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別れの磯千鳥
作詞   副山 たか子
作曲 フランシスコ座波
唄     近江 俊郎
1.逢うが別れの はじめとは
    知らぬ私じゃ ないけれど
  せつなく残る この思い
  知っているのは 磯千鳥


2 泣いてくれるな そよ風よ
  希望抱いた あの人に
  晴れの笑顔が 何故悲し
  沖のかもめも 涙声
3.希望の船よ ドラの音に
  いとしあなたの 面影が
  はるか彼方に 消えて行く
  青い空には 黒けむり





 
1951年(昭和26年)頃

 この曲の作曲者はハワイの二世であり、戦前日本で作曲を学び、日米開戦直前にハワイに帰国したが、そのとき、彼の手にはこの曲の楽譜があったという。  また、この曲はその後戦後のハワイの日本語ラジオ局で放送されて広まり、これを最初に歌った日本人歌手は美空ひばり、日本でこれを広めた歌手はハワイで二番目に歌った日本人歌手とされる近江俊郎であったというが、その詳細はペンネーム「さくら」さんによって次のサイトで報じられているが、貴重な情報なのでここに載録する。(http://bbs.cgiserve.jp/users/1290/topic/113/:「歌は波間によみがえれ」 )
 なお、ハワイの日本ポピュラー音楽については次のサイトに掲載の中原ゆかり氏による『ハワイの「日本のポピュラー音楽」─第二次世界大戦後から現在まで─』が詳しい。(http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/lcs/kiyou/17_1/095-108_nakahara.pdf)


《南條岳彦著  講談社 1986年5月20日発行》は、『別れの磯千鳥』という歌が、ハワイの日系二世の作曲によるもので、ハワイの歌であるということを、作者がスナックでお酒を飲んでいる時に偶然知るのです。そして、十年あまりの歳月をかけて、この歌がどのようにして誕生したかを追い求めて行く内容になっています。
 作曲:フランシス座波(ザナミと読むが、本名はザハ。沖縄からの移民の二世)  作詞:福山たか子
 フランシスは、日本でレイモンド服部に師事して作曲の勉強をし、一九四一年日米開戦の数ヶ月前に船でホノルル港に帰って来ている。この時、タラップを降りてきたフランシスが手にしていたのが、『別れの磯千鳥』の楽譜だったと、書かれています。

  ★『別れの磯千鳥』のヒット
………フランシスが音楽活動を本格的に再開したのは、一九四六年の秋であった。昔の仲間が集まって演奏活動を再開した。もちろん『別れの磯千鳥』も演奏曲目の中に入っていた。
 ビン川崎のニッポン弦楽団も復活していた。日系人の社会活動も活発になってきていた。レコードを作ろうという話が、ビン川崎とフランシスの間で持ち上がった。
 メンバーが集められた。そしてさっそく、ホノルルの倉庫を改造した録音室でレコードを吹き込んだ。伴奏のために集めたメンバーは「ハワイ松竹オーケストラ」と名づけられた。この時、一度に吹き込んだのかどうかはわからないが、ベルレコードと名づけられた、フランシスたちが最初に作ったレコードは十二枚残っている。
 彼らはフランシスの作曲した曲以外にも、『裏町人生』『目ン無い千鳥』『波浮の港』などの日本の古い歌のレコードも作ったが、やはり人気があったのは『別れの磯千鳥』だった。歌ったのはメリー手島という女性歌手だった。
 前にも書いた酔うに、戦後、ハワイでの日系人の活動開始は予想外に遅く、日本語放送が再開されたのは、翌一九四七年の二月だった。商船国といえども戦争後の混乱から立ち直るのには若干の時間が必要だったらしい。
『別れの磯千鳥』のレコードは、再開されたばかりの日本語放送の電波にのって日系人たちの間に広がり愛唱され始めた。当時の日本語放送のラジオ局は、手持ちのレコードが少なく、日本での新しいヒット曲の輸入もままならず、フランシスたちのレコードを競って放送した。『別れの磯千鳥』は絶大な人気を得た。最初のヒットである。………  

『別れの磯千鳥』のヒットにより、フランシスはハワイの日系人社会の中で名声を高めていく。作曲の依頼や指導、演奏会等と多忙な日々を送っていたが、健康状態は良くなく、ついに一九四九年二月二日、マッキンレー・ハイスクールでの公演で倒れてしまった。二月十七日、病状が急変し危篤状態に陥る。音楽仲間であり、日本語放送のアナウンサーでもあったハリー浦田は、日本語放送をやっている放送局に電話をして、フランシスの危篤を告げ、彼の曲を流してくれるよう懇願した。
 そして、ホノルル中の日本語放送のラジオ局から、いっせいに『別れの磯千鳥』が流れ出し、もう口もきけなくなっていたフランシスの枕もとのラジオからも曲が流れ始めた。ハリーの「聞こえるか」の問いかけに、かすかにうなずき、微笑んだように見えた。以後、意識がなくなり、翌十八日の早朝、フランシスは息をひきとる。三十五歳だった。
 二月十九日付けのハワイタイムスによると、十八日午前五時五十五分、クアキニ病院で忽然として逝った二世の作曲家、布哇松竹音楽団のリーダー座波嘉一君の哀しき葬儀、ハワイには珍しい音楽葬は昨十八日午後四時半ヌアヌ街の細井葬儀所出棺、スアヒ大葬場で催された、会葬者は音楽関係者、放送関係者、同郷人関係者約五百名で近来にない盛儀であった。……


  ★ハワイ日系人の愛唱歌となる
 ハワイでは『別れの磯千鳥』のブームが続いていた。………日本語放送では『別れの磯千鳥』を放送する。レコードが売れる。レストランでは、レコードをかける。ラジオでは繰り返し放送する。その結果、日系人たちはいつもフランシスのレコードを耳にすることになった。この相乗効果が人気をさらに増幅した。日系人の間では『別れの磯千鳥』は愛唱歌の位置を獲得していた。だが、ハワイの日系人の間で、『別れの磯千鳥』がヒットしているというニュースは、日本にはまだ伝わっていなかった。
 フランシスが逝って三カ月たった四月十日、マッキンレー・ハイスクールで、フランシス座波の追悼ショーが開かれた。超満員だった。  一年後の一九五〇年四月、追悼一周年コンサートが開かれた。
 一九五〇年四月といえば、ひばりさんのハワイ・アメリカ公演の一ヵ月前ということになります
  ★美空ひばりの絶唱
 フランシス座波が死んだ翌年の一九五〇年(昭和二五年)の五月、当時十二歳の美空ひばりがハワイにやってきた。朝鮮動乱発生の直前である。ハワイに生還してきた第百大隊の兵士たちが開催した“百大隊の夕”に、ひばりの出演を依頼したのである。
 美空ひばりは『哀しき口笛』『東京ブギウギ』などの自分の歌を歌ったあと、兵士たちの要望に応えて『別れの磯千鳥』を歌っている。まだ譜面を読めない少女が、伴奏のハワイ松竹オーケストラのメンバーからその場で習って『別れの磯千鳥』を歌った。兵士たちの喜び方は熱狂的だったという。日系二世出歩かれらは、自分たちの仲間が作った自分たちの歌を、日本の天才少女が誰よりもうまく歌ってくれたので感動した、と三十年以上たった今も口々に語っている。この歌のイメージは、どう考えてみても、自分の意志で勇躍戦場に向かう兵士を見送る、取り残された恋人の悲しみである。しかし、第百大隊は、ハワイを出ていくときは、誰の見送りもうけていない。それどころか、船に乗せられた兵士たちは、アメリカ本土で抑留されると考えていた者が多かった。それがなぜ、「希望の船よドラの音よ」なのか。兵士たちの裏返した思いだったのだろうか。とにかく、このときの美空ひばりの人気はすばらしかった。後年、日本で『別れの磯千鳥』を歌った歌手十数人のレコードを聞いてみたが、美空ひばりの『別れの磯千鳥』が一番胸に響くものがある。ハワイでも、「やっぱり美空ひばりが一番ネ」という声が多かった。
 ホノルルで書店を経営する藤原実は、美空ひばりがやってくる前、ハワイを訪れた作曲家の古賀政男に『別れの磯千鳥』の譜面を見せたと語っているが、『別れの磯千鳥』は古賀政男の手では発表されていない。この歌を、日本に紹介したのは近江俊郎である。
 ★近江俊郎、ホノルルで歌う★の項に ……一九五一年の四月、古賀政男が日系人慰問訪米芸能団を組織して渡米した。二葉あき子、市丸らにまじって近江俊郎も参加した。古賀政男は、前年にも訪米芸能団を組織していたが、近江俊郎は、初めての渡米だった。当時は日本人の海外渡航はきびしく制限され…… とあります。
 と言うことは、『別れの磯千鳥』を最初に歌った日本の歌手は、ひばりさんだったということになりますよね。
 ひばりさんの追悼番組で、ハワイ公演に関わられた日系の方たちが、『別れの磯千鳥』をひばりさんに教え、その歌を聴いたときのことを語っておられました。その時は単に一つの情報として聞いていましたが、この本を読んで、ひばりさんが『別れの磯千鳥』を歌ったということは、日系の方たちにとっては感慨深い出来事だったのだと、言うことを知りました。