 楽しけれ
 
4.空に輝く 日の本の
  万(よろず)の国に たぐいなき
  国のみはしら たてし世を
  仰ぐ今日こそ 楽しけれ
*「埴安の池」:奈良盆地南部、香具山の北西麓にあった池
1893(明治26)年−官報3037号付録


高崎正風(たかさき・まさかぜ 天保7年7月28日〜明治45年2月28日)  志士、歌人、作詞家。薩摩国川上(現在の鹿児島県鹿児島市)出身。明治4年(1871年)に新政府に出仕。岩倉使節団の一員に任じられ、2年近く欧米諸国を視察。明治8年(1875年)宮中の侍従番長、翌年から御歌掛などをつとめ、明治21年(1888年)には御歌所初代所長に任命された。明治23年(1890年)、皇典講究所所長山田顕義の懇請により初代國學院院長(明治26年まで)。御歌所派とも呼ばれる旧派和歌の中心。「紀元節」(作曲:伊沢修二)、「勧学の歌」(作曲:奥好義)、「水漬く屍」(作曲:吉本光義)などの作詞も担当した。

伊沢修二(いざわ・しゅうじ 嘉永4年6月29日〜大正6年5月3日)  教育者。明治から大正にかけて、近代音楽教育や、吃音矯正などを行う。信濃国伊那谷、高遠城下に高遠藩士の父・勝三郎、母・多計の子として生まれる。1874年(明治7)に愛知師範学校校長、 1879年(明治12)3月には東京師範学校の校長となり、音楽取調掛に任命される。来日したメーソンと協力して西洋音楽を日本へ移植し、『小學唱歌集』を編纂。1888年(明治21)には東京音楽学校、東京盲唖学校の校長。祝日大祭日唱歌「紀元節」や唱歌「皇御国」「来たれや来たれ(皇国の守)」などを作曲。


 1872(明治5)年12月に明治政府によって定められた神武(じんむ)天皇即位日の祝日が紀元節(当初は1月29日に指定されたが、翌年3月紀元節と命名、同年10月、その日は2月11日に変更された)である。
 小学校教育の普及に伴って国民のなかにも祝日として定着していった。とりわけ1940(昭和15)年は、紀元2600年として戦意高揚と国民の精神の統合のために「紀元二千六百年の勅語」が出され、また、全国的なキャンペーンが展開され同年11月10日には、宮城前広場で陸軍軍装の天皇と皇后臨席の下、政府(近衛内閣)主催の「紀元二千六百年記念式典」が開催された。式典はラジオで中継されたが、天皇裕仁の「勅語」の部分だけ中断された(天皇の肉声〔玉音=ぎょくおん〕は、結局、「臣下」の代表者とされた参列者だけしか耳にできなかった。国民が天皇の声を聞いたのは、1945〔昭和20〕年8月15日正午「玉音放送」の時である)。
 さらには、太平洋戦争に際し、1942(昭和17)年2月11日をシンガポール陥落の目標日として設定したことはあまりにも有名である(実際のシンガポール陥落は、同年2月15日午後7時、ブキテマ北部のフォード自動車工場の一室で山下・パーシバル会談が開かれ、山下軍司令官の「イエスか、ノーか」の問いにパーシバル中将は無条件降伏を受諾したときである)。
 なお紀元節は、1948(昭和23)年7月の国民の祝日法制定に際して、日本国憲法の理念に反するとして廃止されたが、1966(昭和41)年、佐藤栄作内閣で2月11日を「建国記念の日」とする祝日法の改正が行われ(翌年2月に政令を公布)、事実上、復活している。