岸壁の母
作詞 藤田まさと
台詞 室町京之介
作曲 平川 浪竜
唄 菊池 章子
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1.母は来ました 今日も来た
この岸壁に 今日も来た
とどかぬ願いと 知りながら
もしやもしやに もしやもしやに
ひかされて
(台詞)
また引揚船が帰って来たに、今度もあの子は帰らない……
この岸壁で待っているわしの姿が見えんのか……
港の名前は舞鶴なのに何故飛んで来てはくれぬのじゃ……。
帰れないなら大きな声で……
お願い……
せめて、せめて一言……
2.呼んで下さい おがみます
あゝおっ母さん よく来たと
海山千里と 云うけれど
何で遠かろ 何で遠かろ
母と子に
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(台詞)
あれから十年……
あの子はどうしているじゃろう。
雪と風のシベリアは寒いじゃろう……
つらかったじゃろうといのちの限り抱きしめて……
この肌で温めてやりたい……
その日の来るまで死にはせん。
いつまでも待っている……
3.悲願十年 この祈り
神様だけが 知っている
流れる雲より 風よりも
つらいさだめの つらいさだめの
杖ひとつ
(台詞)
ああ風よ、心あらば伝えてよ。
愛(いと)し子待ちて今日も又
怒涛(どとう)砕くる岸壁に立つ母の姿を……
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なお、このほかにも、本格的浪花節調で台詞が違うものもある。そちらについては次のサイトにアクセスされたい。
http://tricolored.hp.infoseek.co.jp/10-07ganpeki.htm
平沖に停泊した引揚船からランチに乗り換え桟橋へ、人々の重味でしなう木造の桟橋を渡るとすぐ目の前に「歓迎」のアーチ、
それを渡ると夢にまで見た祖国の土だ、ふるえる足を踏みしめながら感激の第一歩をしるす。桟橋に立ち入れない出迎えの家族や
関係者達は、アーチの周りに府県名や肉親の名前を大書したノポリを立て、帰って来る人の姿を求めて、いまか、いまかと待ちわびる。
やがて、そこかしこから悲鳴にも似た嗚咽を、爆発するような喜びの声の交錯・・・。
(朝日新聞より)
これが引揚船が着くたびに何時も見られた出迎えの光景である。こうして船の着く日は全国各地からまだ帰らぬ夫やわが子を待ち
わびていた留守家族が出迎えにあるいはその消息を求めて、どっと繰り込んできた。こうした出迎えの人々のなかに、いつのころからか、
毎回、同じ顔ぶれの人が浅橋の脇にたたずんでいる姿が見受けられるようになり、これが、いつしか報道陣の目に止まり「岸壁の母」
ぁるいは「岸壁の妻」として取り上げられ、たちまち有名になったのである。もっとも、こうした人達は、当時、マスコミに取り上げ
られた特定の人だけでなく、ほかにも、たくさんの人達がそうであった。
なかでも、レコードで一躍有名になった「岸壁の母」のモデルといわれる東京都の老婦人は、昭和25年1月、ナホトカからの引揚船が
舞鶴へ入港して以来6年間その都度、舞鶴へやって来て息子の姿を求め「もしや、もしや」と桟橋に立ち続けた。当時、東京〜京都間は
急行列車でも一晩がかり、そして京都〜東舞鶴間も鈍行列車で約4時間、時間的にも経済の面でもつらい旅であったと思われる。
31年に息子の戦死公報が届いたが信用せず、いつかは帰って来る、と37年間抱き続けた願いも空しく、遂に56年7月「もしや」が果たせない
まま亡くなった。
こうした情景を歌った「岸壁の母」のレコードは、まず昭和29年10月、菊池章子がテイチクレコードヘ吹き込み、次いで47年2月、
二葉百合子がセリフ入りでキングレコードヘ吹き込んだのが爆発的な人気を呼んだのである。
また、歌にこそならなかったが「岸壁の母」にも増して、当時、話題を呼んだのが「岸壁の妻」である。鹿児島県のある婦人は、
満州で別れた獣医のご主人を待ちわびて26回も舞鶴へやって来て桟橋のかたわらに立っていた、という。また舞鶴市内のある婦人は、
引揚船の出迎えに便利なようにと、平桟橋が見える舞鶴市立大浦中学校(当時)に用務員として勤め、3人の子供を育てながら13年間も
帰らぬ夫を待ち続けた。あるいはまた、市内の同胞援護会の寮には、60数人の戦争未亡人に交って、一時は夫を待つ9人の妻が入寮し、
船が着くたびに桟橋へかけつけ、その合間には手仕事やミシンを踏みながら、2年ないし3年も帰らぬ夫に思いをはせながら待ちわびて
いたという話も残っている。
レコードで一躍有名になった「岸壁の母」のモデルは、東京都の老婦人で端野いせさんだった。昭和25年1月から引揚船が入港するたび、
6年間岸壁で我が子を待ち続けた。一人息子の新二さんが昭和20年8月15日戦死したとの死亡通知書を昭和31年9月25日付けで
東京都知事から受け取ってからも、「新二はきっと帰ってくる」と信じて、岸壁で待ち続けたが、昭和56年7月1日午前3時55分に
享年81歳でこの世を去った。
(http://www.maizuru-bunkajigyoudan.or.jp/hikiage_homepage/again/agein_r.html#)
ところが、である。死んだはずの一人息子は生きていた。2000.8.11の京都新聞は、こう伝えている。
「大ヒット曲「岸壁の母」のモデルとなった端野いせさん(1981年
に死去)が待ち続けた息子の新二さんが上海で生存していることを、
現地を訪れた慰霊墓参団が確認していたことが10日、分かった。新
二さんは「今更帰れない」と話しているという。
墓参団の一人、舞鶴市の唐桑敏行さん(76)によると、戦後現地に残
留した日本人からの情報で居場所が分かった。1996年から1999
年にかけて3回面談し、生い立ちや、持っていた身分証明書から新二
さんに間違いないという。
唐桑さんが「帰ってこないか」と問い掛けると「自分は死んだことになっ
ている。今更帰って、あれだけ有名になった母の顔をつぶすことはでき
ない」と固辞したという。
新二さんはシベリア抑留後、旧満州に移送された。現地で結婚し、十
七、八歳ぐらいの息子が二人おり、建設作業などの仕事をしていると
いう。
端野さんは終戦後、引き揚げ船が着く舞鶴港に通い詰め、その姿を
「岸壁の母」として、1954年に菊池章子が歌い、その後二葉百合子
のリバイバル曲で大ヒットした」(共同通信)
(http://home10.highway.ne.jp/fujix/darwin22.htmによる)
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映画「岸壁の母」
製作=東宝映画 配給=東宝(1976.12.11)
第二次大戦の戦地からいまだ帰らぬわが子への思いを切々と歌った二葉百合子の同名のヒット曲の映画化で、
幾多の悲しみを乗り越えて、ひたすらわが子の帰りを待ち続ける母の姿を描く。
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監督 ................ 大森健次郎
脚本 ................ 村尾昭
原作 ................ 端野いせ
出演 ................ 中村玉緒 江藤潤 林寛子 荒木道子 北村和夫 伊藤雄之助 賀原夏子 二葉百合子 大門正明
(http://www.jmdb.ne.jp/1976/cz004030.htmおよびhttp://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD18608/による。)
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