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ダンスパーティの夜
作詞 和田隆夫
作曲 林伊佐緒
唄  林伊佐緒
1 赤いドレスが よく似合う
  君と初めて 会ったのは
  ダンスパーティの 夜だった
  踊り疲れて 二人で
  ビルのテラスに 出てみたら
  星がきれいな 夜だった

2 燃える想いを 秘めながら
  そっと唇 ふれたのも
  ダンスパーティの 夜だった
  甘くせつない ブルースよ
  何にも言わずに 頬よせて
  二人いつまでも 踊ったね
3 熱い泪を ためながら
  君が別れを 告げたのも
  ダンスパーティの 夜だった
  はかない夢と あきらめて
  忘れましょうと 言った君
  星が冷たい 夜だった







1950年(昭和25年)

〔蛇足〕大正7年(1918)、横浜市鶴見の花月園に欧米流の社交ダンス場が誕生して以降、わが国でも、多くの人びとが社交ダンス (ソーシャルダンス)を楽しむようになった。しかし、第二次大戦が始まり、「国民精神総動員」が進むと、「ダンスホールは わが国の醇風 美俗を破壊し、何ら益するところがない」というので、次々と閉鎖された。東京のダンスホールがいっせいに閉鎖されたのは、 昭和15年(1940) 10月31日のこと。この日には、各ホールとも、名残を惜しむ愛好者たちで超満員になったそうである。
 戦争が 終わって、生活にやや余裕が出てくると、社交ダンスはまた盛んになる。ダンスホールも盛況になり、さまざまな会でダンス パーティが催され、男女の出会いの場となった。昭和25年(1950)に発表されたこの歌は、そんな風俗を反映している。

 日本人が初めてソーシャルダンスというものを見たのは、万延元年(1860)、新見豊前守正興を正使とする遣米使節がワシントン で歓迎を受けたとき。副使・村垣淡路守範正は、国務長官レウス・カスの夜会に招かれたとき、ダンスを見た感想を次のように 書いている。
「男女組み合いて足をそばだて、調子につれてめぐること、こま鼠の回るようであって、なんの風情もない。高官の人も老婦も、 若い人も、みなこのダンスを好んでする由である。数百人の男女が、あちらのテーブルの酒や肉を飲んだり食べたりして、また こちらにきて代わる代わる踊る。夜遅くまで遊ぶ。まったく夢かうつつかわからぬほど、あきれたことだ。およそ礼儀のない国 とはいいながら、外国の使節を宰相が招いてのことだ。無礼ととがめれば、限りはない。礼もなく、義もなく、ただ親の一字を 表すものと見て、許した」
(http://homepage2.nifty.com/duarbo/versoj/v-sengokayou/dance-partyno.htmによる)