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砂山
作詞 北原白秋
作曲 中山晋平
  海は荒海(あらうみ)、向ふは佐渡(さど)よ、
  すずめ啼け啼け、もう日はくれた。
  みんな呼べ呼べ、お星さま出たぞ。

  暮れりゃ砂山、汐鳴(しおなり)ばかり、
  すずめちりぢり、又風荒れる。
  みんなちりぢり、もう誰も見えぬ。

  かへろかへろよ。茱萸原(ぐみはら)わけて、
  すずめさよなら、さよならあした、
  海よさよなら、さよならあした。
1922年(大正11年)


 北原白秋の『砂山』には、現在、曲調が異なる2つの『砂山』が世に知られている。大正11年発表時のものは中山晋平作曲で、「童謡」というより「民謡」に近い響きを持った曲で、これに対し昭和元年に作られた山田耕筰*作曲のものは「歌曲」といった感じがする。

 大正11年の6月半ば、白秋は新潟市の師範学校で行われた童謡音楽会に出席し、その席上、「新潟の童謡を作って欲しい」と依頼された白秋は、会が終わった夕刻に、学校の近所にある寄居浜を散策した。その時の光景を、後に白秋はこう語っている。

 「その夕方、会が済んでから、学校の先生たちと浜の方へ出て見ました。それはさすがに北国の浜だと思はれました。全く小田原あたりと違つてゐます。驚いたのは砂山の茱萸藪で、見渡す限り茱萸の原つぱでした。そこに雀が沢山啼いたり飛んだりしてゐました。その砂山の下は砂浜で、その砂浜には、藁屋根で壁も蓆(むしろ)張りの、ちやうど私の木菟の家のやうなお茶屋が四つ五つ、ぽつんぽつんと竝(なら)んで、風に吹きさらしになつてゐました。その前は荒海で、向うに佐渡が島が見え、灰色の雲が低く垂れて、今にも雨が降り出しさうになつて、さうして日が暮れかけてゐました。砂浜には子供たちが砂を掘つたり、鬼ごつこをしたりして遊んでゐました。日がとつぷりと暮れてから、私たちは帰りかけましたが、暗い砂山の窪みにはまだ、二三人の子供たちが残つて、赤い火を焚いてゐました。それは淋しいものでした」(『お話・日本の童謡』アルス社 大正13年 より[『白秋全集16』に収録])
 この情景を元に、『砂山』は作られた。歌詞の1番では浜の風景が、2番では背後の砂山の風景が、そして3番では浜から砂山の茱萸原をかきわけて帰る子供の様子が、それぞれ描かれている。

 『砂山』の歌碑は、寄居浜にほど近い護国神社脇の松林の中にある。また、この浜は別名「夕日海岸」と呼ばれ、夕日の絶景ポイントになっている。 【「ああ我が心の童謡 第18回砂山」(http://www.maboroshi-ch.com/edu/ext_27.htm)による。】