チャイナ・タンゴ


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チャイナ・タンゴ
作詞 藤浦 洸
作曲 服部良一
唄  中野忠晴
1 チャイナ・タンゴ 恋の唄
  紅の堤燈(ちょうちん) ゆらゆらと
  風にゆれ 唄にゆれ
  ゆれてくれゆく 支那の街
  チャイナ・タウン 月の夜
  チャイナ・タンゴ 夢はほのぼのと
  チャルメラも 消えてゆく
  遠い赤い灯 青い灯も
  クーニャンの 前髪の
  やるせなくなく 夜は更ける 
2 チャイナ・タンゴ 夜の唄
  深い夜空に しっぽりと
  霧に濡れ 唄に濡れ
  蘇州がよいの ジャンク船
  チャイナ・タウン 月の夜
  チャイナ・タンゴ 夢はほのぼのと
  街角の 紅の窓
  青いひすいの 玉ゆれて
  クーニャンの 前髪に
  影もたのしく 夜は更ける

1939年(昭和14年)


中野 忠晴(1909〜1970);歌手・作曲家。

 武蔵野音楽学校を卒業後、作曲家・山田耕筰に見出され1932年コロムビアレコードから歌手としてデビュー。初期の古賀政男の作品など流行歌的なものを相当数吹き込むが、1933年中野が自ら育てたリズム・ボーイズとともにレコーディングした「山の人気者」が大ヒット。その後、「小さな喫茶店」「バンジョーで唄えば」などをヒットさせ、ディック・ミネと共に1930年代の和製ジャズ界をリードした。1936年に服部良一がコロムビアに入社後は、リズム・ボーイズ&シスターズの育成に力を入れジャズコーラスの先駆にひと役買っている。
 1940年代は歌手活動よりもプロデューサーとして活躍し、1951年キングレコードに移籍後は作曲家となり「おーい中村君」(歌・若原一郎)「達者でナ」(歌・三橋美智也)などの作品をヒットさせた。自ら歌謡曲歌手の養成学校を設立していることを考えると、戦後はもっぱら流行歌の分野に専念してしまったといえよう。しかし、1930年代の日本の音楽界に新風を吹き込んだジャズソングブームにおける中野忠晴の功績は大きい。
 なお、名古屋大学文学部に2004年度卒業論文として提出された《中野忠晴の功績とその評価――主に戦前期から――(http://lavian.hp.infoseek.co.jp/)》において、中野忠晴に関する実に詳しい紹介があるので参照されたい。