1915年(大正4)4月、芸術座公演の「その前夜」の劇中歌で、
島村抱月からヴェネチア民謡風な劇中歌の依頼を受けた吉井勇は、詩想を
得るのに際し、森鴎外訳、アンデルセンの「即興詩人」の章句がとっさに
浮かび、これを下敷きにしてこの詩を書いたという。 中山晋平は作曲の締切が 目前に迫ったある日<ハハキトク スグカエレ>の電報を受け取り、 長野県への帰郷の車中でこの曲をまとめたといわれる。 また、1952年度 (昭和27)最優秀作品に選ばれた黒澤明演出・監督の東宝映画 「生きる」のテーマ音楽にこの曲が使われ、注目されたのは記憶に新しい。 http://plaza.rakuten.co.jp/malica/021000 |
作詞 吉井 勇 作曲 中山 晋平 唄 松井須磨子 |
1 いのち短し 恋せよ少女(おとめ) 朱(あか)き唇 褪(あ)せぬ間に 熱き血潮の 冷えぬ間に 明日の月日は ないものを 2 いのち短し 恋せよ少女 いざ手をとりて 彼(か)の舟に いざ燃ゆる頬を 君が頬に ここには誰れも 来ぬものを |
3 いのち短し 恋せよ少女 波に漂う 舟の様(よ)に 君が柔手(やわて)を 我が肩に ここには人目も 無いものを 4 いのち短し 恋せよ少女 黒髪の色 褪せぬ間に 心のほのお 消えぬ間に 今日はふたたび 来ぬものを |
1915年(大正 4年) |
-------------------------------------------------------------------------------- 〔蛇足〕 松井須磨子は、明治19年、長野県松代に生まれ、上京して、早稲田大学教授・島村抱月が主催する劇団「文芸協会」の俳優養成所に入りました。初公演『ハムレット』のオフィーリアで認められ,続いて『人形の家』のノラなどで成功を収め、劇団のスターとなりました。その間、妻子ある師・島村抱月と恋愛関係に入ったことで、世の非難を浴び、文芸協会から追放されます。しかし、それに屈することなく、同じく早大を追われた抱月とともに、劇団「芸術座」を結成、以後、女座長として毎公演主役を演じました。それらの公演では、須磨子が劇中歌を歌うのが特色で、とくに『復活』で歌われた『カチューシャ』 (カチューシャ可愛や、別れのつらさ……の歌)や、『その前夜』の『ゴンドラの唄』は、大評判になりました。 松井須磨子は、大正8年、急逝した抱月のあとを追い、『カルメン』公演中に自殺しました。 これらの歌を作曲したのが、長野県から上京して、抱月の書生になっていた中山晋平でした。中山晋平は、これらの作曲によって一躍有名作曲家となり、以後『船頭小唄』 『出船の港』『東京行進曲』『東京音頭』などのヒット曲を次々と発表します。歌謡曲や民謡のほか、『舌切雀』『証城寺の狸囃子』『砂山』『てるてる坊主』などの童謡も数多く作曲しました。 『ゴンドラの唄』の作詞者は、明星派の歌人として出発し、石川啄木などとともに、文芸誌『スバル』の創刊に当たった吉井勇です。吉井勇は、伯爵家の次男に生まれましたが、長男が早世したため、嗣子となりました。しかし、放蕩と情痴に日々を過ごしたあげく、爵位を返上し、晩年を京都で過ごしました。「人の世にふたたびあらわぬわかき日の宴のあとを秋の風ふく」(『酒ほがひ』)などの名歌を数多く残しています。
『ゴンドラの唄』は、戦後、黒沢明監督の傑作の1つ『生きる』によって再び有名になりました。癌のため余命4か月くらいとの宣告を受けた市役所の市民課長 (志村喬) が,非人間的な官僚主義の末端で無意味に生きた〈勤続30年〉を取り返すために,機械的に処理していた古い陳情書を取り出し,下町の低地を埋め立てて小さな児童公園を作ることに挺身して死ぬ……という映画です。志村喬が、雪の降る児童公園で1人ブランコに乗りながら、『ゴンドラの唄』を口ずさむシーンが、深い感動を呼びました。 |